ケイオスボーイ ー下ー

熱量カロリーにはクオリティがある」金子が、ドラム缶で拵えられた灰皿に煙草を投げ捨てて言う。「サラダ油は100gで900kcal。しかしコップ一杯の油を丸飲みしたからといって、一日を活動するエネルギーに変換されるかというと疑問だ」新たに一本を取り出してチェーンスモーク。

「何が言いたいんだね」と湯賀が灰を弾き落とす。「生命の維持に必要なのはカロリーだけじゃねえしな」

「飲食物というのは、やがて自分の血となり肉となるもとなわけだ。体内に入れるものには気を遣わないとな。俺は普段から体に悪い物の摂取は極力避けている」

「どうした。スピリチュアルな完全菜食主義ヴィーガンの彼女でも出来たのか?」と宇佐が茶化す。

「単にアレルギー体質だから食えない物が多いんだろ?」

「そのくせコカインとキャビアの組み合わせが至高とか言ってやがった」

「タバコを吸いながら言う奴のセリフじゃないな。タールとニコチンが一番悪い」と我妻。「それに鼻の粘膜もだいぶイジメてるだろうに」

「昔、うまみ調味料をスニッフしたら激痛だったな。鼻血が出たぜ」

「ポテトLはおよそ500kcalだ。大した数字じゃない。しかしアレを胃に流し込んだ途端、細胞レベルで感じるんだ。これは毒に違いないと」野次を無視して続ける。「バーガーとコーラとセットで食ったら1000kcalちょっとだ。なのに3倍くらいのカロリーを摂取したようなレベルで脂肪に変わる感覚になる。しかもこいつは脂肪だ。様々な器官に悪影響を及ぼす。分かるか?」

「分かんねえよ」と柴が反論したことを無視して、

「数字だけじゃ計れないこともある。しかし毒ほど美味いもんだ。背に腹は変えられん。毒を食らわば皿までだ」

「で、何が言いたいのかね。結局」湯賀が目元に漂う煙を手で払いながら再度尋ねる。

「要するに俺は猛烈に腹が減っていて、なるべく質のいいカロリーを摂り入れたい。食った後に後悔せず、前向きポジティブな気分になれる食事をな。なのに無性にジャンクフードが食いたいのさ」

「ただってるだけの話じゃねえのか。まわりくどいな」と我妻が言う。「食事に気を遣う前に改善すべき点は他にあると思うぜ。どうも顔色が良くない。死相が出てるようだ」と金子の骨ばった脇腹をつまむ。「年齢的に基礎代謝も悪くなる。生活習慣も乱れてそうだし、脂肪よりも悪い毒を溜め込んでるだろ。汗を流して解毒デトックスしないとな?用法・用量を守ればドラッグもサプリメントと一緒だ。むしろ健康になる。健康的なジャンキーを目指そうぜ。それには適切な食事、適度な運動は必須だ」

「しかしまあ確かに腹は減ったな」と柴も思い出したように言う。「考えてみりゃSAサービスエリアのマズいラーメン以来何も食ってないぜ」

「ってことで飲食ブース行くか。酒も切れた」と金子が空の缶ビールを振り、残りの数滴を喉に流し込んだ。


「飴ちゃんやるよ。食っとけ」一同が売店エリアに向かう道中、喉が乾いたと愚痴る柴に我妻が小さなグミのようなキャンディを手渡し、自分も口の中に放り込んだ。それを見て柴も同じように、その緑色をした塊を口に含んだ。

「なんだこれ、変な味だな」

「のど飴さ。噛み砕いちゃだめだぞ。しゃぶって溶かすんだ」


 入り口からメインステージまでの中間にある飲食・物販ブースまでやってくると、彼らはめいめいに好みの酒と食料を調達し、また集まって適当なスペースに腰を下ろして戦利品を貪った。先ずはジャークチキンやスパイスカレーのようなエスニック料理を食べていたが、完食後に物足りなさを感じて、我妻と湯賀はバカでかいピザを買ってきてシェアしていた。

「このハチミツをブッかけたチーズまみれのピザが至高だよな、マンチの時ってさ」

「わかる。化学調味料まみれのラーメンも捨てがたい。ファックオーガニック」

「俺はなんか猛烈に甘いものが食いたいぜ」と金子は辺りをウロウロする。

「…くっ…くくく…くくくくくく…ふふ、はは」と、柴が唐突に笑い出した。「おい、おまえ、さっきの飴、アレ、なんか変なやつか?」

「お、効いてきたか?俺なんともねえけどなあ」

「お前なあ、まじ、ふざけんなよ。俺はそういうの、っくくくくくははは」

「なんか感じ変わってる?視覚とか、音の聞こえ方とかさー」

「そんなん、なんも変わんねーけど、くくく、なんか、笑いが止まんねーよ!」

「効果の表れ方って人それぞれだなあ」と我妻がピザを咀嚼しながら頷く。

「酒だってそうだろ。笑う奴もいれば泣く奴も怒る奴もいる」と湯賀。

「有効成分の含有量なんて、ほんのちょっとの筈なんだけどな。マイクロドースだとこうなるのかな?まあそれはそれで需要ある。悪くない」

「耐性がほとんどついてないってのもあるだろうよ」

「なあ、CBDのグミとかリキッドって効くのか?」湯賀が我妻に尋ねる。「リラックス目的ならTHCよりCBDのほうが良い気もしてさ。インディカ吸うとなって動けなくなっちゃうし」

「いやあ、実は俺もそれは未経験でさ、知らないんだよ。あれって健康食品扱いみたいになってて、ちょっと宗教くさくないか?ああいうのってさ。プラセボだろっていう…」

「くっくく…ドッキリで肉を食わされたベジタリアンの心境ってとこだぜ。お前、イスラム系が相手なら訴訟もんだぞ」

「食わず嫌いは良くないな。それに奴らも実はよく酒を飲む」

「なんか…ふふ…守ってきたものがあっさり破られたみてーな…はは…あー、くそ、なんだこれ、止まんねえええ」

「本当にアシッドかよ。シロシビンじゃねえの?マジックマッシュルームワライタケの」

「柴くん、最近ストレス溜まってたんじゃないのかなあ。仕事もやり始めたんだろ?たまには息抜きにハメを外すことも必要だぜ。楽しいだろ?」

「楽しくねーよ、バカ。苦しいんだって、ははは…くっくっく」

「おい、アロマオイルマッサージがあるらしいぞ。行ってみようぜ。気持ちいいんだよな、あれ」

「裏オプでなのか?おい、サウナもあるぜ。天国かよ」

 

 様々な趣向の露店や屋台に立ち寄ったり、ぶらぶらと歩き回ったり、ステージとはいえぬスペースで披露するミュージシャンや大道芸人のパフォーマンスに足を止めてみたり、まったりチルしたり、知らない人と酒を酌み交わしたりしているうちに陽は沈み、夜が訪れた。

 群衆は集光性の虫のように、明るくて音が聞こえるステージの方へゾロゾロと移動していき、自然と音楽を満喫する者達で客席が埋め尽くされる。

 そして一行はメインステージのアーティストが演奏をする最中、サークルピットを作り、飛び跳ね、歓声を上げ、合唱し、両手を挙げる聴衆に混ざることはせず、少し後方からその様子を見つめる。

「このオーディエンス、何万って人との一体感…いいよな。感じるよ、生命の鼓動みたいなものをさ」湯賀が遠い目で言った。

「汗くさい人の群れも、不思議と不快に感じないんだよな」と柴。

「こんなデカいステージからの景色は、さぞ壮観で、ものすごい高揚感とカタルシスだろうな」湯賀がそう言うと、

「ああ、いつかそれを味わいたいと願っていたよな」と金子がポツリ呟いた。

 その時ふいにステージはゲリラ豪雨に見舞われた。だがその場を離れるものはおらず、むしろ喜んで土砂降りの雨を全身に受けていた。まるでこれが乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨、慈雨であるかのように。湯賀は仰向けに寝そべり、目を閉じて口を開き、甘雨を味わった。聖なる洗礼バプテスマを受ける受洗者のように全ての罪が赦されたような、なんとも心地よく厳かな気分になった。金子も雨を浴びながら、あらゆる環境の変化、置かれた状況下において、それを受け入れ楽しむことが禅の心にも通じるのではないか?などと思ったりしていた。

「昔を思い出すな?いつだったか真冬に流星群を見に行った時。あの時も帰り路で土砂降りの雨に打たれた」と我妻が独り言のように話す。「寒くて死にそうになって、ようやく辿り着いた我が家Sweet Homeで、凍えた身体に暖かいシャワーと飲み物が芯まで染みた。あの時、俺の中で何かが変わったような気がしたんだよ」

 

 演奏は一時中断されたが、ほどなく雨は上がった。激しい雨で大気中の塵が洗い流されて空気の質が変わったことを、その場の全員が肌で感じ取ることができた。

 暗転していたステージの照明が灯る。

 天地創造を彷彿とさせるような、原初の日の出を思わせるような、何色と表現するのが正しいのか、筆舌に尽くし難い歓喜のライティングが徐々に闇を照らしてゆく。ホリゾントライトが逆光となり、舞台上の人物を神々しくさえ魅せる。

 今まさに啓示が降ろされるかのように演奏者の指先が鍵盤を叩き、電気信号がアンプで増幅され、スピーカーが空気を震わせ、聴覚に伝える。静寂に響き渡る単音の電子音。

 聴衆に届いたそのたった一音だけで、皆が溜息にも似た歓声を漏らした。意味も意思も持たない只の音が、それぞれの人が最も求めていた言葉を耳元で優しく囁いたよう。

 もう一音。交感神経が刺激され、筋肉が収縮し肌が冷たくなり、静電気を帯びたように全身の毛が逆立つ。

 さらに一音。恐怖か緊張か、それとも感動なのか。熱すぎる湯を冷たく感じることがあるように、身体に流れる温かい血をまるで氷のように感じ、それが高速で脈打ち戦慄する。

 そして音は重なり合い旋律フレーズになり、まるで自分にスポットライトが当たり、その光の筋に沿って昇天するようなイメージさえ浮かび、誰もが魂の浄化カタルシスを感じているようだった。それから一定のリズムで脈打つベース音が心臓の鼓動とシンクロすると、体内のエネルギーが爆発して飛び跳ねずにはいられなくなる。自然に込み上げてくる熱い涙とともに無意識の叫び声を上げていた。その後の出来事は、深く記憶に刻み込まれたか、或いは何が起こったか一切思い出せないか、微熱があるときに見る夢のような奇妙な経験となるだろう。

 

 やがて興奮の坩堝、感動の渦のなかにメインステージの幕も降りたが、昂ぶりが治らない彼らはまだ眠りにつきたくはなかった。

天国の丘ヘブン・ヒルに行こうぜ。オールナイトでやってるだろ」

「どうせなら山頂のところがいい。『音楽と心の桃源郷』だとさ。大自然の中で下界アンダーワールドを見下ろしながら、神秘体験と洒落込もうぜ」

理想郷ユートピア多幸感ユーフォリアからの安楽死ユーサネイジアってやつね。何が現れるかだ」

 我妻の提案に従って一同はゴンドラに乗り込み、辿り着いた先は再び非日常の世界だった。派手な照明ライティングはなく、ヘイズマシンとレーザーライトのみ。しかしアンビエント音楽と照明の世界観が見事に融合しており、独特の空気感がサイケデリックな空間を演出している。酔っ払いながら一心不乱に踊る者、ヨガの姿勢で瞑想をする者、肌を重ね合わせる者たち、めいめいに楽しんでいる。

 湯賀がウエストバッグから金属製の携帯用パイプと大麻の包みを取り出し、風でこぼれないよう、火皿へ慎重にセットする。一連の動作でからい煙を吸い込み、むせかえる。

 時はすでに真夜中過ぎで、けれども夜はこれからだと言わんばかりにレイバー達が踊るなか、彼らもふわふわとトリップしながら、心地よく音楽のリズムに体と脳を踊らせていた。

 我妻が新しいジョイントを巻いて、柴を除いて回し吸いをする。金子の番になると、彼は思いきり吸い込み、肺に溜め込みながら後ろに倒れこんだ。そして吐き出す。口と鼻から煙突のように煙が出てきた。だんだん皆の表情が変わってきて、はにかんだような破顔と奇妙な状態テンションを見た柴がその身を乗り出し、

「ちょっと俺にもくれよ」と純粋な好奇心にかられてそう言った。湯賀も少し戸惑ったが、何も言わずに差し出した。普通に煙草を吸うように、柴は煙を吸い込んで、表情を歪め、吐きだした。

「もっと思いっきり吸い込め。咳き込むくらいに。肺の毛細血管が広がって成分が行き渡りやすくなる。そんで、息を止めてから吐き出せば…いい」金子がそう言って、柴は言うとおりにした。

「それを何回か繰り返す。そのうちに変化が起きる。お楽しみだ」湯賀が言って、険しい表情で吸い込み、リラックスした感じで吐き出す。確かにこの一連が茶道よろしく礼儀作法かというように。

乾杯cheers童貞喪失LOST CHERRYに」

「大人の階段、禁断の扉、一皮剝ける、一線を越える。通過儀礼のようなもんだ。なにごとも経験だぜ」

「そうだ」我妻が言いつつ、「いいものがある」ポケットから丸い錠剤を取りだした。市販薬のように糖衣でコーティングされているが、表面には蝶の絵がプリントされていた。湯賀が興味深そうにそれを見つめ、「いいね」と言った。全員が躊躇うことなく飲み込んだ。

「知ってるか?ふふ、蝶と蛾ってのは生物学的にはほぼ同じなんだぜ」

「Come my lady. come-come my lady…」湯賀が口ずさむ。「胸の…蝶のタトゥーの…あの女…あのに…俺は…」

 

 三十分ほど経つと明らかに様子が変わってきた。一番初めに変化が訪れたのは柴だった。徐々にスノーノイズのような白い障害が目の前にチラつき、それによって彼のまばたきが異常に多くなっている事に金子は気付いた。

「おお、おお、おお~」柴に自然と笑いがこみ上げてくる。

「何か見えるか?」我妻が柴の肩に手を回し、自分の方へ引き寄せる。

「体から虹が生えてきたぜ。おまえにも見えるか?」

「ははっ、すげーな?」

「蝶が…光の壁が回って…鼓動が見える…渦巻くスパークの…カラフルな網膜…」柴が口を半開きにして、譫言のように呟いている。

「おいおい…キマってんじゃん」と、我妻もフニャフニャ、グラグラしている。

「美しい…」湯賀は虚ろな目で空を見上げて、手をレーザービームに重ね合わせようとしている。「あれ?突き抜けた?」

「何か笑えてきたぜ」金子も飲みつつ吸いつつ寝転がっている。「俺、浮いてる?よな?あれ?むしろ沈んでいってる?」

「はは…あー…くっくっ」柴がこみ上げてくる声を抑えるように笑う。「なんだよ、気持ちいいな」立ち上がって眼下を見渡す。「なんか…わかるよ、うん。言ってたことが。なんつーの、一体化っていうの?言葉にするの難しいけど、なんか、これか、っていう。この事か、っていう…」

調和ハーモニーとはまさにこの事さ。雰囲気バイブスが最高だな。自然、精神、肉体すべての調和。なんといっても夏の楽しみさ」

「海外にも行こうぜ?ベルギーとかさ、アメリカの砂漠でやるやつとか」

「あんま人が多過ぎてもよくないぜ?大事なのはロケーションさ。日本のが外国のフェスに比べて全然キレイだし、平和だし」

「ヒッピー全盛の頃のウッドストックが理想だな。男も女も裸になったり、そんでマリファナ吸いながら踊ってさ。まさにヘブンだよ。そんな時代に生まれたかった」

「今でも結構デカいイベントは無法地帯だけどな。事件や事故もつきものだし。レイプとかケンカとか」

「ケンカはイカンな」宇佐がビールを飲んだが、温くて苦いので地面に流した。

「こないだ、コイツのせいでヤバかったから」柴が苦笑する。

「ハハ…」我妻は他人事のように笑う。

「何かあった?」湯賀が身を起こして、柴に訊いた。

「『マリナー』でモメてな…ガキんちょと始まってさ」

「あん時、いなくて良かったぜマジで。ケーサツには追われるし」ビールで濡れた地面をつつく。「まあ、けっこう楽しかったけどな」

「まあ俺等もこんな歳になって、体制にのまれたり、はみ出したりして」と金子。「でも、久々にバカやろうぜ!なんていうノリも欲しい訳さ」

「ピーターパン症候群てやつかな。ガキのまんまさ。いい歳してさ」

「間違いない。オトナにならなきゃな。でも他のやつらと同じようにはできない。俺には俺の生き方がある。ダセえオトナにはなりたくないぜ」

「そのとおり。でも芯がブレてなきゃそれでいいが、なのになんで俺たちは他人をディスったり羨ましがったりするんだろうな?見苦しい八つ当たりさ。どっかで本当は負け犬だって思ってやしないか?」

「別に羨ましくなんかねえけど。俺等みんな、ぬくぬくとしたバックグラウンドのなかで生きてきたわけじゃねえんだ、だろ?だから、はみだした。ひねくれちまった。なにもかもつまんねえ、意味がねえなんて虚無的な思考ばっかりがデカくなっちまってさ。家庭環境とか経済事情とか、生い立ちや育ちってのが人生を支配してくる。ウチなんか結構複雑だぜ?」

「別に自慢するこっちゃねえけどな?被害妄想だぜ。不幸自慢は見苦しい」

「普通にのうのうと生きてる奴らがムカつくんだよ。ガキの頃から慶應に入れられて育ってきた連中とは真逆さ」

「そいつらもある意味じゃ普通ではないけどな。普通ってなんだろうな?」

「平均値や中央値みたいに、数字で表せられるもんじゃないしな。定義が難しい。が決まってりゃ判りやすいのかもな?身長が何センチなら±何ポイント、目が二重か一重かで何ポイント、親の収入がいくらだったら何ポイントとかさ。その合計で」

「『世にも奇妙な物語』でありそうな世界線だな。美人に税金がかかるとかあったな」

「最愛の彼女が不治の病で余命何ヶ月…マイナス100ポイント、とか?」

「交通事故を起こして6マス戻る、ってか。人生ゲームかよ。だがまさに人生は、やっていくうちにルールが変わっていくゲームだ。何が起こるか分からないのが人生。どう生きるのが正解なんだろうな?」

「正解なんてないし、他人と比べるもんでもないさ。生まれつき何かの障害があるケースもある。でもそれを不幸だと思うか思わないかの話さ」

「要は考え方次第ってことか。そうでもしないとやってられない、って事にも思えるけど」

「お涙頂戴ってドラマみたいな話にはヘドがでるけどな。そういうのに然るべき感情を抱ける人間が普通っていえるのかな?」

「そうすると性格や内面的な要素がよりポイントに反映するのか?」

「世の中はルッキズムと資本主義に支配されてる。それらから脱却することが美しい心を育むのか?アーミッシュみたいな生活をするのが正しいのか?それも違うだろ」

「どうなんだろうな。とにかく俺ら、単純にはいかねえよ。な?」

「ライトワーカーって聞いた事あるか?気持ち悪い連中なんだが、とことんポジティブなのは武器でもあるんだよ。宗教や洗脳なんてのも、ある意味じゃ幸せな事だぜ。邪心や俗心ばかり抱いてイライラしてるよりはさ」

「かもな。なんでこんな卑しい心の人間になっちまったのかな?」

「やっぱ育ちが不幸な人間は可哀相な性格になっちまうよ。そりゃ。生まれや育ちは関係ないなんてのは綺麗事さ。バックグラウンドには死ぬまで支配される」

「お前が在日だからとか?」

「帰化してるから在日じゃないんだけどな。厳密には」

「え、お前ってそうだっけ?」

「別に隠してるわけでもねえけどな。ていうか国籍は日本だし。日本の教育を受けてきてるし。遺伝子的にそうだってだけで」

「まあ俺も別に気にした事なかったけど」

「たまに差別されたりもしたけどな。帰化してても血は争えないとかさ。じゃあお前の先祖は縄文時代から混じりっけ無しの大和民族なのかよと」

「職業や出自による差別なんて大昔からあるわけさ。けど現代じゃそんな風習なんて風化してる。自分が実はを知らない若者すら多いだろ?特に日本じゃあんまり人種差別って身近に感じないからさ」

「まあ中国残留孤児とか、戦後の在日朝鮮人みたいな、あからさまな差別なんてのは無いけどな。時代が時代ならグレてマフィア化してたかもな」

「充分グレてるよ、お前は」

「直接言われることなんてほとんど無いけど、でも未だにネットで目にすることが多いかな。叩きやすいんだろうな。性犯罪のニュースとかでさ、どうせ犯人は韓国人だってコメントとか見たりするとな、なんかちょっと複雑だわ」

「ああね、匿名性のネットほど悪意の矛先を向けやすい場所はないもんな。ただ憂さ晴らしをしてるだけだろうけど。ろくな日々を送ってない奴なんだろうな」

「ちょっとキレるとすぐ、やっぱは短気だとか火病とかキムチくせーとか言われたりな。だから俺は極力ステレオタイプとは違う存在であろうとした」

「わかる。俺もB型だからさ、すげえ偏見で物言われること多かったもん。血液型別の性格判断って、ステレオタイプに影響されてしまう後天的なもんだよな、日本の場合って」

「ハーフとかってのも大変だよな。地域によっちゃ移民の子だらけの街もあるけどさ、普通は学年にせいぜい一人二人だろ。二重国籍のガキが多い地域はやっぱり治安が悪いっていう事実もあるんだけどな。でも結局それって迫害されるからだぜ。とにかく日本はとにかく神経質なほどに異質なものを拒む。差別や偏見はよくない。無知からくるもんだ」

「でも俺は別にイジメられたりはしなかったぜ。俺はクールなキッズだったから」

「大事なのはそこだよな。イジメられる側にも問題があるとかそういう話じゃなくてさ、大事なのはクールであることだよ」

「ポリコレだの多様性ダイバーシティだの。それに言葉狩り。マイノリティに優しくなり過ぎて、世界はどんどんおかしくなってるぜ。性、人種、宗教、思想。いちいち意識すること自体が煩わしい事だ。在日特権や同和問題なんてのはもうメシのタネにはならないから、タカリ屋どもはどんどん新しくを作り出してる」

「お前、歴史を知ってるか?」金子が湯賀に噛み付く。

「お前は何を知ってるんだよ」

「そういう言い草はどうなんだよ」

「まぁケンカすんなよ」と我妻が珍しくたしなめる。「俺だって出自はブラックだ」

「いつもの事だろ」と柴が笑い飛ばしてまとめる。「コイツらなりのブラックジョークさ」

冗談ジョークとかって便利な言葉だよな。そう言えば全て許される風潮だ。本気にした方がマヌケなんだって」

「いや、悪い。そういうことを言いたいんじゃなかった」と金子はうなだれる。「なにをやっても中途半端なんだよ、俺は。全部言い訳にしちまってたんだ。コネがないだの、見た目がよくないだの、努力や実力不足を世の中のせいにしてたんだ。酸っぱい葡萄サワーグレープってやつさ。その結果、世界を憎むようになってしまった。自分を持ち上げ、他人を蔑むことでプライドを保とうとしてた。我妻も湯賀も金持ちだし、ハルマってツレも金持ちだ。いや別に金だけの話じゃない。俺の周りには結構そういう、すげえ奴が多いのに、俺は何者でもない。何も成し遂げてない。半端者だ。こないだなんか電話で元カノに愚痴るなんてダサすぎることをさ…」

「髀肉の嘆だねえ」と柴。「もどかしいよな、確かに。俺も今は結構幸せだけど、それはそれで不安なんだよな」

「…自分を特別だと思ってるか知らんが。お前くらいのやつなんか山ほどいるぜ。『ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬ出来事があるのだ』。お前の世界や視野が狭いだけだ。孤高ぶるな、孤独なだけだ」金子が独り言のように呟く。

「なんかブツブツ言い出したぜ。やっぱコイツはクサとは相性悪いんだぜ、性格的に。実は人一倍ナイーブでデリケートだからな。アッパーなやつじゃないと」

「ああ。被害妄想と勘繰りがひどいぜ?」

「人生は配られたカードで勝負するしかないんだぜ」

「勝負した結果、負けるだけさ。どうせなら完全にクソな手牌なら開き直れたのにな。この局はってな」

「自分が凡人だと悟ったら楽だぜ。ご大層な野望やら、分不相応な期待を持たなくて済む。それも悲しいけどな。なあに、じきに慣れる」

「おまえ彼女かわいいじゃねーか」

「あいつはちょっと美しすぎる。お前くらいの男と付き合ってて、ようやく人並みのスペックに落ちる」

「人を呪いの装備みたいに言いやがって」

「連れてる相手で本人の価値が測られるってもんだろ。成金野郎が美女を横に置きたいのはそういうことさ。見栄でしかない」

「なんか安いドラマみたいだよな。逆シンデレラストーリーみてえな。ダサい男に美女が惚れるっていう、モテないオッサンの妄想と願望で書かれた脚本みたいな、さ?」

「ボロクソ言うじゃねえか?俺にも輝いてた頃があったんだよ」

「イケてるグループは学生時代がピーク、って説だろ?確かに人気者だったよな」

「ああ、十九歳から二十二歳くらいまでは毎日が楽しかった。無敵だったよな」

「まさにYoung, Wild and Free って感じだったよな。よくイベントもやってた」

「そうさ、覚えてるだろ。あの感動。魂が震えた感覚。無意識に雄叫びをあげてた。ライブの終わりなんかは、やたら興奮してみんな抱き合ってさ…なあ、あの日の…あの青春の日々の続きをしようぜ。何年か休んじまったけど」

「人生の山は、なにもひとつだけじゃない。山脈みたいなもんさ。山あり谷あり。このところは下り坂だったけど、また登り始めてるのかもしれんぜ。夢を見ることは一番のライフハックだ。ドラッグなんか屁でもねえ」

「確かに。じゃあさ、とりあえずバンドやろうぜ。日本の音楽シーンを変えてやらねえと。ダサいヤツらが多すぎる。外人贔屓になんのも仕方ないよな。売れてるポップスターとかより俺らの方がいい曲を書けるぜ」

「どの売れねえバンドもそう言う。掃いて捨てるほどあんだぜ?」

「俺らに必要なのは、もっと自信を持つ事だ。鬱積したエネルギーをさ、音楽に向けるべきだぜ。魂をぶつけるんだ」

「そんな負のエネルギーも無いんだけどなあ。別に不満や怒りに満ちてるわけじゃないし。無気力なだけでさ。なんかモチベーション欲しいよな。モテたいからバンド始めましたって話じゃねえしな」

「なんだかんだで我々は音楽が好きだろ。それだけでいいじゃねえか」

「帰ったらとりあえずスタジオ入るか。思いっきりデカい音を出すのも久しぶりだろ。我妻はDJよろしく」

「乗り気だねえ。行動を起こすのは良い事だけどな」

「そうさ。とにかく動かないと。アイドリングしてても、空ぶかししてても、ガソリンは減るんだぜ」

「なんか名言ぽいけど、そうでもねえな。誰かの受け売りか?」

「俺たちはまだ終わっちゃいない。まだまだこれからだ」

「そうだよ。まだ始まってもいない。このまま終わらせるには悔いが残る。必死に生きて、泥臭く、もがき苦しんで、その先になにかを掴みとろうとする…そんな若さ、がむしゃらな気持ちを嫌ってちゃいけない。もうすぐ三十だなんて考えちゃうと、頑張っちゃうのが恥ずかしくなるかもしれないけど、情熱さえあれば人はいつだって若く、青春時代でいられるんだよ」

「人生まだまだ慣らし運転シェイクダウンさ」

「主人公の条件は、そいつの顛末をみんなが知りたくなるキャラクターかどうかってことだ。悪者でも、正義の味方でもな。ここに役者は揃ってる。俺たちがどうなるか、世界に見せてやろうぜ」

「マジックアワーって知ってるか?オレンジ色、金色、紫、青。全ての美しい色彩が完璧なバランスで調和している夕暮れの空さ。わずかな間だけど一日のなかで一番美しいって言われてる。それから黄昏トワイライトが訪れる。黄昏なんてのは比喩的に、盛りを過ぎて勢いが衰える頃の意味にも使われるけど、まだ死にはしないって意味でもある。真っ暗な夜になっても、夜がまた明ける頃、朝靄の霧の中、陰と陽の境界線に、また美しいグラデーションの朝焼け、ブルーアワーが訪れるんだぜ。陽はまたのぼり繰り返していくのさ。世界は美しいんだ」

「そうだよ。世界はこんなにも美しい」

「ああ、見ろよ、夜明けDAWNだ」

 ドラッグでブーストのかかった彼らの感情は溢れ出し、涙を流して抱き合った。ちょうど日の出の刻だった。そのとき、"one perfect sunrise"がスピーカーから流れだす。高みへ誘う女声とシンセ。これはまさに完璧な夜明け。世界は今、たった今創造された。そこに同時に自分達も生まれた。神が創造したかのように。極まる一体感と多幸感が包み込む。

 感情が揺さぶられるなんてことは、この数年は全く無かった。久しぶりに心が震えたのだ。思わずガッツポーズや心の声が漏れてしまうほどの達成感や喜びを感じることは人それぞれにある。難解な計算問題を解いたとき。極めて望みの薄い手術を成功させたとき。プロポーズが成功したとき…。

 それが舞台に立つ人間にとっては、演劇でもスポーツでもコンサートでも、大勢の観客の前で歓声とライトを浴びること。それ以上のことは、なにもない。

 完璧なステージと、完璧な終幕。

 金子、湯賀、柴は同じ幻覚を観ていた。光と音のやまない夜。汗と笑い、涙。そしてやがて朝日を迎える。そんな、求めていた完璧な夜明け。妄想のその光景が網膜と心臓に焼き付いていた。

 これがその景色だろうか?

 これさえできたら。この夢が叶ったら。そしたら、もう終わってもいい。

 今日は最高の日。今までに無いくらい。明日なんていらない。

 今日が最高だから、そのあとは今日より良くなることなんてない。

 今日が最高の日で、最後の日なら、もう言うことはない。

 今日ほど素晴らしい日は、後にも先にももう無いから。

 いつか燃え尽きる。それが、その時だとしたら…

 むしろその瞬間に。その絶頂の気分の時に。

 この時の為に生まれてきたんだって、きっとそう思えるような…

 認められた夜に、赦された朝に、喜びと安堵感とともに。

 死ぬならそんな日がいいだろうなと思っていた。

 死ぬには、そんな日が。

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