ὅ•ἔ•δ / ἀ•μ• θ
感情を言語化するのはとても難しい。
喜怒哀楽の度合いにも個人差がある。悩みだってそうだ。悩みの無い人間はいないだろうけど、他の人間よりも抱えてる悩み自体が本人にとって大きく悪影響を及ぼす類の悩みの種を抱えている人間はいる。つまり同じような出来事や劣等感でも、人によってはかなり
対人問題においても、内省するにしても、問題をミクロ化したり現実逃避をし過ぎると、自分というモノがよく分からなくなってくる。度を過ぎると虚言症や
虚偽記憶症を誘発してしまうのだ。私には既に自覚症状が出ている。記憶、現実、夢、妄想、トリップ…全てがゴチャ混ぜになって混乱し、対人関係やエゴに障害が生まれる。
基本的には、まず自分を愛し、他者を愛し、少々の欠点はあまり気にせず、些細な事にも幸福感を味わい、そうしようとする自分を素直に受け容れ自己満足することが人生の本懐といえる。なのに自分を受け容れられない、何が敵なのかも分からないというのは、完全に病気なのだ。
何か悪い事があったりすると、自分が悪いからそうなったのだと思うようになる。物心が付く以前からそうで、幼少期からそういう感じ方に慣れていると自己評価の低い人間になりやすい。結果的に何も楽しめなくなる。言うまでもなく、これは虐待を受けた子供などは特に陥りやすい。
もし自分が好きなのであれば、もし自分を好きになれたら、親に感謝をしなくてはいけない。人間はそうなっていく生き物なのだ。反抗期や思春期というのは、自分に自信がなく、世慣れない時期の、自分自身のマイナス部分についての親に対する漠然とした責任転嫁なわけで、私の自傷行為もきっと親や神に対しての当てつけなのだ。自らイバラの冠をかぶり、十字架にかけ、傷つけて不幸になることが神と親を苦しめることになる、そういう遠回しで消極的な復讐なのだ。信じられないかもしれないが、世の中には汚い大人にカラダを売ることでカタルシスを得るタイプの女性も存在する。それによって自分の価値が如何ほどかを分かりやすく知ることが出来、結果的に精神的な安定に繋がるという理由で。
思春期は、健全な人間なら誰もが通り乗り越えていく道だが、その不安的な時期よりもっと前の段階から成長していないのにも関わらず、自分では自分自身の事も理解できている気になっているという矛盾が実際の状況と直面したとき、酷く落ち着かなくなる。それで自己嫌悪や鬱の発作が表れてくるのだ。私の場合の発作とは、恐ろしいまでの違和感だ。
感情を言語化するのは本当に難しい。特にこういった違和感を説明する時などは特にだ。なんと言えばいいのか、一瞬だけいきなり脳をすっぽり抜かれたような、寝惚けているような、心に穴が空いたような…私が知るどんな擬音語、擬態語も相応しいと思えないものだ。奇妙な感覚。ほんの一瞬だけ記憶喪失になったかのような…誰を見ても、自分を見ても、まるで夢を見ているような…。
ふっと力が抜けてしまって、ムズムズ、ウズウズするような、落ち着かないような、叫びたくなるような何もする気が起こらないような、混乱と昂奮と苛立ちと虚無感と孤立感の入り混じったような状態、躁状態の爽快さと鬱状態の悲哀が同時に訪れるような…
ジェンダー・ディスフォリアという言葉と、性同一性障害の人間が心と身体の不一致に違和感を覚えるという事というその意味を知った時、それに近い部分があるのかとも思ったが、それを確認する術は今のところ無い。とにかく言葉では言い表しにくいのだ。医者が言う通り、このように言葉にし難い感情、孤独感、絶望感にもご丁寧に名前が付けられていて、それを自覚し、その理由がわかることは、
自傷行為に走る時は、別にパニックに陥っているわけでも、恐怖を紛らわす為でもない。いや、そうとは限らないと言った方が正しいか。ただ状況としては、部屋にこもってディスプレイを眺めている時になりやすい。
結局のところ、私は解決法を知っている。何も薬を飲むだけが全てではない。必要なのはバランス感覚だ。充実した日々と目紛しい毎日、それが欲しい。私を私と信じさせてくれるような。
それでもきっと私には与えられないだろうと思ってしまうのは、私が裏切り者だからだ。私に幸せを与えてくれるであろう何かは、きっと私の事が嫌いなのだ。私が彼を裏切ってしまったから。
いいえ、そもそも、約束も、関係も、何も無かったのだ。
血の祝福と呪いも、偶像も、
世界はいつ終わるのだろう。それとも、もう終わっているのだろうか。私は実際のところ、浮遊する魂なのだろうか。
この国では人種差別もキリスト教も身近な存在ではない。神への信仰と忠誠を示すために自らの肉体を切り刻む者もいる。或いは自分たちと違う者を迫害する。
私は信仰を試されるヨブのようだった。彼と違ったのは、私は最後まで信じる事ができなかった。疑うという事を知らなかった私の価値観は、外を知ることで変えられた。今となっては、聖書も凡ゆる宗教の経典も、大昔に書かれたライトノベルだと思っている。天災の擬人化である彼をデザインしたのは優れた絵師だったに違いない。
地獄のイメージも、ダンテやッティチエルリの創ったもの。天国や地獄という設定に過ぎない。西洋と東洋で描写がまるっきり違うものだから。
神が登場する作品ならば、聖書よりも北欧神話のほうが好きだ。どちらもファンタジーとして捉えた時の、ストーリー性という点では。もしかしたら大昔には本当に神々と人間が共存していたのかも。もしそうならロマンがあって素敵だ。生まれ変わったら是非その御伽の国へ生を受けたいと願う。
…さて、もう彼らの事はいい。いるかいないかは重要ではないのだ。結局のところ、どうすれば良いのか?症例はもう充分、処方箋が欲しい。根本的な問題解決の兆しはどこにあるのだろう?お金などではない。
愛なのだ。きっと。
不完全な私を補い、埋めてくれるミッシングピース、ベターハーフ、ソウルメイト、そういった存在なのだ。
私の痛み、想い、全てを受け入れてくれる存在が神ではないことは分かった。それならば、やはり人なのだろうか。あるいは魔物だろうか?
人の一生は、それを探し求める旅。焦る事は無い。私はまだ旅の途中、まだ夢の中なのだから。
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