第二章 屋根の上から 2
「桔梗様。遅くなってしまいましたね。」
中年の女中が老婦人に向かって言った。
沈みかけた夕日が道を照らす。二人はお喋りしながら家路に急いでいた。
「ええ。あまりに盛り上がるものだから、ついつい長居をしてしまいました。」
炭焼長者の妻、桔梗は困ったと眉尻を下げた。漆のように黒い髪は今では白髪混じりとなってしまったが上品さは失われていなかった。
「皆さま市の芸人に夢中でしたね。」
「ええ。そういえば、夫の名を聞いたのは市だったわねえ。」
桔梗は感慨深く呟いた。
「市で、そうなのですか?」
召使は初めて聞いたと顔をした。
「ええ。最初土手から落ちそうになったのを助けてもらったけれど。その時、どこの誰だか分からなくて…。市で会った時、まさか…巷で噂に聞く炭焼き長者さんだったとはねえ…」
桔梗はくすくすと笑った。
「いつも賑やかなこと。」
桔梗は市を歩く人々に目を向けた。上等な着物を着た裕福そうな人、着物をはだけながら商いをする人、人だかりの隙間を駆けていく子どもたち。どの人も桔梗の目を奪った。
「んっ?」
桔梗の目の動きが止まった。
「どうかされましたか?」
隣にいた召使が心配そうに尋ねる。
「あの人確か…」
炭の束を抱えた若者が人だかりの中歩いていく。その若者に桔梗は覚えがあった。夏頃に土手から落ちそうになった所を助けてもらった男だ。
「ああ、もしかして…桔梗様を助けられた…」
召使も思い出したようだ。
一方の若者はこちらに気づかずに進んでいく。
「ちょっとお礼を言いに行ってみましょ。」
桔梗は人混みをすり抜け若者に近づいて行った。あと二、三歩の所で若者も桔梗たちの存在に気づいたようだ。
「えっと…あなたは…」
若者は目を丸くして驚いている。
「夏頃に道中、あなた様に助けていただいた者です。あの時、あなた様が助けに入らなかったら、私は土手から落ちて地面に顔を打っていたでしょう。」
若者は思い出したのか、「ああ」と口を大きく開けた。
「思い出しました。申し訳ありません。私の方は忘れていました。」
若者は顔を少し赤らめている。動きがたじろいでいるように見えた。
「いいのです。あの時は一瞬のことでしたので仕方ありません。ところであなたお名前は?」
「…小太郎…と言います。」
若者は恥ずかしそうに答えた。
「おおい。あんた炭焼きの所のじゃねえか。」
若者は後ろから聞こえる声にどつかれたように体をビクッとさせた。
後ろから陽気な男が駆け寄ってきた。この男は桔梗にも覚えがあった。権助という屋敷に出入りしている行商だ。
「やっぱりそうだ。丁度良かった。お前ん所の炭を今買い取っていいか?んっ…これは石原長者の桔梗様じゃないですか。お久し振りです。お父上はお元気ですかな?」
権助は彼女に気が付くと恭しく挨拶をした。
「ええ。相変わらずです。権助さんは?お酒はほどほどにしないと。」
「それが全然やめられなくて…。ところで桔梗様。こいつをご存じで?」
「ええ。夏頃に助けて頂いたことがあるんです。土手で転びそうになったのをこの方に抱えていただき何を逃れました。」
それを聞いて権助はわざとらしく囃し立てた。
「おお。良い事するじゃないか。それでは俺はお邪魔なようで。それでは。」
「もう。権助さんったら。」
権助のからかいに桔梗は軽く頬を膨らませた。権助は笑いながら立ち去って行った。
「…こんなことがあったの。」
桔梗はうふふと召使に笑いを見せた。
「川からお姫様だなんて…お伽噺みたい。本当にそんなことがあったのですか?」
召使は信じられないと呟く。
「まあ私自身は川のお姫様にお会いしたことが無いからどうとも言えないけど。帰ったら主人に聞いてみるかしら?」
「ええ。是非ともお聞かせ願いたいです。」
二人はそのまま歩みを進めて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます