ストレイト・ジャンク     ー柴ー

 日が暮れる頃になると怒号が響く。アル中の旦那とヒステリックな嫁の夫婦喧嘩か、それともガキへの折檻か、あるいは借金取りかヘタクソな歌声か、さもなきゃ幻覚と戦う叫び声か。夜中になれば決まったように赤ん坊の夜鳴きが始まる。そんなノイズがあちらこちら。俺はいつでもイライライライラ。家が安息の地だなんて迷信か都市伝説だろ?まるで狂ったサファリパークだ。こんな場所、一秒だっていたくない。

 テレビもラジオもインターネットも、気分転換にも暇つぶしにさえならない。世間の皆さんの興味といえば、お涙頂戴の感動ポルノに現実離れした勧善懲悪。人の不幸は蜜の味か?そんなコンテンツばっかりじゃ飽き飽きウンザリだぜ。だが事実は小説より奇なり。漫画みてえな与太話がリアル。映画みてえな出来事が日常茶飯事だ。この街はまるでゴッサム・シティ。でも生憎どうやらバットマンは休暇中のようだぜ。

 。この注釈を付けておけば無問題かね?俺がこんなに心を痛めているのに、また一つ悩みの種が増える。

「うるせーなあ!」俺は母親ババアを突き飛ばした。いちいちマジでうるさい。人の部屋に勝手に入ってきて、さんざん説教たれやがる。あんまりうっとうしいから出かけよう。上着だけ羽織って、タバコと財布、携帯をポケットに入れた。

「どこ行くの!?」

「オマエに関係ねーだろ」俺は怒鳴ってやった。

「行く所くらい言っていきなさいよ!」むこうも怒鳴り返す。イラついたから、玄関にあった段ボールを思い切り投げつけた。よろけたババアは勢いで壁にぶつかって転んだ。「アンタ、病院行こ。病気だわ。一緒に病院いこ」号泣しながら訳の分からない事を言ってる。俺は無視して外へ出た。錆びた鉄のドアをバタンと閉めてからも、扉の向こう側で何やら叫んでいた。病気なのはワケの分からん薬を処方されてるオマエのほうだろうが。

 さて、困った…。感情に任せて飛び出してきたものの、特に行く宛ても無い。金も無い。う~ん…てゆーか今何時だ?携帯を見た。昼の一時半だった。よく寝たな。といっても昨日何時に寝たかは思い出せない。

 俺はぶらぶら自転車を漕ぎながら、どこへ行こうかと考えを巡らせる。大して何も思い浮かばずに棟の周りを一周して、どっかで時間を潰してから母親がパートに出かけるタイミングを見計らって、また帰って寝ようかなと思ったときに電話が鳴った。宇佐からだった。

勝馬カツマぁ?」

「おう。何してんの?」

「いや、ヒマだったから電話したんだよ。今日は仕事休みだったし」

 奴の言うとはスロットの代打ちの事だ。もはやパチンコ屋が職場みたいなもんだ。母親が必死に貯めてくれたであろう学費を使い込んで学校に行けなくなって地元に戻ってきた、筋金入りのクズ野郎だ。

「よかった。そういうのを待ってたんだよなぁ。んじゃ向かうわ」

 向かうといっても同じ敷地内だ。しかし、ここは市内でも一番でかいマンモス団地。五階建て、全部で八棟。俺の住んでる棟と宇佐の棟は端と端で、移動するなら自転車が好ましい。なんちゃらニュータウンみたいなオシャレな物じゃないぜ。昭和に誕生した今や貧乏人の隔離施設。そう、俺たちの実家は古い市営住宅の団地で、環境はまさに劣悪。なかでもドブ川と公園に隣接した宇佐のエリアは最悪だ。

 それぞれの棟には中央に中庭があって、それを囲むようにロの字形に建てられた無機質なコンクリート造りで、経年、風雨に曝されてヒビ割れてくすんだ色をしている。窓の少ない殺風景な壁。ちょうど海外ドラマに出てくる牢獄のような、360度監視体制パノプティコンのような造りだ。通路の安蛍光灯はしぶとく息の根を止めず明滅していて、に座り込んだ生気のない大人がそこらじゅうウヨウヨ。ここの住人のほとんどが日雇い労働者、あるいは破産者や生活保護受給者だ。それとも不法滞在者や、シャブやタバコやパチンコ代を売春で稼ぐ年増のシングルマザー達。この街有数のゲットー地区だ。まるでLAのコンプトン、のようさ。日本にもこんな無法地帯はまだたくさんあるんだぜ。その佇まいは東洋の魔窟、今は亡き九龍城を思わせる。そんな環境で育ったガキはどんな大人になると思う?わかるだろ?生まれた時から悪のエリート。そんな生き方しか用意されてねえような、そこから抜け出す教育も受けられないまま大人になるんだ。気づく間もなく、周りには悪い大人しかいない。父親が刑務所、母親は売春、チンピラのきょうだい、虐待、当たり前に存在するドラッグ…そんなのが日常で、世の中をどういう風に見るようになると思う?人生をどう考えると思う?そういう負の連鎖なんだ。施設にぶち込まれた方がまだマシな環境ってのもあるんだぜ。逆に教育ママや無関心パパもある意味では同じかもな。とにかくいないほうがいい親きょうだいってものも存在するんだよ。

 ヤクザや無法者アウトローになる奴ってのは、喧嘩に明け暮れたヤンキーだとは限らない。誰かを刺したり食い物にすることが平常で、それに何の抵抗もない奴。女を殴ったり犯したり、何かを奪ったりすることに良心の呵責が無い奴。それがガキの頃からので慣れてしまっているか、あるいは単に頭のイカれてる猟奇的性格をした異常者か。そういう連中だ。だからヤクザや半グレなんかが厄介なのはそこだ。腕っぷしが強かろうが、結局はそこまで大したことじゃない。頭のネジが外れてるやつが一番怖いんだ。キレたら躊躇なく刺す奴、家に火をつける奴。そんな厄ネタには勝てねえんだよ。刑務所か殺す以外に対策が無いんだもんな。

 まあ、子供を殺すとか、通り魔とか、銃乱射するとか、そういう異常犯罪者ってのはまた別枠で、そういう奴らは育ちがどうこうより先天的な部分が大きいだろうな。もともとそういう素質があったうえに、何かに感化されてそうなる。人口のほんの何パーセントかには、が混ざっているのさ。

 人はみな皮を被っている。この世は魑魅魍魎。世界には幾つもの渦がある。それぞれがその渦の中にコミュニティを作っている。表の世界、裏の世界。本来は決して交わるものじゃない。もちろん闇社会はアンダーグラウンドだしマイノリティだ。そんな世界、この国の大多数の奴らにとっちゃ映画や漫画だけのフィクションだろ?感情移入しろってほうが無理があるぜ。けど、そういう世界も現実世界に存在するってことを知っておくのも一つだ。悪徳の世界を、架空のエンターテイメントだという風に片付けてもらいたくないもんだ。実は光と闇は表裏一体だったりするんだぜ。芸能界、社交界、経済界。対するは暴力団、不良外国人、アウトローども。まあ、知らない方が幸せな事もあるかもしれないけどな。とにかく俺たちの育った環境は、タキシードにリッツ・カールトン、Faith, Hope & Charityの精神とは無縁の世界だ。

 それこそアメリカのゲットーじゃよく、ギャングになるか音楽やるか、それしか選択肢が無いなんて言うが、ここじゃそんな逃げ道すらねえ。アウトローをやっててもシノギが無いからな。閉鎖された炭鉱の街が最悪の治安になる歴史があるように、屈指の失業率を誇るこの田舎町は今後じわじわと死んでいくのみだ。

 どんよりした空と同じ色のコンクリの壁を眺めながら、宇佐の棟に到着した。よそ者を見る目でジロジロと見てくる住人達と目を合わせないようにして、俺は意味不明なチラシが貼りまくられた階段で四階まで上がっていき、電話をしてから中に入って、奴の母親に挨拶をした。いらっしゃい、と呟くように言われた。いつもながら愛想のない人だ。俺、嫌われてんのかな?まあ、悪い友達を歓迎する親はいねえわな。

 スロットに行かない日の宇佐はよっぽどヒマなのか、テレビでDVDを流しながら、それを見ようともせずに雑誌を読んでいた。早くまともに働いて、母親を床暖房付きの一戸建てに住まわせてやってほしいもんだ。

「雨降りそうだな」俺は窓から中庭を見下ろす。ガキどもがサッカーをして遊んでいる。引きこもってゲームをしてるよりは健全に見えるが、単にそんなもの買い与えられていないだけだ。ブラジルのファベーラのガキどもがサッカーが上手いのもそういうことだよな。奴は今日は外に出てないらしく、そうなの?と言ってきた。「何かおもしろい事ある?」と俺は訊いた。

「ねーだろ」宇佐はそっけなく答えた。なんで呼び出されたんだよ俺。


 それからは特に会話も弾まず、漫画を読んで時間が過ぎた。しばらくして宇佐はシャワーを浴びると言い出して、俺はその間に本棚をあさる。アルバムを見つけた。公立学校のアルバムってのは社会の縮図だ。金持ちもいれば貧乏人もいる。どんな学校に行って、どんな奴と友達になるかってのは重大な事だけど、結局たまたま親がその近辺に居を構えたって偶然性だけで、割と子供の運命が左右される部分があるのは理不尽だよな。だから高校を出るくらいまでの人生は半分以上は親の縁に由来するもんだ。本当の自立、本当の自分を見つけたかったら、よその土地に出ていかないといけない。自分で選んだ道をな。そんな事を十七歳の頃に気付けていれば、俺も変わっていたのかな?

 真面目そうな見た目で写っている宇佐を見つけた。奴は貧困家庭で育ってはいるが、頭は良かった。もしかしたら顔も知らない父親が、どこかのエリートだったのかもしれないな。それとも母親も、もしかしたら元々はいい育ちだったのかもしれない。しかし本人は未だにこんなボロ家に住んで、若い頃はみたいな仕事をして、今はクソみたいなバイトで生計を立ててるんだから、お利口さんとは言えないな。まあ頭の良し悪しと、金を稼ぐ才能ってのは別物だもんな。

 ページをパラパラめくっていった。マヤの写真に目が留まった。整った目鼻立ち、美しい髪。写真でも充分に伝わってくる魅力。途端にやるせなくなってきた。まぁ、俺みたいな男と付き合ってても楽しくなかったよな。長く付き合いたい人間じゃないよな。包容力も無かったんだろう。あれは奇跡だったんだ。夢が二年続いたんだ。今振り返ってみて、お互いにとってその二年間は何だったんだろう?俺にとっては思い出が美しすぎて、今が辛すぎる。彼女にとっては無駄ではなかったのかな?経験は財産だと思うけど、その間に他にもっといい経験が出来てたかもしれねーしな。タラレバ言っちゃいけないが、そういう意味じゃ無駄に思えて仕方ない。彼女の貴重な時間を奪ってしまった、そんな罪悪感でいっぱいだ。

 アルバムに見入ってると、宇佐が戻ってきた。シャワー上がり、ボクサーブリーフ一丁で。夏の海にウジャウジャいそうな感じの奴だ。日サロに行ってるわけでもないのに黒い肌、シルバーのアクセ。お前だけは頼むからいい歳して和彫りとか入れねーでくれよな。

「何、マヤ見てたの?」宇佐はニヤニヤしながら言う。俺の神経をわざと逆撫でするような口調だった。俺は無関心を装った。だがヤツはまだ同じ顔をしてる。ムカつくぜ。俺はマヤの事はもう忘れてる…忘れたい。あの女は毒だった。別れてよかったんだって。って自分に無理矢理言い聞かすのは簡単だけど、それでも情けないくらい…俺は…。「まぁ、早いとこ忘れろって」と、俺の肩を叩いた。「こないだも醜態さらして。せっかくチャンスだったのに」

 …すげえよな。別れてだいぶ経ってるのに、まだ俺らはそんな話題を持ち上げてくる。昔の人間関係を。それは俺や俺の周りの人間がいかに環境を変えてなくて、成長もしてないってことの証明だろう…。

「もうそんな話いいよ。はやく着替えろよ」

 建物を出て、俺の…というか親の車の置き場まで歩きだした。

「しかし俺たちもこんな土地に住んでて、よくグレなかったもんだよ」俺は見慣れた風景を見回す。

「充分グレてるほうだろ」宇佐が目線をまっすぐに言う。

「まあ昔は多少はね」

「でもまあ、こんな歳になっちまって、もう軌道修正もきかねーよな」

 ほんとに、こんな歳になってるのに何をやってんだ。俺は一体何をしてるんだ。若いうちに成功しないと意味がないのに。金子の言う通りだ。才能のある奴は若くして世に出ている。もちろん相応の努力をしたうえで。そのうえで運もあるし、プロデューサー、広報、スタイリスト、いろんな裏方がいてってもんを作り出してる。ともあれ、行動を起こさないと絶対に何も生まれないってことだ。美女ならいざ知らず、並みの男が道端でスカウトされることなんかあり得ないんだから。若いうちに栄光を掴まないと。歳を取ってから金を持っても意味がないんだ。いい歳して全身シュープリームやヴィトンで固めてもダサいだけ。四十を過ぎてからランボルギーニに乗ったとしてもだけ。若さなんだ。若くないと意味がないんだ。人生で最も尊いのは若さだ。

 音楽だってそうだ。オッサンになってからだと絶対に売れるわけがない。なぜなら歌い手と聞き手は同世代である必要があるからだ。三十代のロックバンドが十代にウケる訳がない。じゃあオッサンにならウケるのかというとそうでもない。だってその世代の奴らは若い頃に聞いていた音楽をそのまま大人になっても聞いてるからな。湯賀も言っていた。データによると、三十を過ぎると新しい音楽を取り入れないようになるらしい。昔に聞いてたモノで充分だってな。だから音楽ってのは、若い時に売れないと絶対にダメなんだ。若い時にファンを掴んで、そいつらと共に成長していかないと無理なんだよ。どんなに素晴らしい音楽にも世代の壁がある。楽曲のクオリティより優先されるのは新しさなんだ。ヒットチャートは常にリアルタイムなんだ。三十を過ぎても芽が出ないなら少なくともロックスターとしての成功は諦めないといけない。

 若さこそが何事にも代えがたいもの。結局、金持ちや権力者が最終的に求めるものも若さだ。どうやっても手に入れられないモノ。若さYOUTH。それには分かってた筈なのに。

 解ってるんだよ。人生で、今日が一番若いんだ。全世界の誰もがそうだ。今日が一番若い。今日が一番価値がある。十年前の俺はその価値を無駄にして、ただただ腐っていた。不貞腐れていた。に屁理屈をこねてた。もう無理だろう。気がつけばこんな中途半端な年齢で、なんの下積みも実績もコネもない。やるだけやっての後悔より、なにもやらずの後悔の方が、やっぱり大きいんだろうな。

 十年後の俺はきっとこう言ってる。あと十年若ければなあ、と。なら今だろ。何かをしないといけないとしたら今しかないだろ。でも分からないんだよ。何をすればいいのか。それがわからないんだ。教えてくれよ。誰か。俺は自分じゃ何も考えられないんだ。十年後、二十年後の俺が目の前に現れたとしたら、一体どんな言葉をかけるんだろうな?


 ダーツバーにでも行こうって話になって、途中でメシを食って、宇佐の行きつけの店に行った。ここにはたまにしか来たことないけど、いつものように空いてる。ビリヤードをしてるカップルが鬱陶しくて、俺は奴らの悪口を言う。宇佐はほっとけと言う。俺らもナインボールを始めた。三本先取で勝ちということにした。金を賭けてやろうと言ったが、借金を返してから言えと却下された。ギャンブルの借金をいちいち覚えてるなんて、細かい野郎だ。

「っつーかお前、働けよ。せめて」と、呆れたような口調で言ってきた。「俺だってお前が借金してきた金とか、親からガメた金で一緒に遊ぶとか、なんか気分わりーんだよ。やる気あんなら何か紹介するからよ」

 あのな、世の中公平でも平等でもねえんだよ。俺が頑張っちゃったところでどうにもならねんだよ。負け組は負け組人生まっしぐらなんだよ。容姿、能力、それに金運ですら遺伝するって言うだろ?

「うっせえな。パチンカスに言われたくねーよ」そう言い返すと、奴は大きくため息をついた。

「お前、そのうちマジで友達とかそーゆーの、いろいろ無くすぞ?」と、俺を心配してか、それともバカにしてそう言った。わかってるよ。わかってるから、そんな事言わないでくれよ。頼むから。

 行動の前に諦めの言葉を書き溜めて、不幸な身の上話や言い訳や負け惜しみを、怒りや悲しみや苦しみを酒で流し込んでゲロとクソとザーメンにして吐き出してる。そんな毎日へのっていうのは、呪いと等しい。住んでる土地や生きてる時代は関係ない。ガラクタジャンクどもはいつだって同じ状況にある。

 こんなどん底にいても、なにかキッカケがあれば、俺も変われるんだろうか。何かになれるのか。正義の味方かそれとも悪の化身に。俺はどこかで道を踏み外したのだろうか?それとも分岐点はまだなのだろうか?今はロウルートか、それともカオスルートか。俺は憎悪するハーレクイーン。闇を切り裂くスペードのエース。はは、お生憎。残念だが俺はサイコパスじゃない。普通の人間だ。いっそ悪に染まっていた方が良かったのかもしれない。この環境から俺は何を学んできたっていうんだ?正しさとはなんだ。正義や悪の概念は時代や状況で変わる。誰も間違ってなんかいない。正義の反対は悪ではなく、別の正義だ。けれども普遍の真理ってのもある。が言ってただろ。「勝者だけが正義だ」

 何もかもバカバカしい。夢も叶わないし、ただの世間の笑いもんだ。この街の片隅で、このままじゃ俺もジョーカーになっちまうぜ。

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