第10話 誰にも見えない・2
ひらがなの書き取りと時を同じくして、私と妹は母に言われるまま突然ピアノを習わされた。といってもどこかの先生に習うわけではなく、教えるのは母。家には真新しい電子ピアノがやってきて、練習は一曲あたり一日十回と決められていた。音符をまだじゅうぶんに読めない状態の私が音を間違えると、母の金属の声の語気は限界まで強くなる。
「ねえ、なにやってんの? こんな簡単なものも弾けないなんて」
ぶたれる。私は電子ピアノの四角い椅子の上で、反射的に両脇を絞めた。
びしん。
身体は殴られていないけれど、母の声は音をたてて、私の心をぶつ。母は近所に聞こえるほどの大声では怒鳴り散らしたりしないから、毎日毎日、私がこうやって心を殴られていることは誰も知らない。誰にも見えない。
「ちょっと、聞こえてんの? 返事くらいしなさいよ」
「……はい」
「なんなのその目つき。返事もまともにできないの」
一度だけで終わればそれほど心は痛くないけれど、母が同じ内容で二度目をかぶせてきたときは、徹底的にやる、長くなるという合図だ。覚悟しなければならない。二度目がくると間違いなく、三度目、四度目と続く。しばらく怒号の殴打は止まらない。
「ほんっとあたま悪いよね、 バカ、バカ、バーカ。もうそんなんならやめちまえ、ピアノがもったいない。バカにはなにやらせてもだめなんだから。なんでなんだろうね、誰に似たんだろうね。もしかして病院で取り違えて連れてきた、うちの子じゃないのかもね。ねえ、聞いてんのあんた?」
こういうとき、母はもう怒っているのではない。顔は笑っていないけれど、私の心を殴って楽しんでいる。こうやってさんざん辞めろとなじられながらも、ピアノは絶対、辞めさせてはもらえない。わかってる。私をいたぶる楽しみが、なくなってしまうからだ。私を嫌いと言いながら毎日からんでくる、カノンと同じだ。一緒にピアノを習いはじめた妹は「きょうはれんしゅうやりたくない! こんな曲、つくったひとがわるい!」とぐずれば簡単に練習を免除される。私には、その権利はない。
理由などない。私が私でいる限り、母は私を攻撃し続ける。母の吐く怒りをかぶり、侮辱を受け止め、母を楽しませるのも私の「おとうばん」。父や母に心配され、興味を持たれ、可愛がられるのは妹や弟の「おとうばん」。私が知ることができるのは理由ではなく、この動かせぬ事実だけ。
母の私に対する要求は日ごとに増え、今度は時計の読み方を一日で覚えるよう命令された。居間にある壁掛け時計の文字盤の横には、5、10、20……と分を表す数字のシールが貼られた。
次の日から私の毎日の「おとうばん」は時間で割り振られ、表にして壁に貼られた。母に言われなくとも時計を見ながらそのスケジュールに従って自分で動かなければならなくなった。私がどこにいても時間を確認できるように、すべての部屋と風呂、そしてトイレにも、時計が設置された。それでも私はときどき、時計を読み間違えてしまう。小さい針が真ん中にあると、今五時なのか六時なのか、どっちの「時」なのかどうしてもわからない。
今日は洗濯物をたたみ始めるのが五分遅れてなじられたばかりだというのに、風呂場の時計を確認し忘れたまま妹との遊びが盛り上がってはしゃぎすぎ、入浴時間が長くなってしまった。風呂上りに妹がくしゃみをした。
「ちょっと! コトちゃん湯冷めしたんじゃないの? なにやってんのよ。ったく、あんたのせいでお父さんにイヤミ言われるのは私なんだからね」
父は、早生まれで身体が小さい妹を溺愛していて、ちょっと妹が洟をすすっただけで過剰に心配する。
「ねえお母さん、コトちゃん風邪ひいたの?」
そう訊かれたときの母は「さあ」とだけ言い、そのあと父がいないところで私にたくさんの言葉をぶつける。
「ほうら。本当はあんたのせいなのに、それでもお父さんに責められるのはこっちなんだから。いいかげんにしてよもう。あんたってほんとに、使えないんだから。私のじゃまばっかりして」
私は口を、視界を、感情を閉ざす。少しでも気持ちが破れてほころんでしまったら、いちばん私を弱くする「悲しみ」という鬼がその穴をこじ開け、強い強い力で押し寄せてきてしまう。そんなことになったら、ここに立ってすらいられなくなる。もう「ごめんなさい」も言わない。ここで私がなにか反応すれば、母に火がついてしまうから。ただ浴びせられる言葉にだけ、目を瞑っていればいい。保育園でカノンにやられているときに覚えたやり方が、母にも通じた。心をぶたれるのなら、そこに厚い幕を張って守ればそれほど痛くない。それがわかっただけでもよかったと思う。
絶望という言葉や概念を知らない私は、自分の心をからっぽにして閉じるほかに、今日を生きる術はない。記憶は留めない。昨日のことは忘れ、明日にも希望を抱かない。ただ、今この瞬間を生き延びることしか考えない。
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