狂気     ー湯賀ー

 ヒトは自らの快適さと幸福、即ち究極的には自己満足という欲求を満たそうとする為に、現在に至るまでその種を進化させてきた。しかし皮肉な事に、人は自由を得る為に汗を流し、平和を願って血を流し、美を求めて涙を流してきた。だがそういった矛盾、必然だが必要ではない過程は人々の心に深く記憶はされない。あるいは忘れられるように作られているのだ。

 シェイクスピア曰く、人はみな泣きながら生まれてくる。生まれてくる条件も選択できない。時代、肌の色、家族。この不条理な状況のなか、人はほんの短い一生を出来る限りの幸福とともに生きようとする為に奪い、争い、裏切り、憎み合う…。そうしてまで一体、何を本当に求めているのかという事すら、はっきりとした確信も無く、日々をいたずらに過ごしている。ふと自分にそういう事を問い質してみても、結局その命題は無意識的に葬られる。そうした『問い』そのものが実は陳腐な現実逃避的リアリズムというパラドックスかもしれないが、時にそんな考えに思いを巡らせる。それでもやはり何か大事なもの、カタチのある答えは出せないことが解っている。それを知る前に人はその命を散らせる。その答えを知る事が死であるかもしれない。『無上正覚』つまり死がその答えなのだと。だが無論そうではないかもしれない。結局はその答えに近づきたかったり、知り得ない事への恐怖から逃れるために人は何かを信仰したりするのだろう。

 唯識論から仏教的な例えを出すならば、人間は、あるいは死して初めて阿頼耶識が生じ、その『悟り』から涅槃へ至り、その後は輪廻転生するという。つまり死は単なるプロセスに過ぎず、人はまた未来永劫周り続ける歯車のような意識体の中で生き続ける。パラレルワールドとも言える無限に広がる宇宙の曼荼羅のどこかにあり、いまは『ここ』に在る意識の中で。

 かのキリストは言った。

『あなたが地上で繋ぐ事は天上でも繋がれ、あなたが地上で解く事は天上でも解かれる』

 すべてはプロセスなのだ。すべては過程にすぎない。だが今ここで、人として自分として生まれてきた意味などは分からない。それでも現実に生きていると分かっている。そんなジレンマのなか、今はただ流されるままに生きている。しかし、それこそが『タオ』なのだ。人生は、過去を思い返すと驚く程早いが、先を思うとうんざりする程長い。そして、今、死はリアルでは無いが、いつそれが迫ってくるとも分からない。事実は奇なり、リアルでは無いモノほど現実なのだ。

『目を覚ましていなさい。あなたは、その日、その時を知らないのだから』

 キリストはこうも言った。だから結局はどれだけ充実した毎日を過ごすかという事が万人共通の目的だ。努力を惜しまず、知性を磨き、感性を豊かに、皆から愛される存在であり、いつ訪れるやもしれぬ幸せを掴むきっかけに対し常に準備をしていたい。『その時』を見過ごさないために。

 だが、わかってはいても中々そうは出来ない無為で自堕落な生き物が俺のような凡人だ。まず具体的な、目先の小さな目標が必要だ。常に目の前の目的と欲求をクリアすることが。時間を有意義に使い、忙しさに充実感を覚えたい。生き甲斐を得たいのだ。俺にはそれがあるだろうか?

 ああ、今日も今日とて、来る日も来る日も俺はこんな事を考えて、神経をすり減らしている。不毛な自問自答。何の為にもならないのに。だが、考えずにはいられない。それが人間であり、俺の仕事だから。

 そう。肥溜め、汚物入れ、ゲロ袋…世の中のあらゆるクソを集めてインターネット上にある便所の落書き帳に貼り付ける。ポルノを商売にしている連中から金を貰う。精神的な死の商人。それが俺の仕事だ。頭のいかれた奴らが俺のウェブサイトにアクセスして、クソを見てクソを漏らす。世の中どれだけ闇が深くて、ヒトの形をしたモンスターが多いかってのがよく分かる。『深淵を覗き込む時、相手もお前を見ている』そういうことだ。狂った日常、非常識の塊。ここは戦争中なのだ。平和のルールは通用しない。正気と狂気のはざまでバランスを保たなければやっていけない商売だ。

 ひと段落つけよう。

 手順その一。まずリラックス。

 手順その二、ハイになること。

 俺はブックマークを呼び出し、気分でポルノを再生する。普通にコメディでもサイエンスでも何でもいい。別に性的興奮を得たいがために見るんじゃない。ましてや射精したいわけではない。だがマトモじゃポルノは見ていられない。なぜならシラフの時は美人を見ただけでも落ち込んでしまうからだ。テレビでもグラビアでも、街で歩いていても、美人を見れば気分が良くなる反面、ひどく落ち込んでしまう。俺の嫉妬心とかコンプレックスの問題なんだろう。

 俺は使い慣れた特製ペットボトル・ボングと水の入ったバケツ、アルミホイルを用意した。ペットボトルは、口の大きいやつの方がいい。外資系スーパーに売ってるガロンサイズの牛乳の空容器を愛用してる。そこにブツをセット。余ったやつはホイルでくるんで、ナイロン袋に入れて保存しておく。

 火をつけ、四回、思いっきり吸い込んだ。その間、約三分弱。

 すぐに脳ミソが痺れてるみたいな感覚がやってきて、体のチカラが抜けてきた。目がチカチカして、心拍数も上がってきた。この何かが迫ってくるような感じが一番好きだ。

 「ふふふ、はは、ふう」独特の多幸感と意味不明な楽しさで、ハードコアポルノを鑑賞する。非日常の異常な性。美女が無茶苦茶にされている様子に不快感と背徳的な歓びを感じる。

 そして俺は考える。一体いくら貰ったら汚い野郎に顔面ザーメンまみれにされる様を全世界に公開してもいいと思えるようになるんだろう?まあ人それぞれ事情はある。愚問だ。余計なお世話だ。「金」それ以外に一欠片の理由もないさ。誰だって金は必要だ。

 なんとなく、明らかな整形顔や偽乳なんかには嫌悪感がある。なんだろうな、『火の鳥』であっただろ、見た目は人間だが、どこかが少しだけ違うアンドロイドを拵えて殺させるみたいな話。どこか手を加えられている時点で、もはや人間ではないように感じてしまうのかな。タトゥーやピアスが嫌いなのもそういう理由なのかもな。まあいいさ。とにかく俺は世の中のありとあらゆるサブカルチャーを扱っている。別に全てを好きなわけじゃあない。知的好奇心の一種さ。日本で暮らしていたら信じられないような文化や出来事はたくさんある。世界は美しいものも醜いものも等しく溢れている。俺の集めた記事に群がる変態どものおかげで、俺も見事に伝染している。ほとんどは他人事さ。映画や小説のようにフィクションみたいなもんさ。画面の向こうの世界だ。自分の目で見て、肌で感じない限りはな。他人事さ。人間は結局ケダモノなのさ。セックスを考えてみろ。鼻息を荒げて腰を振るさまに美しさがあるっていうのか?俺はそういう動物本能丸出しの行為が嫌いなんだ。わかるか、美が無いモノに価値なんか無い。肉体的な快楽や体温なんて必要ない。俺は女性コンプレックスなんだ。いや、女嫌いというべきか。ゲイってわけじゃないぞ、それは違う。つまり人間には感情があるだろ。俺は悪い意味で自意識過剰なんだ。相手からどう思われてるのか気になってしまう。普通にしゃべってる時でも、マイナスイメージを持たれていると思いこんでしまう。被害妄想が激しいんだ。風俗なんかはそれがないから良い。特に暗くてお互いの顔も分からないくらいが良い。会話も必要ない。そこに感情は必要ない。買う人間と買われる人間、それ以上でも以下でも無い。

 反動形成でもあるだろう。別にセックスが俺にとって受け容れがたい欲求だとは普段思わないが、それでも俺は基本的には自分は消極的な人間だと思うから、やっぱり何か、そういう根本的な俺の個人的な心理や性格によって、抑圧された欲望や感情、それを行動に表す為には何か緊張を解すものがいるわけなんだ。それが俺にドラッグが必要な理由の一つだ。

 何で自分に限ってこんな不便な性質が備わってるのかがよく分かんないな。普通そんなこと考えないだろう。そんな深く考えずに、とりあえず楽しけりゃ、気持ちよけりゃイイみたいに軽く考えてるだろう。俺みたいな奴のほうが珍しいかもしれない。俺は自己評価が低いんだ。謙遜しているとかそういうのじゃなくて、例えばルックスだとか、頭いいとか、金持ちだとか優しいだとか、ユーモアがあるとか、ケンカが強いとかチンコがでかいとか、男の魅力っていったら大体そんなもんだろ?でも俺には大した取り柄は無いし、それを極めて客観視してしまえる俺にとっては、自分がこの世の中ではダサい存在だと認めざるを得ない。それでもやっぱりこのクソみたいなエゴを心のどっかで愛そうとする防衛機制が働く自己矛盾と、欲求が満たされないストレスと、欠落した自尊心と他者からの未承認のせいで自己嫌悪に陥り、自信喪失、自己不信。そして、問題の不明確点の客観視、つまりは自己排他ということで、とりあえずは現実逃避しておく。だって必要な事だろ?俺みたいな奴にとっては。自分じゃこうなりたくないのに、知らないうちにこうなんだ。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない…。

 そういうクソを忘れようとする為にはやはり、そういうような事を考えさせられずに済むような状況を作るしかない。つまり、それはハイになるという事だが、例えば酒だって味わうより酔いたいが為だけに飲む場合だってあるだろ。ヤケ酒というかな。でも俺は酒が飲めないんだ。体質的な問題さ。アレルギーをたくさん持ってる。酒好きだったらアル中にでもなってたかな。とにかく俺はもっとイヤな感情を避けるためにあえて悪酔いするのさ。つまりハイになってローになるんだ。これは俺なりの自己防衛なんだ。しかし四六時中ハイにはなっていられるワケがない。だからどっちみち、完璧な解決法なんか無い。うまくバランスを保てるように、自己管理をできるように心がける事が肝心なんだ。

 人間には刺激というか、何か夢中になれるモノが要るわけだが、その為に人間がその種、文化的にも進化してきた証として、世の中いろんな趣味や娯楽の対象が溢れているけど、そういったものに何一つ興味を示さないような無味乾燥な毎日じゃそれこそつまらない。そりゃ俺にだってある。でも、それはスポーツだの恋愛だのゲームだの、普通に生きてて得られるもんでは無いんだ。

 ドラッグは非常に便利なもんだ。問題は高価で非合法なこと。違法なせいで好奇心はあるものの、手を出せない人間も多いんじゃないか?別に俺は反原発を叫ぶエコロジストでもフリーセックスを謳うヒッピーでもない。世に蔓延している大麻合法化を訴える連中はどこか論点がズレてる。

 とにかくドラッグには確かに危険性はある。シンナーなんか最悪だ。でも、たまの楽しみというか、リラックスっていうか、人生に疲れてる奴には必要だろ。睡眠薬も抗鬱剤も実際に病院に駆け込めば処方されるんだし。酒癖が絶望的に悪い奴なんかはバッドに入ったジャンキーよりタチが悪い。変な話だよ。

 俺は別に引きこもりだとか自閉症ってわけじゃない。散歩して寝っ転がって夜空を見上げたりするのは好きだ。明け方にドライブするのも好きだ。要はメンテナンスさ。仕事の息抜き、落ち込んだ時の気分転換。そういうもんだよ。別に友達なんか必要ないさ。面倒なだけだ。人付き合いは億劫だ。ああ、めんどくさい。夢、夢、夢はなんだ。逃げるな、いや逃げろ。何もかも虚しいもんだ。現実世界をイデアに近づける事など、この退屈極まりない俺自身と世界からは無縁だ。だったら生き甲斐なんか待たずに無為に暮らすほうがいい…ああ、あたまが、いたいな…。

 だめだ。今日は悪い方に入っちまった。牛乳を…飲もう…。

 電話が鳴った。鳴っている。どこだ、あった。画面に表示されている名前は金子。俺は面食らった。これは見間違いか、夢か。久しぶりに見た記号だ。この文字でそれをイメージして形づくる記号。この景色は何年前のもの?みんな大人になってる。離れ離れになるのも当然さ。そうだろう。大人になるってそういうことさ。職場の同僚が一番会う相手なんだろう?休みの日が合う奴としか遊ばなくなるだろう?所帯を持てば交友関係も変わるだろう?

 電話が鳴り止んだ。俺はテレビを点けた。四時…十六時だな。そうなのか。無理もない。俺の部屋は雨戸まで閉め切ってるから、電気をつけないと朝だろうが夜だろうが真っ暗だ。時計も置いていないし。こんな部屋から外も出ずに寝て起きての繰り返しじゃ、一つの空間にいながら時差ボケみたいになってしまう。

 また電話が鳴った。

「おう」声を聞いて、奴の顔が浮かんだ。何年か前の記憶の。「久しぶりだな」

「ああ、そうだ」俺はそう返事をした。色々な思い出が蘇ってくる。金子や柴は元々けっこう目立つタイプだったから、俺はそれにも劣等感と疎外感が付きまとっていた。自分が、不釣り合いな人間関係の中にいるような気がしていた。あいつはロジカルでシニカルなニヒリストだ。実際俺はどう思われているんだろう?友達だと言っても、それは分からない。他人が何を考えているかなんて。「お前のタトゥーの火の鳥は今でも電気羊の夢を見てるのか?」

「なんだよ、おまえ、キマってんのか?」金子は以前と変わらない落ち着いた低い声でそう言った。ああ、なんて懐かしいんだ。やっぱり夢に違いない。俺は何を考えてるんだ?俺には何が出来るんだ?クソ…もう少し必要だ…。俺はなんなんだ…何がしたいんだ……?「なあ、今からそっち行っていいか?家にいるんだろ?」

「夜を待ってくれ」そう答えた。「今は気分が良くない」

「わかった、俺もなんていうか中途半端に……」

 …俺がしたいのは、自己改革。俺自身は理想の他者だ。そいつになりきれ。創り上げるんだ。それは俺にとっての勇気。いや、ある意味でそれは狂気に近い。開き直る勇気ってものだ。それは必要な狂気だ。無くてはならない狂気。正気になるための狂気。

 俺がしたいのは、自己満足。好きな事をして生きる。脳をマヒさせ我を失う。全ての女と神を犯し、そして無邪気に笑っていよう。

 俺がしたいのは、夢を見ること。中途半端な願望充足。空を飛んで、あいつを逆に追いかけてやる…。

 殻を破りたい。走りたい。壁を壊したい。画面の向こうの世界へ。偏見に満ちた狭い世界を飛び出して、光を感じたい。リアルに触れてみたい。ああ、ここは、どこだ、どこだ、どこだ?

「ああ、だめだ。今日は完璧に悪い方に入っちまった」

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