プロト・ニュータイプ     ー柴ー

 SAMO…SAMO…Same Old Shit. いつもと同じさ。日が違うだけ。例によって俺は時間を持て余している。言い方を変えると、ヒマだ。家で適当にテレビを見てる。姑息な見出しに釣られていくつかのどうでもいいネットニュースも見る。SNSで詐欺師みてえな若い金持ちニューリッチどもが時計や車や巨乳の女を自慢して、猿みたいな奇声を上げながら整形モンスターだらけのキャバクラでシャンパンを開ける様子を見る。何かを夢見てこんな連中のになってる低脳どもが心底羨ましいよ。信じる者と書いて儲ける、だっけか。

 とにかくだ、死ぬほどしょうもないモノでも時間潰しに見てしまう。それほどヒマってことだ。ランニングでもすりゃマシなんだろうが面倒臭い。地縛霊でも取り憑いてるのかと思うくらい、頭と体を極力使いたくないんだ。なんか毎日とんでもなく時間を無駄に過ごしてるという思いはあるが、そこはそれ、現実逃避で気を持ち直す。現実は厳しい。三十六計逃げるに如かず。状況が悪い時はじっと待って物事が好転するのを待つんだ。果報は寝て待て。何年か前にひいたおみくじにそう書いてたぜ。逃げて逃げて、逃げおおせりゃ鬼ごっこは俺の勝ちだ。俺は現実逃避を才能としたニュータイプだ。

 ともあれ、俺がカウチポテトってやつを極めていると、携帯が鳴った。後輩からだった。お疲れ、と決まり文句で応答する。

「かっちゃん、俺ら今日ライブやるの憶えてる?」

「何のこと?」

不二人フジヒトくんのイベントだよ」ああ、バンドやらDJやらダンスやらゴチャ混ぜのやつね。我妻の友達のやつだ。俺はそこまで仲良くないけど。

「今日、『タイマー』だからね。ゲスト枠で取っとくから来てよ」まあノルマ以前に集客が少ないから一人でも増やしたいんだろうな。ゲストなんて、ごたいそうに。何の値打ちもねえよ。どうせ女なんかほとんど居ないんだろうし。

「あー…わかった。んじゃ、まぁ、行けたら行くな」

「それ絶対来ないパターンじゃん。とにかく待ってるから、よろしくね」

 しかし後輩の読みは逆に外れ、俺は酔狂にもそんなつまらなさそうなイベントにすら行ってみようかと思えるほどにヒマだ。外出するのはかったるいが、日が暮れてからのこの団地には出来るなら居たくない。リアルは充実していないが、俺は別にヒキコモリってわけじゃないんだ。

 ひとつ大きく深呼吸をして、立ち上がる。後輩のバンドはハードコアなのを思い出してとたんに気が滅入る。聞いてるだけで疲れるんだよな。

 深呼吸からの溜息をひとつ。シャキっとしよう。冷蔵庫を開けて…も何も入っていなかったから、コーヒーを煎れて飲んだ。そして一服。時間は夜九時過ぎだが、俺にとっては朝の感覚。Keep Only One Love、クール・メンソールとブラックコーヒーは最高の朝食だぜ。しかしまだ時間が早い。一眠りしてから行くとしよう。

 はっと気がつくと、夜中の十二時を回っていた。カフェインというのは眠気覚ましとか利尿作用とか色んな効用があるけど、これがもたらす覚醒効果というのは、興奮状態をって事だから、すでに脳が目覚めてる状態、何かに取り組もうと気合いを入れた状態で飲むと効果が期待できる。しかし眠くてダラダラしてるときに摂取しても意味は無いんだ。まあ血管を拡張させたりもするから、効きやすい奴がコーヒーを飲むと心拍数が上がってテンションも上がるような錯覚をするだろうけどな。

 まあともあれ、目覚めはよくなる。すっかり頭がクリアーだ。そして完全に遅刻を悟った時、逆に諦めがついて落ち着くよな。どうしようかな。もうけっこうな時間じゃねえか。イベントそろそろ終わるんじゃねえか。まあいいか、とりあえず行くか。

 服を着替える。Tシャツにハーフパンツ。パチンコに行く時くらいラフな格好にNew Eraをかぶり、金の入ってない財布や、通知の無い携帯やらを持って出かけた。目的のハコは飲み屋街のド真ん中にあるビルの地下にあって、今日のようにイベントがある日とかで、バンドとバンドの幕間の時間にはそこらの道端にガラの悪いガキんちょが溜まって缶チューハイを飲みながらタバコを吸って唾を吐いている。よく高校生の時なんかはママさん風なオバちゃんやボーイに怒られたっけ。

 自転車ママチャリを漕いで到着したのは夜中の一時。ちょうど店が水商売の女達がわらわらとアフターへ繰り出している。伴うのは赤ら顔、えびす顔のおっさん共。残念ながらホテルまで辿り着くことはできないだろう。彼女たちのセックスの相手は、さっきまでアンタらの接客をしていた、刺青まみれの黒服ボーイだぜ。

 店の前まで来ると、案の定ガラの悪い連中が周りにタムロしていた。俺を呼びつけた後輩の姿は見えない。たぶん中にいるんだろう。階段を降りてエントランスへ向かい、名前を伝えてフロアの中へ入った。客入りは意外にも多い。何人か見た顔があったけど、名前は知らない奴ばかりだ。ちょっと年下の世代だな。イベントでよく見かけた顔ぶれだ。現役のってやつはこんな田舎じゃ結局トータルでせいぜい三百人くらいしかいないんだ。どんなイベントに行っても、そこで見る顔がほとんどSame Old Shitいつもと同じだというのは、ココみたいな一丁上がりの街の腐った部分だ。地元のクラブでナンパなんかしてみろよ?絶対にツレのツレだとか、誰かの元彼女とかなんだぜ。イベント関係じゃなくても、三人ほど知り合いをたどれば共通の知人に行き着く。ああ、イヤになるよな。まじ未練ねえよ。この土地には。何をするにもセンスねえ、ダサい奴ばっかりだし。

 暗転していたステージにうっすらと青い照明が灯され、サウンドチェックが始まる。いよいよ演奏が始まると、外にタムロしてた連中が続々と店内に流れ込んできた。狭い店内だ。百人も入れば体の自由がきかないくらいギュウギュウ詰め。君子危うきに近寄らず。ケガするからな。俺は一番後ろの壁際まで避難している。どのジャンルのコンサートもそうだけど、熱狂するオーディエンスって客観的に見ると変な儀式みたいで気持ち悪いよな。地下アイドルのイベントなんて酷いもんだ。アイドルってのがそもそも偶像って意味だから、崇拝の対象という意味では宗教的な信仰の表現としてそれぞれの方法があって別にいいのか。まあ、そもそも日本には花火を打ち合うとか、デカいチンコの形した神輿を担ぐとか、裸で真冬の滝を浴びるとか、奇祭や奇行の慣習がある。念仏を唱えたり、二礼二拍手一礼とか、そんなのも変な動作だよな。何気なく生活に溶け込んでる、客観的に見れば不思議な習慣てのがあるよな。そして、ハードコア教の作法としては、腕を振り回して客同士で体をぶつけ合うというがある。

 ああ、頭が痛いぜ。それに加えてこのハコの音響は最悪。更にバンドの演奏はヘタクソ。酒を飲む気にもなれない。仲間うちだけで盛り上がってるようなローカルの音楽イベントって、内容はだいたいホームパーティーの延長なんだから、もうカラオケ屋でやれよっていう。

 バンドが終わって、ロックDJが回し始めた。まさかの椎名林檎。でも、ヘタクソなバンドの生音を聴くより一億倍良いな。その次はダンスショーケース。時間は二時前。風営法?なんだよそれ。見回すとだんだん人が集まってきた。これ目当ての男も多いんじゃないのか?フライヤーなんて見てないけどどうせ、お前誰だよ?っていうチンピラみたいな男の写真と、ケツを突き出した外国かぶれの女を大々的に載せてんだろ?

 ダミ声で何を言ってるのか判らないMCが登場して、ダンサーを紹介した。お立ち台にはトゲトゲの付いたエナメル素材の水着みたいな衣装を着たSM嬢のような格好をしている女が四人。名前を呼ばれると一番端の女が体をくねらせてセックスアピールを繰り広げる。このピンクの照明の下でも分かるくらい残念なお顔立ちをしているが、男どもはお構い無しに歓声を上げてステージに食らいつく。二人目も同様に名前を呼ばれると、男を挑発する仕草をする。ゲスな連中だ。俺はいまいちノリに乗れず、ビールを片手に突っ立って呟く。人混みの中で孤独を感じるそんな事当たり前…。

 三人目は一番若いだろうか、化粧は濃いが顔立ちはまだあどけなさが残っている。いったい何に憧れてこんなことをしてるんだ。親御さんが泣くぞってなもんだ。そして最後の四人目。もはやMCはプロレスのリングアナウンサーのようだ。

「ア゛ア゛アア゛ァ゛ィ゛ィィ゛イ゛゛イ゛ナ゛゛ナ゛ナ゛ァ゛ア゛ア゛ア!」

 うっせーなマジで。耳障りなんだよ。夏に大発生する田んぼのカエルかよ。最後の四人目を紹介したところで、俺は再度ステージに目をやる。あれ、おい。かわいいじゃねえか。一人だけレベルが違うな。誰かに似てるぜ。女優のさ、名前なんだっけか、あの、あー、まあいいや。へえ、カワイイな…っと思って見てたら金子の元カノじゃねえか。名前はアイナだ。彼女はひときわ下半身部分の表面積が小さいボンデージスーツを纏って踊っている。ゴーゴーダンスというのか、昔訪れたアジアの夜に見た光景だ。見世物小屋と変わらない、ゲスな連中の好奇の的にされて、一体どういう気持ちなんだ。もっと私を見て!って心理なのか?レゲエダンスは動物の求愛行動を表現しているんだっけか?バーレスクなんかも、フランスのキャバレーの娼婦の自己アピールなわけだろ?

 と、考え事をすることによって気を紛らわせ、勃起を回避しようとしてる俺がステージから目を逸らした時、前方の壁際で一人の女性を見た。

 心臓を打ち抜かれたような衝撃。全身に流れる血が一瞬止まったような感覚。体が冷たくなって、時が止まった。

 再び時間が動きだしてから、心拍数の上がり方が尋常じゃない。緊張、興奮、焦燥、どういう感情なのか分かりにくい。落ち着け、とにかく落ち着け。

 なんで原野マヤがいるんだ?

 アイナがいるからか?ああ、従姉妹だもんな。それにしても何でここにいるんだ?東京にいるんじゃないのか?帰省ってシーズンでもないよな?俺が彼女の姿を凝視して考えを巡らせていると、マヤが視線に気づいたのかどうなのか分からないが、俺の方を向いたからとっさに目を逸らした。横にいる女は確か…よく一緒にいた友達だ。そいつの名前はすぐ思い出せない。それはどうでもいい。どうしよう、声を掛けるべきか?いや、何と言って話かけるんだ?じゃあ無視するか?気づかなかったフリをするか?どうしよう?どうしたらいい?

 俺が答えを出せないまま、心臓が鼓動を早めたまま、元いた場所に突っ立ったまま、イベントは終わりを迎えた。棒立ちで、壁際に立ち尽くす俺を置き去りにして、客はどんどん外に出て行く。マヤが出て行くのも遠目に見守った。

 俺を呼びつけた後輩が声をかけてきて、俺に礼を言い、感想を求めてきた。こいつらのライブは見ていないし、そんなことはどうでもよかった。

「良かったよ」と俺は言った。

「かっちゃん、ライブしねーの?」俺にビールを差し出して問いかけてくる。

「どうかなぁ。また、やりたいけどな」

 その後、なんだかんだで最後の最後まで残っていた。眠くもないし、帰ってもヒマだというのもあったが、マヤの行方が気掛かりだった。きっとアイナと友達と一緒に帰ったんだろうが、気になって仕方がなかった。飲み直したい気分だったところ打ち上げに誘われたので、せっかくだから付き合うことにした。連中が清算を済ませるのを待って、近くのチェーン店の居酒屋へ向かった。

 行ってみると二十人近くメンバーが集まっていたが、ほとんど知ってる顔がおらず、また場違いアウェイな感じがして、やっぱ帰ろうかなって思ってたけど、奥の方にマヤとアイナがいた。アイナは着替えてきていて、カジュアルな服装と派手な化粧がアンバランスに見えた。隣には知らない顔の男もいた。俺の存在には気づいてる筈だが、目を合わせようともしてこない。酒をある程度飲んでいるとしたら、マジで気づいていないという事も有り得る。で、俺は帰らないことにした。なんとなく胸騒ぎがする。ハラハラ、ドキドキ。ただの嫌な予感かもしれない。今夜の成り行きが予測不可能だ。結局、このまま何もなかったように家路につき、眠りにつくのか?それとも?

 もう俺には何も関係ないことの筈なのにな。俺は未だに昔の事を引きずってんのか?ずいぶん前の話だ。俺がワケもわからずにフラれた。それでもう何もかも無気力になって、喪失感が半端じゃなかった。思えばあの時から俺のメンタルは崩壊して、何もかもが上手くいかなくなった。人間不信、自己嫌悪。ちょっとでもヘコむと、希死念慮や破壊衝動が襲ってきた。酒をバカ飲みして、ひとしきり荒れたあとは半日くらいずっと寝る。そんな生活を繰り返していると段々と慣れてしまって、挫折に対しても不感症になっていた。俺の人生はただただクソで、死ぬまでの時間潰しなだけだと悟ったんだ。

 それにしてもそんな具合で何もしねえで毎日ダラダラ寝てばっかりいたら、月日の経つのは早いな。まともに顔を見たのは数年ぶりだ。でもよく憶えてる。で、今の俺はアイツから五メートルくらいの距離に座ってる。俺はずっとチラチラと彼女の方を見ていた。この光景はなんとなくデジャヴだ。皆でつるんでた頃が懐かしい。マヤ、湯賀、金子…あいつらの女もいた。そう、金子にはアイナが横にいて、湯賀にもミホだかマホだかそんな名前の地味な感じの彼女がいた。宇佐や我妻もそれぞれ彼女がいて、俺にはマヤがいた。どう見てもマヤが一番かわいかったから、俺はこっそり優越感を感じていたもんだ。

 元々はマヤと湯賀が幼馴染で、そのきっかけで知り合って、アイナがどういうわけか金子がカッコいいとか言って…まあ好みは人それぞれだからな。アイナは俺たちより確か五歳くらい年下だったが、そう見えない程にオトナっぽかった。しかし珍しいよな。マヤは日本人離れしているが純粋な日本人だ。多分。もしかすると遡れば外国の血が入っているかもしれないが、本人も知らないレベルだろう。アイナはフィリピンのハーフだが、確か父親が外国人なんだ。白人系のハーフって父親が外国人で、アジア系のハーフって母親が外国人ってパターンが多いだろ?偏見ではあるけど事実として、例外はあるにせよ本国じゃモテない白人男と、白人コンプがすごい日本女ポカホンタスがくっつくだろ?そしてジャパユキなんて呼ばれてた八十年代に多かった東南アジアからの出稼ぎ女性のなかで、不法滞在オーバーステイなんかも問題視されてたけど美人は日本人の男と結婚して、その子供の世代がちょうど今いい歳になってて、それで地元のキャバクラなんかにもかわいいアジア系ハーフの子が多かったりするんだけど、父親がフィリピンだのタイだのって話はあんまり聞かない。理由は皆さんが御察しの通りのゲスな事さ。あとルックスとか言語の壁とかもあるだろうし、妥協や打算もあるだろうけど、良いパートナーを見つけて幸せになってくれれば俺はそれが何よりだと思うぜ。

 そういう色んな事情を超越して、原野マヤという女性は万国共通の美人なんだ。高嶺の花すぎて、ナンパなんてのも滅多にされない。彼氏がいるんだろうなという先入観や、相手にもされないと玉砕するのが目に見えて立ち向かう命知らずはあんまりいないだろ。だからあいつに声をかける男なんてのは、それこそ釣り合いが取れるくらいの高スペック野郎か、美女を見たら脊髄反射で声をかける外国人、それとも勘違いした自信過剰のサル野郎だ。

 そして今の状況は最後のパターンで、つい先日ホモサピエンスに進化しましたとでも言うような、見るからに知能の低そうな類人猿がマヤの隣に座ってきて、ドラミングするゴリラみたいに何やらアピールをしている。俺としては騎士ナイトの務めを果たしたいところだが、いまさら干渉していいのかって葛藤もあるし…でも我慢できねえな。シンプルにうっとうしい。近づかないようにお灸を据えてやらなきゃな。

 ためいき、深呼吸。気合いをひとつ。俺が席を立ってマヤを助けにいこうとしたその時、彼女がその男を殴った。ああ、グーだね。グーでいった。アゴにだ。そして睨み一発。男は間抜け面して目をパチクリさせている。頭上に小鳥がピヨピヨ状態だ。騒がしいせいか、周りは誰も事件に気付いていない。アイナが彼女の肩を抱いてなだめている様子だ。飲んでるマヤには近寄らないほうがいい。酒癖が悪いという一言では片付けられない性質が現れるからな。まあとにかく、俺の出る幕は無さそうだ。

 俺はトイレに立ち、用を済ませる前に手を洗って鏡で自分の顔を見た。俺も負けず劣らず間抜け面をしている。はあ、と大きなためいき一つ。ここの便所はドアを開けるとすぐに男女共用の洗面所があり、その隣に男用と女用の個室が分かれてある。俺が用を足して出てくると、洗面所の前に立っていたマヤと鉢合わせた。

「あっ…」

「あれ?ひさしぶり」とマヤは言った。どうやら本当に気づいてなかったようだ。「こないだはずっと寝てたね」正月の我妻の家での事だろう。確か俺が酔って寝たあとに来て、起きる前に帰っていたんだっけ?

「お、おう…」俺は言葉に詰まり、体が固まって、何を言うべきかも分からなかった。「相変わらずそうで」と間抜けなセリフを吐いた。

「何が?」

「あ、いや…」とりあえず、落ち着け。「大丈夫だったの?さっき」

「何が?」目を細めて言う。

「なんか、変な奴に絡まれてたから」

「ああ」彼女は洗った手を拭こうとしているようだったが、ペーパータオルとかそういうものが見当たらなかった。「手が汚れたから洗いにきた」

「そ、そうか」痺れるセリフだ。「なんか言われたの?」

「別に?かわいいねって言われたから、知ってるって答えた」

「謙遜をしろよ、少しは」

「私くらいになると、謙遜するとかえってイヤミになるからね」と彼女は微笑む。「まあそれだけならいいんだけど、『おまえ本当は寂しがり屋だろ?俺には解るよ。強がってるけど繊細なタイプだろ?』とか言ってきたから、なんだこいつ、ぶっ殺してやろうかって思って」

「そうか、俺の出る幕は無かったな」うん、ナンパのアプローチとしては大失敗だな。それで女も過去にはいたのかもしれないが。相手が悪かったようだな。

「なに?助けようとしてくれたの?」

「あ、ああ、まあ…」

「ふーん」と言って、彼女は濡れた手を俺のTシャツで拭った。「ねえ、帰りたいから送ってって」シャツを引っ張られて体を寄せられて、耳元でそう囁かれた。アルコールの匂いと、吐息の熱を感じた。俺は大いに戸惑った。これはどう受け取ったらいいのか?いや、しかし期待などはするな。

「え、でも俺、自転車なんだけど」

「後ろ、乗れないの?なんかオシャレ的なやつ?ああいう…」

「いやママチャリだからまあ一応、乗れるけど…」

「よし」よくないだろ。いや、いいのか?まあどうとでもなれ。

 店の外で待っていると、しばらくしてからマヤが出てきた。ジーンズをたくし上げて自転車の荷台にまたがると、酔っているのか疲れているのか、俺の背中に身体をあずけ、腰に腕を回してきた。彼女の体重と体温をダイレクトに感じ、俺の心拍数は更に早まった。ああ、この香水だ。彼女の香り。実は俺は同じ香水を持っている。シャンプーとコンディショナーも彼女が愛用しているのと同じものを買ったことがある。それを枕に塗り込んで眠るという、冷静に考えてみれば気持ち悪い事をしていた。

「これ、足、どう…」と言いながらヒールを履いた両足をバタつかせて、足の置き場の無いことにイラついたのか、靴を脱いで投げ捨てた。俺はそれを拾ってカゴの中に入れる。

「だいぶ飲んでんの?」

「いいえ、それほど」と言いながらも、その口調はスイッチが入る一歩手前だと感じた。裸足の女神はなんとか御御足の居場所を見つけ、俺はペダルを漕ぎだす。

「大丈夫かよ…?」こいつの酒好きは筋金入りだ。飲みだすと疲れて寝るまで止まらない。あと一回ノックアウトなのに、それまではピンピン元気に動いてる格闘ゲームのようだ。子供もそんな感じだよな。騒ぎまくってたと思ったら、一瞬で眠りに落ちる。そう、酒は好きなんだが決して強いわけじゃない。飲めば飲んだ分だけキッチリ酔っ払う。酒癖の悪さは折り紙やらお墨やらフダやら熨斗ノシやら全て付いている。美人だから多少の暴言や暴行は多めに見られているが、とにかく危なっかしい。そんな理由もあって、俺は絶対に彼女を身内以外の飲み会なんかには行かせないようにしていた。

 そんな事を思い出しながら自転車を二人乗りで漕いでいると、まるで高校生に戻ったみたいな気分になって、下り坂を走ってる時なんかうっかりあの青春ソングを口ずさんでしまいそうになった。

 信号で止まって後ろを振り返ると、マヤはしっかり俺をホールドしているものの、ぐったりしている様子だった。

「大丈夫か?やっぱタクシー呼ぶ?ケツも痛いだろ」俺が話しかけると、マヤは顔を上げ、俺たちは至近距離で目が合った。俺は唾を飲み込んで、キスしたい衝動をなんとか抑えて、少し震える手を、躊躇しながら、思い切って、伸ばし、背中を軽くさすった。ああ、クソ。

「うーん…」呻き声すらセクシーに聞こえる。俺の頭はもう邪心でいっぱいだ。「ちょっと休憩する」

 ちょうど目の前にコンビニがあり、マヤがトイレに行ってる間に水を買った。なかなか出てこないが、彼女が吐くのは見たことがないので、寝ているか別の理由だろう。それにしてもあまりに遅いので様子を見に行こうとしたとき、ちょうど出てきた。ずっと外で待ってたと変に思われただろうか?駐車場の車止めに座り込んで、彼女は水を飲み、俺は背中をさすってやった。すると彼女はその手を握って、俺の目を見た。何かを求めるような表情だが、酔うと暴力的になることはあっても、エロくなるタイプでは決してない。彼女の心情を掴めないまま、俺は混乱して頭が真っ白になった。そういえば、彼氏オトコとかいるのかな?

「ところでさ、イトコ置いてきてよかったのか?」

「アレは男と帰るでしょ」

「あーね…」と俺は頷く。「ていうかさ、何であんなイベントにいたの?」

「アイナがね、仕事で行ってたのよ。なんとかダンサーズみたいなのに所属してるから。ギャラ貰ってステージで踊るっていう」マヤは手のひらを八の字を描くようにヒラヒラとさせる。踊りを表現しているのだろうか。「それでまあ私もこっち戻ってきてるし、保護者役というか」

「その保護者役が面倒見てもらっててどうすんだよ」

「はは」髪をかきあげる。官能的だ。「間違いない」

 再び俺はペダルを漕ぎ始める。そしてなんだかよく分からない期待感、焦燥感、不安感やらでハイになってた。けどジェットコースターのように一気に落ちる可能性もある。いよいよ家が近づいてきたというところで、

「それはそうとさ、元気でやってるのかよ?」と言葉が口を衝いて出た。

「ちょっと目眩してきた」

「大丈夫か?」俺は自転車を止めて彼女の身体を支える。目をまっすぐに見て言った。「いや、今もそうなんだけど、その、ここ最近というか、ここ何年かというか、全体的にその、イケてんのかな、っていうさ」

「…そんな見ないでよ」と照れ笑いみたいなのをしながら、冗談めかして言った。俺は一息ついて、

「なんか心配でさ」すると深刻そうな表情で下を向いた。何か考えこんでいるような様子だった。「いや、俺が心配する筋合いも無いんだけど…」

「大丈夫よ。それなりに」

「最近、連絡とか取ってなかったし、まあそりゃ、されても困るだろうけど。帰ってきてるのも知らなかったし、何かあったのかなって思って。あ、ごめん。そんなこと俺には関係ないよな。でも、お前の事はしょっちゅう考えてたから。いや、それも変な話だけど…」俺がながら話していると、

「実はこないださあ、キミにもたまたま会ったんだけど、あんたの話もちょっとしたのよ」そうなのか?湯賀は一言もそんな話はしていなかった。「なんか私のせいもあるのかなって。お前はいつも男をダメにしてるとか言われて」俺は彼女がそう言うのに対して、何を言えばいいのか分からなかった。「私こう見えてさ、そんなに恋愛経験が豊富なわけじゃないんだよね」

「まあ、俺と付き合ってたくらいだからな。男を見る目は無いのかもしれない」

「それは別として、考えてみたらやっぱりそういうの向いてないんだと思う。そもそもね。でもそれじゃいけないとも思ってたわけよ。それで、なんか、コロっといかれちゃったのかな。そしたら、結局は田舎から出てきた案外チョロい女でしかなかったんだろうなって自己嫌悪すごくて。だからまあ、相手がそれだけ凄い人だったんだって思うようにするしかなくて」

「何の話だよ。向こうでの男の事か?」

「愚か者なのよ、私は」大きくため息をつく。「心も体も汚れてるのよ」

「なんだよ、穏やかじゃないな」

「まあ、好きではあったのよ。好きだったらできるかもって、克服できるかもって思ったけど、やっぱり無理だったわ。ただただ気持ち悪かった」

 彼女はトラウマの事を言っているのだろう。俺たちはプラトニックだった。でもそれで不満なんか無かった。彼女には心の傷があったようだから、俺としては手段がどうあれ、それを少しでも癒せる存在になれればそれでよかった。それ以上は望みもしなかった。まあそりゃ欲を言えば…。

「それでその後なんか嫁子供がいるのも判ったし、まあそれで完全に冷めたんだけど、そしたら今度は向こうが狂っちゃって、恋愛ってどっちが優位に立つかが肝心だって言うけど、とにかくもう嫌になっちゃって、半分逃げるみたいな感じで帰ってきたってのもあるんだけど、私って友達もいないし…」目を閉じたまま管を巻くように話す彼女の顔を、俺はじっと見ていた。何となく痛ましい感情で。彼女の紅潮したキメ細かい肌を、じっと見ていた。「…ちょっと、見過ぎだって。やめてよ。顔ドロドロなんだから」彼女はそう言って顔を背けた。

「化粧なんかしなくても可愛いんだから、いいじゃんか」

「それ地雷だよ。したほうが良いからしてるんだから」

「そんなもんかね」

「それにね、もう歳だし。綺麗なんて言われるのも今のうちよ。老いへの恐怖が凄いわ」

「お前でもそう思うもんなのか」

「そりゃそうよ。不老不死を求めたクレオパトラとか、処女の血を浴びてた…誰だっけ…とか、気持ちが解らないでもないわ。が失われていく、だからこそ怖いのよ。美人薄命とか才子多病というけど、そういう人って早世すべくしてするのかもしれないね。綺麗なまま散るからこそ美しいとか言うじゃない」

「まさに花のようだな。確かに優れたもの、美しいものほど儚い。逆に無能で害のあるものほど生命力や繁殖能力が高いよな」

「おっしゃる通りよ」と不機嫌そうに言う。

「でもお前ならずっと美魔女とかそういうので…」

「そんなもの、なりたくもないわ」彼女は苦虫を噛んだような表情をした。「加齢は衰え。それは事実で、絶対に抗えない。努力をしても少し遅らせられるだけに過ぎないの」彼女は大きなため息をつく。「白馬の王子様を待ってるわけじゃないけど、もう疲れたわ。覚悟とか諦めとか、それなりに普通の幸せを求めるのが正しいのかもね。別に私自身、女優やモデルを目指してたってわけでもないけど、平凡な人生はつまらないとは思ってた。でも、優しい旦那と可愛い子供。今となればその価値も分かる気がするわ」

「俺が!俺なら、お前を…」自分でも驚いたが、もう言葉を引っ込めようとは思わなかった。「…俺はお前と一緒になれるなら、それ以上は何も望まず、この街で、どんな仕事でも文句も言わずガムシャラに働いて、お前との日々を生き甲斐にするよ」

 ほんの一瞬、時が止まったような空気が流れた。

「なにそれ、プロポーズ?はは」彼女は一笑した。俺は情けないような、恥ずかしいような、清々しいような複雑な気分だった。マヤがそれから何も言わないから、俺はまたヘコんできてしまって、何故だか涙が込み上げてきた。

「ごめん」そう言って俺は彼女を抱き寄せた。自分の声が震えているのがわかった。「俺のことなんか、もうどうでもいいだろうと思うけどさ…でも…」もうほとんど泣きそうだった。「頼むから、嫌いにはならないでくれよな…」鼻をすする俺の背中をポンポンと優しく叩いて、

「よしよし」と彼女は言ってくれた。「…好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心だっていうけど、私にとって、人間関係ってのは0か100しか有り得ないの」そう言って、俺の頰に手をあて、涙ぐむ俺の顔をじっと見た。

「あ…」

「あんたの事は、好きよ?」そして俺の唇に軽く触れるほどのキスをした。

 まるで石化させられたように全身が硬直して、その魔性の瞳に吸い込まれる。

「ただ…ムカつくだけ」そう言って悪魔のように意地悪な天使の笑顔を見せた。俺は、多分、もう、泣いていた。いっそ今、もう死んでもいい、と本気で、本気マジで思った。そして彼女を強く抱きしめた。

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