第6話 Lies and Truth(6)

(1)


 あれは、いつの頃だったか。

 少なくとも九年前、シャロンがまだ医学生として王都で暮らしていた時だ。

 当時のシャロンは猛勉強の末、この国有数の名門大学へ奨学生として入学し、高名な医学博士レズモンドの愛娘マーガレットと婚約中だった。


 いくら成績優秀な学生とはいえ、所詮は地方都市の中流家庭出身者。名門大学を卒業したところで、せいぜい町医者か軍医として働くことくらいしか叶わない。

 シャロンが医者を目指したのは阿片の危険性を世に広めるため。その研究を医学界の重鎮達に認めてもらえなければならない。

 だが、上流階級出身者がほとんどを占める医学界では、若輩者なのに加えて中流出身のシャロンなどまず相手にされないだろう。だから、有力な後ろ盾が欲しかった。そこでシャロンは、同じ大学に通うマーガレットに近づいた。


 マーガレットはアッシュブロンドの巻き毛と深緑の瞳が美しい女性で、上流階級の令嬢にありがちな我が儘で高慢な女性ではあったが、世間知らずでもあった。彼女を篭絡するのは、整った容姿に加え、早熟で女性扱いに手馴れているシャロンには赤子の手を捻るよりも簡単だった。

 交際当初こそ身分差を理由に、レズモンド博士に反対されていたものの、いつしか博士に気に入られていった。残すところは、無事に大学を卒業し、医師国家免許を取得、マーガレットとの結婚を果たすのみ。


 全てが順風満帆に事が進んでいる。

 これまでの血の滲むような努力は決して無駄ではなかった。


 そう、『いずれ我が家の娘婿となるのだから、遠慮はいらないぞ』という博士の言葉に甘え、レズモンド家に長期滞在し始めたシャロンが広大な屋敷の中で迷ってしまった際、廊下の隅で昏倒していた少女を見つけてしまうまでは――


 初めて少女を目にした時、死んでいるのでは……と、一瞬ヒヤリとした。少女には生者の質感が全く感じられず、幽霊のように思えたから。 

 幽霊なんて非科学的な発想など、馬鹿馬鹿しい。くだらない、と頭を振り、慌てて少女の傍に駆け寄る。間近で見る少女の、病的なまでの身体の細さと顔色の悪さに愕然となった。

 着用する寝間着の質の良さから察するに、上流階級の娘だろうことは間違いない、筈なのに。下手な下層の浮浪孤児なんかよりもずっと不健康そうだった。


 そもそも、レズモンド家の娘はマーガレットただ一人。この少女は一体何者なのか。親戚の娘??密かに養子縁組していた孤児??

 シャロンの脳裏に一つの噂が過ぎる。


『レズモンド博士にはマーガレットの他にもう一人、娘がいる。彼の最愛の妻がその娘の出産で命を落としたせいで憎しみを抱き、屋敷に幽閉し、存在をひた隠しにしている』


 レズモンド博士は人柄の良さにも定評があり、人望も厚い。だから、彼に嫉妬する者達が流す、根拠なき噂だとシャロンは聞き流していた。博士からもマーガレットからも、そのような娘がいるという話を聞かされたことだって一度たりとてない。


「……ぅう……」


 少女の、カサカサに乾ききり、ひび割れた青紫色の唇から、蚊の鳴くような呻き声が漏れる。その声(にならない声)で現実に引き戻された。この少女が何者か探るよりも介抱する方が先決だ。

 シャロンは少女の半身をそっと抱き起こした。すると、少女はもどかしい程ゆっくりと目を開き、意識を取り戻したのだ。


「――!!――」

 シャロンと目が合った途端、少女はたちまち身体をガチガチに強張らせ、すっかり萎縮してしまった。小枝のような身体も小刻みに震えている。

「ご無礼をお許しください、リトル・レディ。倒れていた貴女をどうしても見過ごすことができず、やむを得ずお身体に触れてしまいました。起き上がれますか??」

 少女はシャロンに怯えながらも小さく頷き、立ち上がろうとした――、が。まだ頭が朦朧とするのか、足取りの覚束なさときたら!前へ踏み出す脚の、今にもポキリと折れそうな細さも相まって、余りに危なっかしい。シャロンは見るに見兼ね、気づけば少女の身体を軽々と抱き上げていた。

「失礼。度重なるご無礼、お許しを。ただ、無理を押して歩くよりも、こうして私が抱えた方が早いと思った所存です。このまま貴女をお部屋へお送りしたいのですが、ご案内いただけないでしょうか??」


 少女は恐怖よりも驚きの方が勝ったらしく、間の抜けた顔でシャロンを無言で見つめていたのも束の間。ぼそぼそと小さな声で自室の場所を、指先で差し示しながら教えてくれた。案内に従い、少女の部屋へと向かう。

 少女の部屋は同じ階の最奥にあった。そこは屋敷の最北に当たるせいで日当たりが悪く、明るい筈の日中であっても暗く陰鬱な雰囲気を醸し出している。おまけに人目に付きづらい場所でもあった。


「……あ、あの……、どなたか知りませんが……、……ありがとう、ございます……」


 だらしなく伸び切った灰色の髪に埋もれた、同じ色の瞳でシャロンをおずおずと見上げ、少女は礼を述べる。人慣れしない子猫みたいだ、と思いながら、少女を床に降ろした時だった。


「そこで何をしているの!?」


 聞き慣れた、やけに甲高い金切り声が、シャロンの背中へと乱暴に投げかけられた。投げるというより、最早突き刺す勢いで。

 振り返って姿を確認すると、眉目をひどく吊り上げた若く美しい女性が――、やはりマーガレットだったか。

 マーガレットはつかつかとわざとらしく大きな音を立て、シャロンと少女に近づき、二人の間に割り入ってきた。そして、シャロンが何か言うよりもずっと早く、手にしていた扇子で、怯える少女を思いきり打ち据えた。


「マーガレット!何をするんだ!!」

「シャロンは黙ってて!!」


 すかさず止めに入ったシャロンを一喝すると、マーガレットは狂ったように少女を扇子で打ち続けた。少女は頭を抱えて蹲り、「ごめんなさい、ごめんなさい……」とひたすら繰り返してはすすり泣いている。

 目の前で繰り広げられる、婚約者の悪魔のごとき恐ろしい剣幕。シャロンは茫然自失で成り行きを見守るより他がなかった。


「アッシュ、二度と私のシャロンに近づかない頂戴。分かったわね!?」

 マーガレットは扇子が折れるまで少女を打ち続けた後、蹲ったまま身体をガタガタと震わせている少女に折れた扇子を投げつける。

「貴方も、二度とあんな子を構わないで!」

 鋭く釘を刺すマーガレットに、いつもであれば面倒事を避けたいがために『わかったよ』と答えただろう。だが、今回ばかりはすんなりと首を縦に振る気になれなかった。

「マーガレット……、彼女は、一体……」

「あら、そう言えば話していなかったわね。まぁ、私やお父様からしたら目障りで仕方ないから、できることなら話題にも出したくないのよ」

「もしかして……、噂で流れている、博士のもう一人の娘、なのか??」


 マーガレットは忌々しげに美しい顔を醜く歪めた後、さも嫌そうに「えぇ、そうよ。最も、あんな子、実の妹とすら思いたくないのだけど」と、冷たく吐き捨てた。


「だって、あの子を産んだせいでお母様は亡くなってしまったのよ??私とお父様が心から愛していたお母様を、あの子は永久に私達から奪ったの。だから、私はあの子、アッシュが憎くて堪らない。お父様も同じくらい、いいえ、私以上にあの子を憎んでいるわ。せめて男の子だったら跡取りになるし、憎むどころか大切にしたかもしれないけど。でも、よりによって女の子なんだもの。そうそう、アッシュと言う名も、死を連想させるから、異国では死んだ人間を火葬で灰にしてしまうから、お父様がそう名付けたのよ。忌まわしいばかりのあの子にお似合いだと思わない??」


 何が可笑しいのか、クスクスと一人愉快そうに笑うマーガレットを、シャロンは言葉も文化も相容れることが到底出来ない、別の世界の人間を見ているような目で眺めることしかできなかった。


 これが、シャロンとグレッチェンの出会いだった。

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