夏寂

「なんか、青春って感じだろ」息を落ち着けて、湯賀が言う。

「自転車で来るには遠すぎじゃないか」深呼吸をして、柴が返事をする。

 夕陽を隠した雲が造り出す赤紫色のカーテンが美しい空。夕暮れ時の時間帯でも涼しい風が吹く。二人は昔よく訪れていた海釣り公園の、沖に向いて伸びた桟橋の先に腰を下ろしていた。

 湯賀は炭酸水とジョイントを手に持ち、柴は缶コーヒーとタバコを。釣り竿は持たない。会話はほとんど無く、ぼんやりと、ずっと向こうの水平線を見つめていた。赤く燃える夕陽が半分ほど海に沈んだところで、柴が口を開いた。

「世間じゃ、もうすぐゴールデンウィークってやつだぜ」

「俺らには関係のない制度だな」目線を変えずに湯賀が応える。

「そしてまた、あっと言う間に夏が来るんだな」やがて暮れ残った空を眺め、柴が寂びしげに言った。「でも夏だからって、別に何も無いよな。実際」と、彼はそこを明らかにした。湯賀はただ頷いた。

「若さとは夏に対する期待と憧れ。老いとは夏に対する嫌悪と諦め」湯賀は薄い煙を吐き出し呟くように言った。「夏を待ち遠しく思わなくなった時点で、もう若くはないと気付くのさ」

 二人ともそれを実感していた。若い頃は季節にとても敏感だった。日照時間だとか紫外線量だとか、夜の虫の声を聞くとかだけではなく、季節の変化を、夏の始まりを何となく肌で感じることができたのだ。それは恐らく若さ由来の生命力がもたらす特殊スキルなのだろう。

「光陰矢の如しだ。十代の頃なんて、ほんの少し前の事みたいなのに」

「海、花火、祭り。いいよな、青春って感じで、ガキっぽくて」と湯賀。「今じゃゲームかネットだよな」

「…今日は有難うな」柴が湯賀の肩を叩く。

「何が?」

「連れ出してくれてよかったよ。やっぱ外の空気も吸わないとな。引きこもってちゃ体に悪い。暇が一番怖いよ。いろいろ考えちまう」

「まあ俺はこの景色が気に入っていて、独りでも結構ここへは来るんだが、初めに連れてきてくれたのはお前だったなと思ってさ」

「あんなに毎日のように行ってた釣りも、今じゃ全くやらなくなった」

「どうせやることも無くて引きこもってるだけなら筋トレでもしたらどうだ?」

「南米の囚人みてえだな」

「それもカリキュラムなんじゃないのか?とにかくポジティブになれるらしいぞ。できればジムに行ったほうがいい。男も女も努力して鍛えたカラダを自慢したがるもんだ。趣味嗜好も一致するし、セックスにも繋がる。良いことずくめじゃないか?」

「俺は努力が嫌いなんだ」柴が湯賀の提案を一蹴する。

「まあ、俺もジムに行くようなタイプの奴は苦手だ」そう吐き捨てる。「とにかく…親を泣かすような真似は慎むようにな」

「親には俺を産んだ責任があるだろ?俺は別に好きで生まれて来たわけでも無いのに。だからよ、不良品に対しては責任持ってもらわないとな」その主張に湯賀は渋い顔をするだけだった。まるで自分を産業廃棄物だと言っているようなものだなと思った。「まあ…なにもかも親が悪いわけじゃないのは分かってる。こんな歳になってまでする言い訳じゃないこともな。こんなの反抗期の中学生の理屈だよ。でもよ…」ため息をつく。「言っても仕方ないけどよ、やっぱり幸せな家庭に生まれてたらもっとマシだったかな?って」

「幸せな家庭ってなんだよ」湯賀は瞼を擦って、何度か目をぱちぱちさせた。目が乾いて充血してきている。「幸福の定義って難しいな」

「そうだよ。世の中に不幸なヤツはたくさんいる。でも不幸のレベルなんか誰が決める?俺が自分と自分の人生をクソだと感じてる限り、俺が世界中の誰より一番不幸なんだよ」柴は、その鬱憤を湯賀に向けるように言ったが、矛先が違う事に気付いてやり場のない怒りにうなだれる。「人のせいにでもしないとやってられるかよ…とりあえず、俺が満たされるまでは、世界中の奴らみんな大嫌いだ」

「まあ」湯賀は煙を吸い込み、「言ってる事は解らないでもない」吐き出す。「何が幸せか不幸かって基準は、主観的なもんだ。人それぞれだしな…」

「根本的なところでは大昔から変わらないんだろうけどな。人間の幸福のテーマって。遺伝子に刷り込まれてるんだろうな。衣食住とか、子孫の繁栄とかさ」

「あるいは現代においては」口に渇きをおぼえた湯賀が炭酸水を口に含む。「そういう既存の価値観を持たず、ヒッピーのような暮らしに憧れて、それを実践しようとする人も増えてるんじゃないかな。争いや面倒な事を避けて、無責任に原始的な快楽を求める。それにそれはそんなに難しい事じゃない。別にそういう生き方が法律で禁止されてるわけでもなければ、ものすごく金がかかるわけでもない」

「けど社会の風潮としてさ、そういうの許さないじゃんか。落伍者みたいに思うだろ。俺なんか肩身狭いぜ。真面目に社会生活してる奴らからしたら気楽に気ままに生きてるように見えるだろうな。奴らにとっては鬱陶しいやら羨ましいやら」

「そういう連中は他人からの目を気にしないもんさ」

「とは言ってもよ、皆が皆、南の島で釣りをしながらシエスタして、飲んで歌って眠りにつくみたいな生活を選べねーだろ。結局ここは日本なんだからよ。自然と大人になっちまって、気づいた時にはしがらみだらけの人生だ。まったく、生き辛い国だよな。政治家だってクソみてえな奴らしかいねえし」

「政治家に文句言えるほど政治に参加してるのかよ?」湯賀の指摘に柴は返す言葉が無かった。「カナダへ移住してゲストハウスでもやったらどうだ?日本人旅行客向けのさ、マリファナが吸えますよ、みたいな」

「はは、そういうのもいいな」湯賀の提案に柴は乾いた笑顔を見せた。

「やるか?」と湯賀はジョイントを勧める。「上等のサマー・ミュート夏寂だぞ」

「なんだよそれ」

「品種の名前さ。インディカ寄りのハイブリッドで、THC濃度は約20%。リラックス効果が深い。集中よりは瞑想に向いている。ボディエフェクトとヘッドハイのバランスが良くて…」

「いいや。俺はそういうの合わないからな。ビールとタバコがあればいい」

「カフェインやニコチンだって立派なドラッグだぜ」湯賀は肩をすくめて言った。「人類の歴史はドラッグの歴史さ。コーヒー、紅茶、大麻に精神安定剤。コカイン、ヘロイン、MDMA。世界恐慌に禁酒法、世界大戦。高度経済成長期や世界的不況。パーティーシーンに貧富の格差。世相を反映している。人間は依存する生き物なのさ」

「日本はそこまで顕著でもないだろ」

「戦時中なんか覚醒剤ヒロポンが薬局で売られていたじゃないか。明治時代にも阿片が蔓延していた」

「でも今は薬物に対する罰が厳しいじゃないか。酒には滅茶苦茶ユルいけど」

「それも政策さ。アルコールは大衆の麻薬。酒とタバコとコーヒーは最もコスパのいいドラッグだ。変に覚醒剤や大麻なんてものに興味を示す必要なんてない。この国はアルコール天国だ。このドラッグが盛大に認められている」

「ドラッグねえ…」柴は首を振った。「そんな風に考えたこと無かったな」

「酔っ払うと、誰でもいいからセックスしたくなる。暴力的になる。饒舌になる。楽しい気分になる。泣いてしまう。記憶がなくなる…。こんな作用をもたらす物質がドラッグでなくて何なんだ?人間の身体や精神にそんな効果を及ぼすものが、合法なんだぜ?そんなファンキーなブツを嗜めるんなら、俺だって他のモノに手を出したりしなかったさ」

「ああ、お前は酒まったく飲めないもんな…」

「アシッドは好きだけど、ケミカルもあんまり体に合わねえしな…他の先進国に倣って大麻くらい医療用としていいかげん認めてもらいたいもんだ。そもそも納税額の違いによって人権に差をつけてもらいたいもんだ。上級国民への忖度とかいうような曖昧なスタンスじゃなくてよ、明確な区分けをしてもらいたいぜ。国家への貢献度によって優遇措置を受けられるのは当然の権利だと思わないか?」

「俺はなんも偉そうな事言えねえよ。税金なんてタバコと酒くらいしか払ってないからな。選挙にだって行った事ねえし」

「頭がイカれそうだぜ。毎日毎日のネタばっか漁って金を稼いでさ。姿の見えねえバカどもからクソ以下のリプが飛んできてさ。ストレスは溜まるし腰痛はひどいし、挙句バカみてえな税金取られて、訳の分からねえ事に使われて。それで残った金の使い道なんて大麻と女くらいなんだぜ。泣けてくるよ」

「じゃあ辞めてにでもなりゃいいじゃねえか」

「辞めたら食っていく術がねえよ。金が無きゃなんも買えねえしな。生活保護なんて貰うくらいなら死んだほうがマシだぜ」

「まあな…」柴はしんみりと頷いた。「もう何もしたくねえよ。ただただ面倒くさい。口から出る言葉はそればっかりだ。でも腹は減るからメシは食う。そして眠る。家畜以下だぜ。ただ日々をやり過ごす毎日だ。五億年眠っていたい。すべてが氷漬けになればいい」

「ああ…俺たちの魂はいったいどうすりゃ解放されるんだろうな?」

「死ぬしかねえのかな」

「それもいいかもな」湯賀はふっと笑う。「でも死んで解放されるかどうかは未知の世界だ」

「なあ、お前、死ぬのって怖いか?」柴が問いかける。

「どうだろうな。死に関しては不感症になってる。現実に死ぬ、という事より、観念的に死をイメージする事のほうが恐いな」柴が顔をしかめると、「お前はさ、人生が死ぬまでの時間潰しとか言うけど、死んだ後は何がどうなるかなんて考えた事あるか?」湯賀は頭を上げて訊いた。

「そりゃあるよ。一応な」柴は頷いた。「でも、あんまり考えないようにしてる。考えても解んねえしな」

「死生観ってのも人それぞれだからな。いろんな宗教とか思想もあるように」

「お前はどう考えてるんだ?」

「俺は共感覚、輪廻転生、それにプラスしてパラレルワールドっていう考え方だよ。カオス理論と曼荼羅のイメージ。無数に伸びた世界線が収束するという…」

「なんだそれ」

「オメガトライブ読んだ事あるか?右脳には、いままでの人間の祖先からの遺伝子レベルの情報が詰まってる。だとするならば、そういう意味では、人間はみな繋がれた存在なんだ。そこからも、この広がりを司る脳というものは宇宙と表現するのに相応しい。でも、それがリアルだと感じられないのは俺たち人間は脳を百パーセント使ってないからなんだ。ニュータイプというのはそれをコントロールできるように進化した人間の事を言うようになるだろうな」

「何言ってるのかよく分かんねえけど、もうキマってんだよな?」と柴は湯賀の目を覗き込んだ。目はもう真っ赤に充血している。瞬きも非常に多い。

共感覚幻想マトリックスというのは、SFであって、かつ宗教的な思想なんだよ」

「シュタインズ・ゲートやりすぎだろ」柴が呆れるように笑う。

「見ろよ。目の前には太平洋に繋がる海原。空を見上げると満天の星空。こんなロケーションでトリップすれば、まさに梵我一如、個が全となる」

「こういうこと言い出すから、規制しましょうってなるんだろうなあ」柴は呆れるように言った。「完全にだもんな」

「知ってるか?」湯賀はくっくっと笑っている。「茶道ってのは宇宙との交信だったんだぜ」

「知らねえよ」

「茶を嗜むというのは、一部では大麻を吸引する隠語であったとされる説もある。茶道は禅とも深い結びつきがある。キマってるときに枯山水の石庭を眺めると、そこに四季が浮かんでくるんだ。そして自覚する。宇宙と自我はひとつなんだと。それがバラモンの教え。それが梵我一如。神秘的な体験を得て、神との合一が成されるんだ」饒舌な語り口とは裏腹に湯賀の表情はボンヤリとしていて、目の焦点も定まっていないようだった。

「まあ、そういうスピリチュアルな体験をしてみたいっていう好奇心でやるんだろうな。達はよ」柴は指でクォーテーションマークのジェスチャーをする。「宗教が儀式とかでハイになったりする為にドラッグを使うみたいな話は知ってるけどよ、どうせ正気に戻りゃあ、ただの変な夢を見てたぐらいのモンだろうさ。単なる幻だよ。くだらねえ」

「選別と試練なんだよ。壊れるか、死ぬか、それとも目覚めるか。仏教の荒行と同じさ。ドラッグを用いてトリップするという行為は、精神的な千日回峰行なんだ。俺から言わせりゃ単に気持ちよくなりたいとか、そんな理由でやるもんじゃねえんだ。進化するための通過儀礼なんだよ」湯賀は大ぶりなジェスチャーで何かを表現しようとしている。

「お前の御託と講釈は聞き飽きたよ」柴はため息をつく。「結局同類なんだろうな。タイダイのTシャツを着て反原発とか言って大麻解禁を訴えてデモしてるような連中とよ」

「はは。違いない。まあ俺とお前では考え方も違う。それはそれでいいさ。人それぞれ考え方が違うからいいのさ。納得させようとしちゃいけない。世の中、賢い人間はいっぱいいるのに、いまだに宗教や哲学も統一はされない。それはそれでいいのさ」湯賀は自分の頭を小突いた。

「そうだな。まあそこには皆さん方の色んな都合が存在してるんだろうけど」

「ま、少なくとも俺にとっては、明確でも現実的に感じられない科学的論理と根拠のある事実よりも、抽象的な宗教的イメージや概念のほうがしっくりくる時ってのがあるのさ。逃避と言われてしまえばそれまでだけど」柴はその意見に頷いた。それは本当にそうだと思った。「でも、マジなところ、仮に死後の世界があるにしても、そこでは、またこの意識と繋がると思うんだ。多くの宗教がそう言うように、死んだ後も繋がるんだと考えてる。だから、くたばれば何もかもから解放されるワケでは無いと思ってるんだ。だから別に、天国と地獄とか、輪廻とかの話だけじゃないけど、確信なんてないけど、俺は、どうせ死ぬんだから、ムチャクチャに好きな事やってやろう…って気も起こらないんだよな。そんな気力も無いしな。俺はきっと、あと二十四時間の命だとか死の宣告をされても、フツーに過ごすだろうよ。次に何か別のことが待ってるんだろうな、って思うだけでさ。俺が死を恐れないってのはそういう理由かな。それより、とかいうヤツのイメージのほうが想像がつかなくておっかねえよ」そう言ってからトーンダウンする。「…でもまぁ、人間の未来が常にそうであるようにもきっと予想外なものになるんだろうな…」

「ああ、だろうな」二人ともしんみりと頷いた。

「そもそも宗教なんてのは、哲学や思想運動が拡張したものに過ぎない。例え信者が教祖やの偶像やの聖典を崇め奉っても所詮、あんなのは人間誰もが持つあやふやなイメージや人間の弱い部分を、言葉や行動でムリヤリ具現化してるだけに過ぎない。似たような事考えるヤツってのは、どの時代、どの世界にもいて、無知な一般人の弱みつけこんだちょっとした知識人が口車に乗せて…つまりよ、マルチや水商売の世界と一緒だよ。わかるか?とかとかって思わせたら勝ちだ。だいたい日本のカルトとかも実際パクリなんだから。本当のってのは、自分自身の内にあるものさ」

「神、ねえ…」柴が今日何度目か分からないくらいのため息。「でも最近、宗教にすがるヤツらの気持ちも解るよ。マジで。まともな思考ができないっていうかさ」

「貧すれば鈍するってやつか?」

「そういう事かなあ。人間いよいよどん詰まるとさ、正常な判断できないというか、藁にもすがるというかさ」

「衣食足りて礼節を知るとも言うしな」

「心の余裕って大事だよな。どうすれば持てるのかな。充実感とかさ、これがあれば生きていけるっていう心の拠り所みたいなものがさ…」

「結局、何か依存するモノがいるって事だろう」柴が何も答えないので、湯賀は続ける。「まあ、俺だってそうだな。依存してる。音楽、ドラッグ…」湯賀は指を折りながら数え上げていった。

「あんまり、そういうのやめろよな。どんどん狂ってくぞ、マジで」

「それが家族だとか、仕事であったなら健全なんだけどな。守るべきもの、守るに相応しいものであったならさ」

「俺って破滅願望があるのかな…?」

「どうだろうな」湯賀は首を振る。「俺の場合だと、バカやるのは、自己嫌悪から来る表面化した破滅願望じゃなくて、単に俺はもう、どうだっていいんだよ…それだけ。夢の中で死にたいだけなんだ。ってやつさ」

 しばらく沈黙が続き、夜の闇が訪れた。

「まあ…もう、どうなったっていいよな…」柴が呟くと、鼻をすする音が聞こえた。「…オマエ、泣いてんのか?」湯賀の肩をゆする。反応がない。柴は、何を言えばいいのか分からなかった。

 また沈黙。

「でも、泣くっていい事だよな?泣いたらスッキリすんだろ?」その問いに湯賀はゆっくりと首を横に振るだけだった。

 長い沈黙が訪れた。

「…はじめは、オープンカーが欲しかったんだ…」

「何の話だよ」

「金を貯めて、それだけだったんだよ。望むことは」湯賀が嗚咽を漏らす。「なのに、いつから…こんな…」

「何にだってきっかけがあるけど、人間ってのは気づいたらにいるもんだよな。本当に」柴はタバコを取りだして火をつける。「何で俺らはこんな話してんだ?」煙を吐いて、空を見上げる。「明日、晴れるかなぁ?」湯賀は動かない。「星、綺麗だぞ」それでも無反応だった。「みろよ、あれがベガとアルタイルだ。お前の好きな星はなんだ?俺はシリウスだな。あとスピカとアンタレスもいいな」

「なんで…」湯賀の体は震えている。「星なんか詳しいんだよ。ロマンチストかよ」

「ガキの頃、プラネタリウムに行くのが好きだったんだ」

「懐かしいな。あの何とか科学館だっけ」

「宇宙の広さと、俺たちのちっぽけさを比べてみろよ。悩みなんて塵みたいなもんさ」なんで俺が慰める側になってんだ、と柴は思った。「でも…論点そこじゃないよな。この例え話よく言ってるけど、ただの現実逃避だよな」

 二人とも星空を見上げ、また沈黙が訪れた。

「ああ…いつからだろうな。自分が特別な人間ではないって事に気付いたのは」柴が空を見上げたままで呟く。「金子なんかもさ、口には出さないけどよ、それを感じた頃からドラッグへ走り出してた気がするな。曲も作らなくなってさ。いや、あいつの事はすごい奴だと思ってるんだよ。だからこそ…勿体ねえよな…」

「…きっかけは人それぞれさ」湯賀がポツリと呟く。「何か壁が現れて、どうにも超えられそうにないと思ってしまったら…逃げなきゃいられなくなるんだ」

「あー…だめだ」柴が立ち上がる、「完全に悪いほう入ってるな」湯賀を見下ろすと、彼はまたうつむいていた。「こういうのをし、からやらないんだぜ。俺は」少し怒気を込めて柴が言う。「何かから逃げる為に手を出して、余計に追い詰められてるんじゃ世話ないぜ」湯賀は無反応だ。「ハイだの悟りだの、なにか特別な事してる気になってるのかもしんねえけど、酒飲んで下ネタ言ってる奴らと大差はねえんだよ。ただの戯言だぜ。大体、マリファナも海外じゃ合法かもしれねえけどよ、タトゥー入れまくったダセえラッパーとかが悪ぶって犯罪自慢みたいにして吸ってるからイメージ悪いんだ。大麻もタトゥーもナイトクラブも市民権を認めろとか言う割に、結局自分たちで評判イメージを落としてるんだよ。素行が悪いんだよ」柴が何を言っても、湯賀は殻に閉じこもったように無反応だった。

「おい、起きてんのか」肩を揺さぶる。「なあ、なんか面白いことしようぜ。昔みたいにさ。全盛期の頃を思い出そうぜ」湯賀は一瞬顔を上げたが、またうつむいてすすり泣き始めた。柴がそんな彼を見て、「立て。馬鹿野郎」と言った。湯賀が膝を抱えてうつむいたままだったので、服を引っ張り上げて、無理矢理に立たせた。そして虚脱状態の湯賀の横っ面を思いきり殴った。湯賀がぶっ倒れる。彼には反撃する気力さえない。放心状態で、ただその場に佇んでいる。

「痛え…」時間差で痛みと笑いがこみ上げてくる。「なんで痛いんだ」

「目ぇ覚めたかよこの野郎。生きてるって感じだろうが?」柴はそう言って自分の頬を差し出す。「お前も殴れよ…殴ってくれよ」そしてまだ倒れている湯賀を強引に起こし上げる。湯賀は深呼吸をしてから思い切り殴った。

 それからお互い、何発か殴り合った。そのうち二人とも崩れ落ちて泣き出した。声にはならない心の慟哭。決して痛くて泣いてる訳じゃなかった。

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