第7話 Lies and Truth(7)

(1)


 深夜、シャロンは一冊の本を手に、再び少女の部屋の前に佇んでいた。


  あの後、憤然と去っていくマーガレットの後を追っていると、この本が廊下に落ちているのを発見したのだ。きっと少女の物に違いない。マーガレットに気づかれないよう素早く本を拾い上げる。人々が寝静まった時間帯に少女に本を返しに行ってやろう、そう心に決めて。


 静かに部屋の扉を開ける。予想通り、灯りは消えていた。

 室内中央、天蓋付きのベッドからは微かに規則正しい寝息が聞こえてくる。

 強盗か、はたまた夜這いでもしにきたみたいで気が引けないでもないが、万が一騒がれでもしたら、どちらにとっても不都合が生じる。それ以上に、単純な話、眠っているのを起こしたら可哀想だ。こっそりと枕元に本を置いたら、早々に退散してしまおう。

 そんなことを考えながら、枕元まで近づいたシャロンは少女の寝顔を見下ろす。相変わらず顔色は冴えないが、とても穏やかな寝顔。

 昼間の怯えきった表情との落差に、柄にもなく思わず和んでしまった。つい、優しく少女の頭を撫でてしまったのだ。案の定、少女はぱちりと目を開いた。

  弾かれたように飛び起きると、少女は警戒心を剥き出しにさせ、両手で掛布にしがみついた。目を覚ましたら、枕元に(昼間初めて会ったばかりの)よく知らない男が立ち尽くしていたのだから、当然と言えば当然の反応だろう。


「あ……、いや、その……。すみません、こんな夜遅く勝手に貴女の部屋に侵入しただけでなく、お休みになられているところ起こしてしまい……。重ね重ねの非礼、心よりお詫びいたします。私は、ただ、この本を貴女に返そうと思っただけでして」


 狼狽えながら本を差し出すと、少女は奪い返す勢いで彼の手から本を取り上げた。そして、それはそれは大事そうに、本をギュッと胸に抱きかかえた。


「……あ、あの……。……昼間も、ですけど、ありがとう、ございます……」

「いえ、礼には及びません。随分と読み込まれているようでしたし、今のご様子から、貴女にとって余程大切なものなのでしょう。お返しできて本当によかった」


 ニコリと微笑みかけるシャロンにつられて、少女も控えめに笑い返す。

 笑っているのか、泣いているのかよく分からない、ぎこちないばかりの下手な笑い方だったが、初めて見せてくれた少女の笑顔にシャロンはちょっとした感動を覚えた。


「……実は、この本は、お姉様がご機嫌を損ねてひどくお怒りになっていた時、階段から投げ捨てたものの一部で……。はしたない、とは思いましたが……、どうしても本を読んでみたくて……、こっそり拾ったのです……。ただ、わたしは、勉強どころか、字の読み書きもちゃんと教えてもらっていなかったので、一緒に捨てられていた、たくさんの言葉が乗っている分厚い本辞書で少しずつ、少しずつ覚えて……。それから、この本を読み始めました……」


 またもやシャロンは衝撃を受けることとなった。

 レズモンド家程の良家の子女であれば、識字できて当然どころか、幼少時から専属の家庭教師を雇い、英才教育を受けて育つというのに。この少女は、この歳10代前半になってもまともな教育を受けていないのだから。

 もう一つ、シャロンが驚いたのは、教育を受けていない少女が独学で児童書とはいえ、本を読めるようになったことだった。

 この少女は大変な努力家で、本当はとても賢い娘だろう。

 辛い境遇下に置かれているのに、ただ嘆くばかりでなく、彼女なりに自身を成長させるべく必死な姿に、少なからず感動を覚えた。


「貴女は、本を読むのがお好きなのですね」

「……はい。でも、まだ、ようやくこの本を一通り読み終えたばかりですが……」

「リトル・レディ。宜しければ、今後、貴女がより多くの本が読むことができるように、私が字や勉強を教えようと思いますが、いかがでしょうか??」


 少女は淡い灰色の瞳を思い切り見開くと、瞬きもせずシャロンを食い入るように見入った。


「……貴方は、一体……」

「申し遅れました。貴女の姉君、レディ・マーガレットの婚約者、シャロン・マクレガーと申します」

「……お姉さまの……??初めて聞いたわ……」

 やはり、少女は何も知らない、らしい。

 小首を傾げる無垢な少女に、シャロンの胸の奥が軋む。

「つまり、私にとって貴女は義理の妹に当たる方ですので、大切にするのは当然のこと、ただし、貴女がお嫌であれば……」

「……いいえ!!」

 シャロンの言葉に被せるように、少女は語気を荒げて否定の意を示す。

「いやだなんて……、そんな、私は嬉しいのです……。こんな私に、親切にしてくれる方は初めてで……。……こちらこそ、お願いします!!」


 ベッドにちょこんと座ったまま、少女はシャロンに向かって深々と頭を垂れた。

 こうして、シャロンとグレッチェンは屋敷の人々の目を掻い潜り、夜な夜な秘密の交流を始めたのだった。








(2)

 

 ――約二週間後――



 扉を叩く音と「失礼致します」という呼びかけと共に、紅茶と菓子を乗せたトレーを手に、初老のメイドがシャロンに宛がわれた部屋へ入室する。

 カンテラの灯りを頼りに医学書を読み耽っていたシャロンは、本から顔を上げるなり、またか、と、思わず眉を顰めそうになった。何とか笑顔を装い、「ありがとうございます。こんな夜更けにお仕事ご苦労様ですね」と、メイドに労いの言葉をかける。

 メイドは返事の代わりに軽く頭を下げ、机上にトレーを乗せると速やかに部屋から立ち去って行った。途端に、わざとらしいくらいに大きく溜め息を自然と漏れてしまう。


 シャロンが溜め息をついた理由――、メイドに対してではなく、机上の菓子類――、もっと言えば、『甘い物は脳を活性化させるから勉強が捗るのよ』と主張して止まず、毎晩のように、夜食に菓子を用意させるマーガレットに向けてのもの。

 マーガレットなりの気遣いなのは充分に理解している。

 しかし、甘い物を食べることが脳の活性化に繋がるなど、医学的に実証されている訳ではない。単純に彼女の趣味嗜好に寄るものだろう。医学を学ぶ者から言わせれば、眉唾もいいところ。

 更に言わせてもらうと、シャロンは甘い物が苦手だった。お茶の時間の菓子ですら少々無理を押して食べているくらいなのに、夜食にまで甘い物が出てくると正直な話、うんざりしてしまう。

 だが、一度、マーガレットにそれとなく『甘い物が苦手だから、夜食を菓子にするのは勘弁して欲しい』と言う旨を、言葉に何層ものオブラートで包み、物凄く柔らかく伝えてみたものの、たちまち怒髪天を突く勢いで怒り狂い、あわや婚約破棄までされかけた為、それ以上は何も言えなくなってしまったのだ。


 小皿の上の菓子を目の端で一瞥する。

 色鮮やかな桃色と黄色のスポンジを交互に、三×三の九つに並べてジャムで張り合わせ、周りをマジパンで包んだ四角形のお菓子、チャーチウィンドウケーキ。

 ステンドグラスのような見た目からして、いかにも女、子供が喜びそうだな……、と思った瞬間、名案が閃いた。あの痩せっぽっちの、小さな灰かぶり姫に持っていってあげようか。


 あれくらいの年頃の少女なら甘い物が好きだろうし、自分が嫌々ながら無理矢理胃に流し込むより、喜んでくれるだろう者に食べてもらう方が断然良い。ちょうど、そろそろ少女の部屋へ足を運ぶ時間になる。

 椅子から立ち上がり、カンテラの灯りを落とすと、本と辞書数冊と小皿を手に、 自室から少女の部屋へ向かう。

 いつものように、部屋の前で少女の名を呼ぶ。すぐに扉が開き、中から灰色の髪と瞳をした、浮浪孤児と見紛う程に痩せ細った少女がひょっこりと顔を覗かせる。シャロンは少女ににっこりと優しく笑いかける。


「アッシュ。今日は君に良いものを持ってきたんだ」

「良いもの……、ですか??」


 天涯付きの広いベッドの上で並んで腰かけると、シャロンは小皿を少女に差し出した。

 ところが、シャロンの予想に反し、少女は喜ぶどころか明らかに戸惑ったように皿の上のケーキとシャロンとを何度も何度も見比べている。もしかして甘い物は嫌いだったのか、と、尋ねようとした時だった。


「……シャロンさん、この食べ物は一体何なのですか??お皿の上に乗っているということは、食べ物……、ですよね??わたし、こんなきれいな色の食べ物、生まれて初めて見ました」

 少女の、上流階級の娘とは到底思えない発言に、シャロンは一瞬返答に詰まるも、即座に答える。

「これは……、チャーチウィンドウケーキという菓子だよ。食べたことがなかったのかい??」

「はい。そもそもお菓子というものを、実物を見るのが初めてなんです。ご本に書いてあるみたいに、お菓子って本当にかわいらしい見た目なんですね。何だか食べるのがもったいない気がします」


 少女は皿を胸辺りまで下げて上から覗き込み、ケーキの形状や色合いをじっくりと観察し始めている。一方で、ケーキに興味津々な少女を尻目に、好き嫌い以前に食べたことすらないなんて……、とシャロンはまたしてもこの少女から強い衝撃を受けてしまっていた。だが、気を取り直し、わざとからかうような軽い口調で少女に問い掛ける。


「アッシュ。食べるのが惜しくなる気持ちは分からないでもない。でも、君の、誰よりも旺盛な知的好奇心を完全に満たすには是非とも食べてみるべきじゃないか??フォークとナイフは用意していないが、別に手掴みで食べたって、私は一々はしたないなどと咎めたりはしないよ」

「んー……、そうですね……」


 少女はしばらくの間、小皿を膝に乗せたまま考え込んでいたが、そのうち、おずおずとケーキに手を伸ばした。小さなケーキを更に一欠けらだけ千切り、恐る恐る口に含む。少女がゴクンと欠片を飲み込むのを確認すると、長い髪に埋もれた横顔を覗き込む。


「お味の程はどうだね??」

「……お、おいしい、です……」

「そうか、それは良かったよ」

「あの……」


  小さな子供がはにかむように、少女は全身をもじもじと捩りながら、「……一口だけじゃなくて……、もう少しだけ、食べてもいいですか……??」と、甘えを含んだ声色で尋ねてきた。

 年齢以上に幼く愛らしい少女の仕草に、シャロンは噴き出しそうになるのを堪えながら、「これは君のために持ってきたものだから、もう少しだけと言わずに全部食べればいいよ」と答える。

 ところが、何を思ったのか、少女は小さなケーキを更に半分に分け、シャロンに手渡してきたのだ。


「いいえ、おいしいものをひとりじめするのはいけないのです。なので、シャロンさんも食べてください」


 ぎこちなくも、いつになく嬉しそうな少女の精一杯の笑顔を曇らせたくない。

 仕方ないなぁ、と思いつつ、手渡されたケーキの欠片を口に放り込む。

 苦手なはずの、スポンジのもさもさした食感や甘ったるさが不思議と美味いと感じる。


 シャロンはしきりに首を傾げていたが、彼の中で少女の存在が日増しに大きくなっているからだとは、露ほどにも思い至らなかった。

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