モルヒネシティの千の罪 ー上ー

 「待たせたな」疲弊し切った表情をした湯賀が古めかしい雑居ビルから出て来た。景色に溶け込む何の変哲もない外見でありながら、中身は非合法の巣窟だ。

「いや、別に退屈はしてねえよ」そう言う金子の目は、瞳孔が開いて暗闇の中の猫のようにギラついている。朝の光が眩しいのか他に理由があるのか、白目は真っ赤に充血して、瞳は涙で潤んでいる。「貧困調査は捗ってるか?」とても眠そうな湯賀に対して、目が冴えた様子で問いかける。

「ああ、そろそろ論文でも書こうかな」そう言って大きな欠伸をする。

「聞いたこともねえ大学で客員教授にでもなって、ワイドショーのコメンテーターでも目指すか?」

「それもいいかもな。俺メンタル弱いから公共の電波に顔を晒したくはないが」

「はは」と金子は笑う。「それにしても売人プッシャーも風俗もこんな朝からよく営業してるもんだ。商売熱心で感心するよ」

「買い手がいるからこそだ。いつでも何でも手に入る街だからな。金さえありゃあ。近頃じゃコミュニケーションツールも発達してるお陰で、仲介人ブローカーを探す手間も必要ない」金子が携帯を無意味にいじる。

「でも粗悪品ばかりさ。ネタも女も、SNSやダークウェブで無責任に営業してるような商品は。混ぜものして転売されて質も悪いし詐欺も多い。俺たちの地元じゃなんかはが栽培したりしてるし、ヤクザも絡んじゃこないけど、都会で覚醒剤アイスコカインチャリなんてさ、売人Pはガキでも後ろバックにはヤクザスジモンや半グレばっかりだぞ。売春ウリだって反社や不良外国人が元締めさ」

「まあ、でしかないからな。そういうに関するネタは。水商売も芸能も大昔から続いてるだけはあるぜ。巨大な闇だ」

「そんななかで俺は女衒ホストを尊敬してるんだ。ホントだぜ。人間には向き不向きがあるけど、自分にできない事をできる奴は凄いと思うよ。連中が女を風俗に落としてくれるおかげで、俺みたいな男が買うことができる。売ってなきゃ買えねえからな。買い手を選べないのは気の毒に思うが、キモい男のチンポを何本も咥えても、好きな男のためにシャンパンを入れてやりたいと思うんだろう。そこそこいい女にそう思わせられるのって、才能といってもいいぜ」

「整形技術が向上しているおかげで、元がブスでも。結果的に中間層が飽和状態だ。結局のところ、性根がブスのままなんだ。女を磨くために女を売ってるんじゃ本末転倒だな」

「投資ともいえる。容貌差別ルッキズムはタブー視されるが、悲しいかな確実に存在する呪縛だ。現実に見た目が良いほうが幸福度や生涯賃金も多くなるだろう」

「AVなんかも、ただでさえヤる事は一つで、コンテンツ自体に大きな違いは無いってのに、顔まで画一的なんじゃもう成長しない。斜陽産業だぜ。音楽もオカズも同じだ。ガキの頃の使い古しで充分。いつの時代も言われてる、若者の何とか離れってのも供給側にも問題があるな」

「実際問題、すべての元凶は貧困なんだぜ。世界中どこでも事情は同じさ。金がありゃあ心の豊かさは買えるはずさ。経済を回していかないとな」

「ふん」と金子は唾を吐き捨てる。「まあ、どういう理由で金が必要なのかは人それぞれだが、だいたい闇のサイクルってのは繋がって、循環してるもんだ。世界中どこでもそうだろうな」

「ドイツやオランダにも行かないとな。『世界で最も罪深い1マイルレーパーバーン』やレッドライト地区。世界中にありとあらゆる悪徳の街がある。色んな刹那愛通りショートタイム・ストリートと親不孝通りを独自取材して記事にまとめるよ。世界中の貧困調査をしないとな」

「それを言うならカンボジアの置家とか、南米の貧民街のストリートガールなんかも行くんだろうな?見上げたもんだ。病気にだけは気をつけろよ」

「そのつもりさ。バックグラウンドというか人生ドラマには興味がある」

「俺は全然興味ねえな。世界の裏側にどんな不幸な人間がいようが知ったこっちゃない。大体そういうの、余計なお世話だと思うぜ。同情するなら金をくれってな」

「同情はしないさ。見下すわけでもない。ただの知的好奇心だよ。全ての原動力の源は好奇心だろ」

「別に知る必要もないだろうけどな。闇を知ったところで何が変わる?だいたい人間観察が趣味ですとか宣うヤツにロクなヤツはいねえ。何が知的好奇心だ。単なるゲスの下世話な悪趣味だ」

「人の世の闇も美しい景色も、液晶画面を通してだけじゃなく、実際この目で見たり触れたりしたいのさ。こんな不調和な暮らしの中じゃたまに情緒不安定になるだろう?たまにはリアルな何かが必要なのさ」

「与謝野晶子で有名な歌があったな。柔肌の熱き血潮に触れもみで、寂しからずや道を説く君」金子が妙な抑揚で詠む。「お前はどう解釈する?」

「それ確か、童貞のくせに偉そうなこと言うなって解釈が一般的じゃないのか?」

「お前は、まず、彼女をつくれ」金子は首を振り、一字一句をゆっくり、はっきりと言う。「性欲が強い奴って、本当は寂しがり屋らしいぜ。何が貧困調査だ。物は言い様だな。スケベオヤジお得意のクソみてえな綺麗事じゃねえか」

「俺はお前に捧げたいよ。春が、桜に捧げるものを」湯賀はその詩をなるべく感情を込めて詠み上げた。

「はっ、いいね。心に刺さるよ。優しい気持ちになれそうだ」


 朝六時の、今は死んでいる歓楽街を目の前にして、眠らない街にも沈黙のひと時がある。二人は肌でそう感じ取った。通りには人影すら見えない。いや物陰に隠れた泥酔して地べたにうずくまる老若男女、散乱したゴミを啄ばむカラスやドブネズミ、異臭を放つ吐瀉物、見渡せばそこら中にあるグラフィティ落書きや、閉じたシャッターにぞんざいに張られた怪しげな広告などが、この街に確かに群生するケダモノ達の存在を物語っている。天気の悪さも相まって、さながらゴーストタウンと化したインナー・シティのような閑散ぶり。人類が滅びて何百年か後の光景ディストピアのようだ。

 数時間前のナイトクラブでの光景が遠い異世界の夢のよう。爆音、アルコール、ボーダーレスの肌と渦巻く欲望。汗と熱気、ダンスとデカダンス。それらの空気にやっぱり馴染めなくて、一晩中VIP席で下界を眺めていた。スーツにネクタイ、派手なセットアップ、ゴーゴーダンサー、露出した肌、若い女、ガイジン、芸能人。顔ぶれはいつでもどこでも大体同じだ。

 湯賀はスポンサーとの契約事の関係で上京していた。公共交通機関を利用するのが嫌いなので、年に一度、いつも車で往復するのだ。どうせ行くなら乗せていけと金子が便乗してきて、ネタ集めの目的も兼ねて担当者を接待していた。寿司、キャバクラ、クラブというお決まりのコースを経て、珍しく友人を伴って夜遊びをしている湯賀は上機嫌だった。VIPに連れてこられた自称タレントの女達に人の金で飲ませている光景を見ても和かな気分だった。

「すごく若そうですけど、なんの仕事してるんですか?」と女がついにその話題を切り出してくるまでは。

「ただのボンボンだよ」湯賀は愛想笑いをして質問をはぐらかし、これ以上はシラフでいる事に耐えられなくなり、おもむろにジョイントを取り出す。

「ウソでしょ。すごい稼いでそう」

「実はの元締めなんだ」湯賀がそう答えると、女は金子から情報を得ようと視線を移す。

「俺もよく知らないんだけどね、金は持ってると思うよ」と赤ら顔の金子が言う。「ガキの時から一緒にバンドやってて、何年か会ってなくて、最近またよく会うようになったんだけど、車とかさ、すげーいいヤツ乗ってるし」

「えー、すごい。なに乗ってるんですか?」都会の女が田舎のキャバ嬢と違うのは、車や時計それに靴などのブランドに詳しく敏感なことだ。金子が出しゃばろうとしたところで、

「古いアメ車だよ。知ってるかな、シボレーのノヴァっていう」と湯賀が答えると、女はあいまいに頷くだけだった。アメリカ製品には何故か詳しくない。きっと彼女達の情報源にはそのキーワードはヒットしないのだろう。

「あれ?レンジだろ、コンバーチブルの」

「二台持ってる」

「えー、すごい。私の知り合いもレンジとベントレー乗ってますよ」これは心理戦というか、マウント合戦が始まっているのかと湯賀は感じた。しかし、彼にその戦場に上がる気は無い。

「すごいね。さすがに俺は君のパトロンになれるほどは稼いでないよ」と皮肉を込めて言う。

「そんなのいませんって」と女は満面の笑顔で返す。

「ほんとに?五人くらいいそうだよ」そう言うと、女の目つきが少し変わったように感じた。

「それってどういう風に見えてるんですか?」女はなおも笑顔で返し、軽い挑発には乗らない。

「お金が好きそうに見える、かな」

「まあ、お金がかかるっていうのは事実ですよね」二人の間の空気は張り詰めているが、この場にいる他の登場人物にはそれは感じられない。

「俺はさ、君のパパ達に比べたら若いほうだとは思うけど、いくら若くても俺なんかは金を持ってなきゃ相手にもされないわけだよ。悲しいよな」

「そんなこと無いと思いますけどね。っていうかパパいませんって」

「男は四十からとか言うけどさ、金も社会的地位もあって清潔感と渋みが溢れる四十代ってことだからね。ただのオッサンじゃ論外だもんね。は別だから。ただ歳をとればいいってもんじゃないよね」その論理については女は素直に頷く。笑顔はもうほとんど消えている。「こいつなんかも若い頃は…ハタチ前後くらいの時はかなりモテてたんだよ」と金子の肩を掴んで引き寄せる。「細くてロン毛で音楽やってて雰囲気イケメンでさ。けど今じゃそれも単なる過去の栄光。このままじゃどんどん落ちぶれていくだけ」

「なんだ、俺をディスって盛り上がってんのか?」と酔っ払いは笑う。湯賀は金子の酒癖の悪さを思い出した。いつもクールぶっていくせに、酔うと品が無くなる。『酒が人をアカンようにするのではなく、その人が元々アカン人だということを酒が暴く』という誰かの言葉が浮かぶ。

「俺は若い頃ですらモテなかったし、それならせめて稼ぐしか無いなってその時から感じてたんだ。並以下の男は金があってはじめて人並みだから」女はやや面倒臭そうな表情をしている。「逆に言えば、世の中金ってことを割り切れれば生き方は楽さ。こんな街じゃ特に。とりあえず金があれば君だって抱けるだろう。金は物質としては単なる紙だが、『なんでも言うこと聞きます券』だからね。その先の使い道は君次第だし」

「いやいや、そんなすぐ抱かれませんって」と女は苦笑いする。

「額が折り合えば話はつくさ。みんな値踏をし合ってる。ディナー、ホテル、プレゼント、お小遣い。容姿、ユーモア、見栄、快楽。オプションで相場は変動する。結局のところ女は全て娼婦、男は全て消耗品だからさ」

「そんな事言ってたら結婚できませんよ?愛が無いじゃないですか」

「打算はそれを分からないようにするから打算なのさ。全てにおいて若さは素晴らしい。『命短かし、恋せよ乙女』だ。何にでも売り時、買い時がある。華であるうちに、貴女にもぜひ金持ちを捕まえてもらいたい」

 湯賀がそう捲し立てると、女は引いた顔をして席を立った。何か捨て台詞を吐いたような素振りが見えた。連れの女もよくわからないまま共に席を後にした。

「お前さ、女性コンプこじらせすぎだろ。女相手に攻撃的になる必要なんて無いじゃねえかよ。あんなもん、適当に機嫌を取って性欲の処理をさせたらいいんだ」金子がテーブルの上に残されたモエ・シャンドンをグラスに手酌する。

「…なあ、ふと思ったんだが、愛人への手当てって、経費計上できるのかな?」

「知らねえよそんな事」

「贈与になるのかな…百万以上もらってる女だと確定申告しないと脱税になるのか…でもまあそもそもキャバとかも申告してねえだろうし…」

「だからガチなヤツは秘書とかにするんじゃねえの。知らねえけど。お前かなり税金払ってそうだもんな。俺には縁がないけど」

「税理士に任せてるけどな。ふざけてるぜ全く。いくら以上税金を納めてたら合法的に大麻が買えるとか、複数人と結婚できるとか、優遇措置が欲しいぜ。でないと不公平だろ」

「別に一夫多妻制を支持はしないけどな。っていうかそれだと収入減ったら別れなきゃいけねえのか?アラブとかどうなってんだろうな。」

「あらかじめ慰謝料を供託しておくとかな、そういう場合のために。優遇されんのくらいしかないっておかしいだろ」

「上級国民は刑事罰が減免されるとかあるんじゃねえの」

「そういう忖度じゃなくて、明確な法律上の規定がほしいのよ」

「そんなことしたら騒がれるぜ。差別とかいって」

「昔は侍とか貴族とか、特権階級ってのが明らかに存在したんだけどな。貧乏人は暇だからって文句だけは一丁前だ。共産党や左翼の連中は声だけはデカい」

「まあ貧乏人がいなきゃ金持ちも生まれない。世の中はゼロサムゲームだ。まあ、気持ちだけで我慢しとけ」

 やがて時間が過ぎ部屋には二人きりになり、バッドに入った湯賀がくだらねえと呟いて朝を迎え、眠そうな目をこすりながら大きな欠伸をして、

「さて、貧困調査といくか」と言い、早朝の激安店に向かう。金子は反対するでも賛成するでもなく、行動を共にする。そんな夜だった。

「お前に必要なのは彼女じゃなくて、カウンセラーかもしれねえな」

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