第5話 Lies and Truth(5)


 それからすぐに、グレッチェンは歓楽街へ――、薬屋に急いで向かった。

 再びブナの遊歩道へ戻れば、朝の礼拝のため教会へ訪れる人々とすれ違う。大勢ではないものの、人とすれ違う度に歩調が遅れてしまうのに焦りを覚える。けれど、教会や広場から離れ、歓楽街に近づくにつれて人の数は減っていく。

 そして、歓楽街に到着する。朝の歓楽街はうっすらと夜の気配を残霧と、夜通し賑わっていたとは思えない程の静寂に包まれていた。

  行き交う人々もまばらにしか歩いていない表通りを歩き続け、店の前に辿り着く。扉を開け、中に一歩を足を踏み入れたグレッチェンの目に、信じられない光景が映った。

 普段であれば、開店間際にしか店先に現れない(ひどい時には、昨日みたいにグレッチェンが起こしにくるまで寝ていることも多い)シャロンが、棚に新しい薬品を陳列していたからだ。


「おや、まるで鳩が豆鉄砲食らったような顔だな」

 目は丸く、ぽかんと口を半開きにさせたグレッチェンに向け、シャロンはくつくつと小さく笑い声を漏らした。

「……明日は雪が降りますね……」

「おいおい、まだ秋が始まったばかりだぞ??せめて雨くらいにとどめておいてくれないかね」

「シャロンさんが私よりも先に店に入るのは、それぐらい珍しいってことです」

「私だって、たまには早く起きることがあるさ」


 表情こそ元気そうだが、シャロンのダークブラウンの双眸には疲れの色、下瞼には薄っすらと青い隈までが浮かんでいる。


「……もしかして、また徹夜されたのですか??」

「あぁ。この間手に入れた、ここから遥か遠い、東方にある異国の医学書を読んでいた。が……」

 シャロンは次の言葉を続けることを躊躇ったが、気まずそうに告げる。

「……結局、今回も収穫はなしだったよ。……すまない、グレッチェン」

「気にしないで下さい。それよりも、身体を壊されては元も子もありません。睡眠は充分に摂って下さい」

「……うむ、そうだな。ただ、私としては、君が子を産めない年齢に達する前には、何としても君の身体を治す術を見つけたいんだ」

「……ありがとうございます」


 シャロンに軽く頭を下げると、気を取り直すかのように、グレッチェンも薬品を棚に並べ始めた。

 開店準備を終えてしばらくすると、教会の鐘と店の壁時計が午後十二時を報せる。グレッチェンは店の表口の鍵を外し、『薬屋マクレガー』と書かれた立て看板を外に出す。


「シャロンさん。二時間くらいでしたら、仮眠を取ってきても構いませんよ」

 今度はシャロンの方が、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をする番だった。

「……ど、どうしたんだね。君が私に優しい言葉をかけるなんて、それこそ明日、いや、今日にでも雪が降るんじゃ……」

「失礼な。私を悪魔みたいな人間とでも思っているのですか」

「いや、そういう訳では……」

「冗談ですよ」

 慌てて言い繕おうとするシャロンを睨むように見せかけ、逆に表情を緩める。

「私のために徹夜で研究されていたのです。労わるのは当然ですよね??」

「……じゃあ、君の言葉に甘えさせてもらおうかな。すまないが、二時間経ったら起こしにきてくれ」

「分かりました」


 シャロンが奥の部屋に続く扉を開けようとした時だった。

 白髪頭を大きな玉葱に似たポンパドゥール風に纏め、仕立ては良いが古臭いドレスを着た一人の老女が店に入ってきた。


「シャロン、カンタリスをおくれ」

「これはこれは、マージョリー婆さんじゃないですか」

 老女はグレッチェンには見向きもせず、カウンターに背を向けた形でいるシャロンを名指しする。シャロンはすぐさまにこやかに振り返った。

「カンタリスをお求めになるとは、貴女もまだまだお元気でいらっしゃる」 


 カンタリスとは媚薬の一種だ。

 どう見繕っても六十過ぎのマージョリーが媚薬を欲しがるとは……、一体何を目的に使うのか。シャロンは内心下世話な好奇心を抱いたが、一切おくびには出さずマージョリーの相手を続ける。


「カンタリスは散薬ですので、奥に置いてあるんです。グレッチェンに取りに行かせますから、何包必要か教えていただけますか??」

 マージョリーは少し考え込み、「今日は二包おくれ」と伝えてきた。その言葉に従い、グレッチェンは奥の部屋へ薬を取りに行く。

「お待たせいたしました」

 三角に折り畳んだ、半透明の包み紙を二つ、マージョリーに差し出す。

 薬を受け取ったマージョリーはご機嫌になり、会計を済ませた後も彼と世間話に興じていた。

「シャロン、景気はどうだい??」

「まぁ、ぼちぼちですかね」

「そりゃあ何よりさね。近頃じゃ不景気が祟って、失業者が増え続けてるからねぇ。失業者が増えた分だけ浮浪者や犯罪も増える。おまけに、クロムウェル党の連中による犯罪が多発してるときた!あいつら、何年か前まではケチな小悪党集団でしかなかった癖に、上流出身とかいうハーロウ・アルバーンが頭になった途端、一気に凶悪化しちまって……。ったく、男爵様ももう少し、街の治安を良くしてくれないもんかねぇ」


 『男爵様』とは、この街を二百年以上にわたり統治している、ファインズ家の現当主、ダドリー・R・ファインズのことだ。

 この街は爵位の低い男爵領ながら先々代の領主――、現ファインズ男爵の祖父の時代、王都に次ぐ近代化に成功し、発展目覚ましい地方都市に変化を遂げた。しかし、王都や農村部から職を求めて流入してくる貧民、他国からの移民を積極的に受け入れた結果、マージョリーの発言のように失業者や犯罪が増加の一途を辿っている。


「でも、ファインズ男爵様は充分にこの街の統治に尽力していると思いますよ??以前と比べれば、犯罪の取り締まりも厳しくなってきてますし」

「そうかねぇ??ま、少なくとも切り裂きハイドみたいな猟奇殺人は起きちゃいないだけ、髪の毛一本分程度はマシだろうけど」


『切り裂きハイド』という言葉に、グレッチェンの口元が一瞬引き攣り、シャロンもほんの僅かに頬を強張らせた。微妙すぎる二人の表情の変化に気付く由もなく、マージョリーは「じゃ、また来るよ」と店を後にしようとした――、が。

 すぐにまた思い出したように、シャロンに向き直る。


「犯罪で思い出したんだけど……、今朝方、ドハーティの店の娼婦がヨーク河で溺死していたそうだよ」


 今度こそグレッチェンの顔から血の気がさーっと引いていく。

 青褪めた顔でマージョリーに問い詰めようとして、でも、それより先にシャロンが「それはお気の毒に……。婆さんも知っている女性なんですか??」と、尋ねていた。その際、マージョリーには気付かれないよう、『……君は黙っているんだ。私が上手く話しを訊きだすから』と、目線で制されてしまった。


「顔見知り程度になら知ってるよ。シルビアっていう、三十半ばくらいで、栗毛で尖った鉤鼻が目立つ女だ。大方、過酷すぎる仕事と劣悪な環境に耐え切れなくなって、ヨーク河に身投げしたのかもねぇ……」


 本心からか、はたまた演技なのかは分からないが、マージョリーはさも悲しそうに表情を沈ませた。

 大仰に鼻を啜ってみせるマージョリーをどこか褪めた目で眺めつつ、再びグレッチェンの脳裏ではシルビアの顔と彼女の息子の顔が、点滅しながら交互に映し出された。グレッチェンを無言で責め立てでもするかのように。

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