サークルジャーク

「キスしてくれないか……僕のこのナイフ~に~…」

 多種類の煙が立ちこめる酸素の薄いリビングルームに、ステレオから流れるベンジーの悲痛な声に合わせて、我妻が歌いながら戻ってきた。手には銀紙で巻かれた手の平サイズの包みを持っていた。

「誰かそこのミネ取って」誰にともなく話しかける。だが誰も聞いてはいなかった。というより彼がいつの間にかどこかへ行って、今また戻って来ていたことすら気付いていなかった。

「誰からも、愛されずに…」彼は立ったまま部屋を見渡す。シバはぶっ倒れている。宇佐ウサ山崎ヤマザキはひたすら酒を飲みながら、音楽について熱く語らっている。原野ハラノ花森ハナモリは女同士でなにやら話し込んでいる。ノギはワンピースを読破しようと必死だ。

 館の主は机の上に鎮座している、奇形の樹木を思わせる形状をした大きな赤色のガラス製ボング水パイプの前に座った。それから包みをほどき、その中にある乾燥圧縮された植物片を指先で細かくばらき始めた。彼がそうしているのに気付くと、仲間たちはようやく関心を示し、机の周りを囲んで座った。まるで神木を崇める民のように厳かに、行儀よく。

 Bluetoothでステレオに繋がれたitunesが次の曲を選ぶ。流れてきた曲を山崎が鼻歌で口ずさむ。慣れた手つきで我妻は準備を終えて、床のそこら中に散乱している空き缶やビン、タバコ、灰皿、レコード、お菓子の袋や携帯電話なんかの中からライターを見つけて手に取った。そして神々しき神具にセットした葉の小山に火を点け、蓋を外し、すかさず口からスーッと音をたてて大きく煙を吸い込んだ。それから鼻をつまんで二十秒ほど息を止め、少し身震いしながら煙を吐き出し、体の力を抜いて、ぼんやりとした目つきで次に回す。山崎は深く一服して、アルミホイルに乗っかった残りの葉でジョイントを巻き始めた。他の連中も一服ずつ吸い込んだ。何人かが咳き込む。その流れを何周か繰り返す。

 我妻は目をパチパチさせて効果を確かめる。視覚と知覚にタイムラグが起こってくる。そして魂がふっと抜けていったように、風に吹かれた木の葉のように抵抗なく、座ったまま後ろにドタリと倒れ込んだ。深く肺に溜めた煙が息とともに吐き出される。花森がとろけた笑みを浮かべながら彼のほうへ近づき、寝そべる彼の耳たぶを軽く噛んだ。二人は笑い、目を合わすことなく唇を重ね、舌を絡めた。この二人の間に肉体関係があるかどうか明言されてはいないが、どうせもう何回かヤってんだろうと皆は考えている。こういう関係はなんと呼べば良いのか。セックスフレンドか、それともセックスもする異性の友達だろうか。もし実際は一線を越えてはいなかったとしたらどうなのか?どうであれ、どうでもいい。男女間に友情は成り立つのか否かというような議論には最も不毛な時間を費やす事になる。あるいはその議題を口説き文句とするか。ともあれ我妻はもう自分の世界に旅立っており、その意識は十万億土の彼方、三千世界を旅行している。今誰と何をしているのかなど、思考力が限りなくゼロに近いことは間違いなかった。


「うわ、部屋、真っ白」しばらくして金子が部屋に入ってきた。こういう光景を見るのは懐かしかった。すでにみんな一丁上がりだ。彼が最初にこの部屋に訪れたのは高校生の時で、皆で向かい合って目を瞑り、一番先に勃起できた者の勝ち、という非常にくだらないゲームをしたとき以来だった。しかし若さとバカさで何でも可笑しく思えるケミストリーがそこにあった。あの時はそれで楽しかった。しかしそれから十年が経った今、何も成長していない光景を目の当たりにした彼は部屋の中を見渡し、まずは状況判断を試みる。あの寝ているのは、柴か。原野マヤ花森マリコと一緒にいる…どういうことなんだ?俺には気づいていないようだが…気まずいから帰ろうかな…などと考えていると、不幸にも我妻が来客に気づき、横になったまま手を挙げて言った。

「百年ぶりに見た顔だ。懐かしいぜ」と言いながら、床をバンバンと叩いた。「来いよ」しかし彼はその言葉を無視して、とりあえずは一番近くのソファ、宇佐の横に座って、挨拶代わりに彼の肩を軽く叩いた。浅く腰を掛け前屈みでタバコを取り出す。それを吸おうとしたが、目の前に少し黄色みを帯びた透明の液体が入ったグラスが出てきた。

「グラッパ」宇佐はボトルのラベルを見せてそう言い、自分にも注いだ。グラスをかざす。「アモーレ」金子は顔をしかめ、首をゆっくり横に振りながらも乾杯して一気に飲み干す。二人の喉が焼けて表情が歪んだ。

「ああ…」と呻きながら金子はタバコをくわえる。

「あけおめ。マジ久しぶり。どうよ?」宇佐が呂律の回らない口調で言った。

「おい、こっち来いって」金子が質問に答えようとしたとき、我妻が叫んだ。スイッチが入っている時の彼には逆らわないほうがいいと判断し、この広いリビングの奥にあるもう一つのソファの方へ向かった。近づくと彼は手を差し出し、握手を求めた。それに応える。「どうよ。都会の暮らしアーバン・ライフは?」その質問に答える気がしなかったが、別に、とだけ吐き捨てた。「田舎だけどよ、やっぱ地元ここが一番だよ」彼はなぜか地元を良く言う。金子は別にそうでもないと思うが、とりあえずは頷いておいた。恐らく自分にそう言い聞かせたいのだろう。

 花森が金子の名前を呼んで抱きついてこようとした時、原野の顔を見ないようにした。山崎が彼の背中を手の甲で軽くたたいて振り向かせ、吸いかけのジョイントを差し出した。それに対しては手のひらを振って、「いらない」と意思表示をした。首に回された花森の腕もふりほどいた。

「やんねーの?」驚いた様子だった。

「やらねーよ」と答え、「そんなもん」と言った。特に今そういう気分ではなかった。自分がシラフの時に、トリップしてる人間を客観的に見ると気分が滅入るのだった。

「そんな、たかが草くらいで…」と山崎が言うが、そのたかが草が今のこの国じゃ強盗と同じ位の重罪なんだぜ、と金子は思った。「まあ、買うと高けーしな。でもよ、今夜のホストは我妻先生だぜ。ネタは売るほどある」と口角を上げた。金子は肩をすくめる。

「つかコイツ寝てんの?」と、金子がうつ伏せに寝て大いびきをかいている柴を足でつついた。反応は無い。「ただのしかばねか…」

「日本酒イッキして倒れたな」金子は眉をひそめた。

「どういうノリだよ。アホなサークルじゃあるまいし」

「ま、大丈夫だろ。いつもの事だ」宇佐が言う。「いつもこうだよな」

「何で俺の周りはこんな奴ばっかなんだよ。うんざりするぜ。お前は何してんだっけ?」と山崎に話を振る。

「普通に仕事してるよ。住民税も年金も払ってる善良な市民さ。お前も帰って来いよ」

「帰らねーよ」金子は無表情で答える。「帰ったら負けなんだよ」

「負けって、何の勝負をしてんだよ」

「別に出て行く理由も無かったけど、ここに残る理由もなかった。今じゃもう帰る理由も無い。なにより戻る事は俺の中で負けなんだよ。お前には解んねえかも知れねえけど」


「誰か電話鳴ってんぞ」誰かがそう言うと、原野が鞄の中から電話を取り出し、画面を見てから部屋の外へ出た。

「そろそろ行かないと」と戻って来た彼女は言い、帰り支度を始めた。「タクシー来れるかな」

「マジかよ?」宇佐があからさまに不機嫌になった。ただでさえ女が少ないのに、さらに減ろうとしているからだ。そもそも今日の会は原野が帰省しているというのを聞いて、我妻が面子を揃えたというところがある。

「送っていくよ。車だし」素面シラフの禾がそう言って、吸いかけのタバコを西部劇の決闘時さながら灰皿にギュっと押し消して立ち上がった。誰もこの二人の間に何かが起こる、というような心配はしない。身内は面倒くさい、がキーワードなのだ。とは言っても実際は男女関係など都会でも田舎でもゴシップガール状態で、狭いコミュニティの中で循環している。秘密を守れるかどうかが鍵だが、しばしば酒の席での暴露大会では自慢話やセックスの巧さランキングが発表され、羨望や嫉妬やトラブルの元となる。ただし、原野に手を出す者はいない。不可侵の存在なのだ。

「お疲れ。今日はありがと。またね」原野と禾が行った。

「お前は?」宇佐が花森に訊いた。いま何時?と彼女が未だ酩酊状態で聞く。「三時」と答えた。「帰るなら送るぞ?」その言い方には大いに下心が感じられた。この距離感の近さ。自然なボディタッチ。ああ、何度かヤってんな。金子はそう直感し、自分とどっちが先だったのかが気になった。宇佐はタクシーを呼んだ。

「お前ももう帰んのかよ?」我妻が訊いた。つまらなさそうに。

「明日バイトだしなあ」正月の朝から何のバイトだ?と我妻は思ったが、宇佐が親指で何かを押す仕草をして悟った。我妻は嘲笑する。

 およそ二十分後にタクシーは到着した。宇佐が上着を羽織り、自分の持ち物を確認した。花森にも忘れ物がないかと聞き、二人で出ようとした時、

「ちょっと待って。俺も帰るわ。一緒に乗せてって」と山崎が言った。宇佐は明らかに煙たそうな表情をしていた。二人で消えるはずの計画が水の泡だ。ただ山崎にも悪気はなかった。宇佐が心なしか勢いよくドアを閉めて部屋を出た。


「祭りのあと、だな」

 それぞれが帰ると、空気はさらにしらけた。というよりはリラックスした感じだ。倒れっぱなしの柴をよそに、二人はもう完全に醒めていて、少しの間何もしゃべらなかった。金子はラスイチのハイライトを取り出し、空箱を握りつぶし、難しい表情で火を点け、一服してから沈黙を破った。

「何か面白い話ないの?」

「ねえなあ」と我妻が即答。

「積もりに積もった世間話があるんじゃねーのかよ」金子も期待などしていないのに、そんなことを聞いた。

「あったらこんな所でハッパなんか吸ってねーよ」

「間違いないな」また沈黙。

「まあ、何となくお前の顔が見たくなったんだよ」我妻がそんな事を言い、金子は返す言葉を考えた。

「そもそもどういうメンツなんだよ。なんか色々と気まずいだろ」

「まあ、しょうもないわだかまりとか確執があれば解消したらいいじゃんと思ったんだよ」我妻の返答に金子は黙り込んだ。「しかし一人帰ったら皆帰るよな」それにも金子はただ頷いただけだった。「初詣でも行くか?」その問いかけは無視する。「まあ人混みはだるいよな」そう言って携帯をいじりだす。「デリヘルでも呼ぶか?やっぱ正月料金かな」金子が首を振ると、我妻はテレビをつけた。いくつかチャンネルを回し、「くだらねえな」と吐き捨て、また消した。「バラエティばっかだよな。みんな着物着て浮かれてさ」

「ああ、くだらん」と金子が呟く。「なんか疲れたな」と溜息混じりに言う。

「どうしたんだよ。バッド入ってんのか?」

「違うよ。もうドラッグなんてヤメたんだ」

「じゃあ何だよ。久しぶりに会ったってのに」その質問の答えを金子はしばらく考え込んだ。

「まあ色々あったとはいえ、今日だって楽しい筈だろ?昔からの仲間で集まって飲んで…なのに無味乾燥、無意味で無益と思っちまう。なんなんだろうな。俺、冷めてんのかな」

「それお前、ウツとかじゃねーの。医者に行けよ」

「そんな病気とかじゃねえよ」

 長い沈黙。金子がタバコを二本吸い終わるまでの間。

「つうか、まじで生きてんのか、コイツ。息してんのか?」と金子が寝ている柴を揺さぶる。

「ほっとけ。ヤバそうならわかる」我妻のその言葉には説得力があると感じた。「湯賀ユガには会ってるのかよ?」

「いいや」とため息に乗せて返事をした。

「いつまで引きずってんだよ」

「別に何もねえよ。お前が何の事情を知ってんだよ」少し苛ついた様子で金子が言う。

「バンドに限界感じてケンカしたんだろ?ありがちなヤツじゃねえか。そんなことで腐って人間関係こじらすのもバカらしいぜ」

「そんなんじゃねえよ…」と金子は反論したが、そう言うのが精々だった。「そんなんじゃねえ」

「そもそもあんなもん、マジにやるもんじゃないぜ。ビートルズのコピーバンドやってるおっさんみたいに趣味の範囲で楽しくやりゃあいいじゃねえかよ。音楽でメシ食うなんて、ゴールドラッシュ並みの昔話だぜ。時代は変わってんだよ」

「まあな…」認めたくはなかったが、金子に反論の余地は無かった。「音楽でも何でも才能がある奴って、二十代前半くらいで開花するもんなんだよな。そりゃあ遅咲きの俳優とかそういうのもいるけどよ…それも下積みがあってこそだもんな」

「どいつもこいつもショービジネスでスターを目指して実現したら世の中が回らねえだろうが。それぞれの使命を果たすのみ、よ」我妻が寝転がって背伸びをする。

「俺たちの使命って何なんだよ」

「知るかよ」と我妻は突き放した。「出来るだけ多くの女を抱いてやることかな」

「はっ」金子が笑った。「お前らしいな」そして溜息。「ネタ、なんかくれよ」

「コケインはいかがかな」と机を指差した。懐かしいものがあった。我妻が昔からずっと使っている、とあるキャラクターの巾着袋だ。中には市販の錠剤や、非合法のタブレット、謎のカプセルやパッキングされた結晶などがある。金子は白い粉末の入った透明のビニール袋を取り出す。

「これね…」と言い、中身をまじまじと見つめる。「ちょっとしかねえな」

「…って、止めてんじゃねーのかよ。意志、弱ぇな」

「意志弱いとかそういう問題じゃなくて」金子は包みの中にアパートの鍵を差し込み、くぼみの部分に器用に粉を全て乗せ、慎重かつ大胆に鼻の穴に運んだ。「やっぱり、必要なことだろ。こういう気分のときには」

「どういう言い訳だよ」

「俺なりのストレス解消法ってゆーか、まぁ…現実逃避だな」そう言って、勢いよく吸い込んだ。

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