第4話 Lies and Truth(4)

(1)


 その中は、水と呼ぶには温かく、湯というには生温い。けれど、とても居心地の良い場所だった。


 裸のグレッチェンは膝を抱え、全身を丸めて、ぷかり、ぷかり。水の中をひたすら漂っている。余りの心地良さに、うとうとと微睡ながら。まるで母親の胎内――、羊水に浸かっているみたいに。


 できることなら、永久に揺蕩っていたい。外の世界に出て行きたくない。

 

 私は……



 


 ――!!――

 



 突如、何者かによってグレッチェンは足首を強く掴まれ、引っ張り出されそうになった。足を掴む手の爪が皮膚に食い込む痛み、安寧の世界から引きずり出される恐怖。

 力の限りに両の手足をバタバタと動かし、謎の手を振りほどこうと無我夢中で必死にもがく。だが、抵抗も虚しく、そのまま外の世界へと放り出された。


 ドサッ!!


 目を開けると、真っ赤なベルベッドの天蓋が視界に映し出される。グレッチェンはスプリングがやけに利いた、だだ広いベッドの上に深く身を沈ませていた。

 徐々に意識がはっきりするにつれ、幾つかの異変に気付いていく。

 裸だったはずなのに、シルクの寝間着を身に付けている。短いはずの髪が、腰より長く伸びている。身体も小さくなっているし、寝間着から伸びた四肢は病的に痩せ細っている。

 俄かに信じ難い状況。猿轡まで噛まされているせいで恐怖心と絶望感ばかりがいや増す。


『アッシュ。新しい【宝】が手に入ったから、また試させておくれ』


 頭上から降ってきた声が誰のものか。確認する間もなく、屈強な男がグレッチェンに跨り、身体を抑え込んできた。流行遅れの黒いフロックコートとネクタイ、ズボンの組み合わせが妙にちぐはぐな辺り、おそらく執事か従僕の類か。

 更に募っていく恐怖心の一方、どうでもいい些末事に気を取られる余裕がまだ残っているらしい。

 しかし、金縁眼鏡の上品な紳士が顔を覗き込んできた途端、余裕は一瞬で弾け飛ぶ。全身が総毛立ち、悲鳴一つ上げられない。

 紳士の深いグリーンの瞳と眼鏡の色とがよく合っているが、グレッチェンを見る目はひどく無感情だった。まるで、人ではなく実験動物と接するかのような目。だが、ここでは自分を助けてくれる者などいやしない。

 どうにかして、紳士とは反対側に顔を動かしてみる。

 その先には、華やかだが高慢そうな顔つきの若い女性が佇んでいた。


『お前を生んだせいでお母様は死んだの。お前は、お父様と私から大切なお母様を奪った。それに飽き足らず、子供の癖にシャロンを誑かして……。彼は私の婚約者なの!!とにかく……、私はお前を一生許さないわ!!』


 延々と自分を責め立てる女性にいたたまれなくなり、グレッチェンは再び紳士の方へ顔を戻す。紳士は一本の注射器を手にしていた。


『さぁ、実験だよ』


 紳士はグレッチェンの左腕の袖を乱暴に捲り上げると、注射痕が無数に残る肌へ、新たに注射針を突き刺した――





 ガタン!!




 けたたましい物音を立てて飛び起きる。

 天蓋付きの広いベッドも、のしかかっていた大男も紳士も女性も、全て消えていた。そこにあるのは、本がぎっしり並ぶ背の低い本棚、小さなクローゼット、マットの質感が固いシングルベッド……、見慣れた自室の光景が目に飛び込んできたけだった。


 両手で顔を覆いながら、グレッチェンは心底ホッとし、大きく息を吐き出す。

 気を落ち着かせるため、五分程その状態を保つ。気持ちの切り替えが完了するとさっとベッドから抜け出す。

 ベッド脇の置時計で時間を確認する。朝の八時少し前。

 ノッカー・アップに起こしにくるよう頼んでいる時間は八時半。あと三十分は寝られるが、あんな夢を見た後では二度寝する気になど到底なれない。

 洗面台の前、冷たい水を叩きつけるように顔を洗い始める。気休めかもしれないが、これで少しは気持ちが浮上できたら、いい。







(2)


 身支度を済ませると、逃げるように部屋を後にする。

 赤煉瓦造りの建物が大半を占めるこの街では珍しく、グレッチェンが住む安アパートはごつごつとした荒削りの石で建てられた古い様式のものだった。どうせ帰って寝るだけのために借りている部屋なので、別段気になどしていない。

 この時点での時刻は八時半。薬屋には開店一時間前、十一時までに入っていればいい。気分転換を兼ねて広場に寄り道してみよう。

 確たる目的も定めず、散歩気分で街を歩くのは好きだ。季節ごとに移り変わる景色、空気、人々の様子を、目で、耳で、時には臭いや肌で感じ取る。一歩、二歩……と進む度、自分は地に足付けてしっかりと生きているのだと、強く噛みしめる。

 労働者階級ワーキングクラスのアパートやコテージが集まる一画を抜け、北へ十五分近くかけて進むと教会が見えてくる。更に東へ少し歩けば、広場に続くブナの遊歩道に差し掛かる。

 その時、グレッチェンの無駄な脂肪が一切ついていない腹から、くうっ、と音が鳴った。そういえば、昨夜レモネードを飲んだだけでまともに食事を摂っていない。広場の中の屋台で朝食を買おう。音をごまかそうと、腹にぎゅっと力を込めながら歩調を速める。


 程なくして、広場に到着したグレッチェンは屋台で焼き立てのマフィンとレモネードを買った。広場の象徴というべき、中央にある噴水から離れた場所のベンチに座り、マフィンを小さくちぎって少しずつ口元へ運ぶ。

 ふわふわと柔らかな生地、甘ったるい味が咥内に拡がり、ほのかな酸味を持つレモネードを喉に流し込む。

 噴水の近くでは、少年達が紐にぶら下げたコンカ―をぶつけ合っては大はしゃぎしている。そして、彼らに背を向け、一人きりで凧を上げる少年がいた。全員、年の頃は七、八歳くらいか。


 突然、凧上げしていた少年がアッ!と大きな声を出した。次の瞬間、彼の手から凧糸が擦り抜けていく。

 凧はふわりと舞い上がり、螺旋を描くようにクルクルと宙を旋回。風に流された凧はグレッチェンの足元に落下した。

 グレッチェンはすぐに凧を拾い上げ、ベンチから立ち上がった。少年は息切らせて走り寄ってくる。


「お兄さんありがとう!!」

「どういたしまして」


 少年はグレッチェンを完全に男だと勘違いしているが、ほんの少し頬を緩めて笑いかけようとした。けれど、できなかった。

 腰のない栗毛、目尻が垂れ下がったつぶらな青い瞳。尖った鉤鼻とやや受け口な少年は、昨日店に訪れた娼婦シルビアと瓜二つだった。


「ねぇ、あそこで貴方と同じくらいの年頃の子達がコンカ―ゲームやっているけど、一緒に遊ばないの??」

 平静を装いつつ、先程から気になっていたことを少年に尋ねてみる。少年は口角を思い切り下げ、首を横に振った。

「やだよ、ぜってー遊ばない。……だって、あいつら、オレのかあちゃんの悪口言うんだもん。お前と、お前の父ちゃんを捨てたアバズレ女、って……」

「…………」

 シルビアの息子だと確信したものの、どんな言葉をかけていいのか、はたまた何も言わない方がいいのか。

 グレッチェンが困惑していると、少年は悲しげに微笑んでみせた。

「でもね、とうちゃんが言ってたんだ。『母ちゃんは、父ちゃんがろくでなしだったせいで出て行っちまったから、父ちゃんは心を入れ替えて真面目になる!そうすれば、いつかきっと、母ちゃんは帰ってきてくれる』って。だから、オレもとうちゃんの言うこと聞いて、いい子にしてるんだ!かあちゃんに帰ってきてほしいからさ!!」


 身勝手な理由で家を出て行ったというのに、シルビアの家族は彼女が再び帰ってくることを信じ、ずっと待ち続けているなんて。もしもシルビアが知ったら、迷うことなくまっすぐ家に帰るに違いない。


「……そっか。お母さん、早く戻ってきてくれるといいね」

「うん!!」


 少年は力一杯頷くと、凧を大事そうに両腕に抱えて元いた場所へと戻っていった。一人残されたグレッチェンは再びベンチに座り、マフィンの残りの欠片を一気に口へ放り込む。


『家族、息子の許へ帰りたい』と訴えるシルビアの悲壮な顔。彼女の息子の笑顔と健気な言葉達。


 昨夜、ハルから得たドハーティの情報の結果、シャロンは彼を始末するべき人間だという判断を下した。あとはグレッチェン自身が毒を作るか作らないか、もう一度考え直すのみ。

 どちらにせよ、もう一度だけシルビアと会う機会を作り、その上で決断しようと決めていた。

 今日店に訪れるだろう常連客娼婦達にシルビアを知っているか訊きだす。知っていたら最もらしい口実を作り、店に連れて来てもらう。


 グレッチェンは瓶にまだ残っているレモネードを飲み干すと、プハッと小さく息を吐き出した。迷いを払拭するかのように。

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