第9話 誰にも見えない・1

 父は、子どもたちにまったく無関心というわけではなかった。私が今よりもっと小さいとき、父は私が母にいいつけられて家の仕事をしているところを見ると、よしよしと頭を撫でながら「いとは、えらいなあ」と褒めてくれた。けれどそんなところが母に見つかれば、彼女は露骨にイヤそうな顔をし、とたんに機嫌が悪くなる。

「もう、お父さんがそんなふうに甘やかすから、調子に乗っちゃうじゃない。やめてよね」

 すると父は黙って寂しそうな顔をして、すっとその場からいなくなってしまうのだった。

 母は私を嫌っている。妹や弟ができないことを私もできないとき、私が妹や弟と同じ失敗をしたときも、母はきまって私にだけ「どうしてお姉ちゃんのくせにそんなこともできないの? どうしてそんな間違いするの?」と怒る。母の言うとおりにしても、しなくてもなじられるのはいつもいつも私だけ。私は自分の意思で姉になったわけではない。それなのに母はなぜ私のことが嫌いなのか、理由はわからない。どうすれば好いてもらえるか、嫌われないかをいくら考えてみても、答えは見つからない。

 いつだったか、母がいないところを見はからって、やっとの思いで父に現状を訴えてみたことがあった。父は「うーん、そうか? いとはいちばんお姉ちゃんだから、しっかりしてもらいたいんじゃないか? おとうさんにはちょっとよくわからないんだよなあ」と力なく笑って、それっきりになった。母がいつもこぼしている「まともなはなし」ができない、「イシキガヒクイ」とは、このような状態をいうのかもしれなかった。

 父は、私の敵ではないけれど、味方でもなかった。私が保育園に入ってからは、彼は日に日に帰りが遅くなり、平日顔を合わせることはほとんどなくなった。


 最近、私にはひらがなの書き取りという「おとうばん」が新たに課された。風呂場とリビングに貼ってある五十音表を何度も暗唱させられたので読むことはできるが、書き取りはまだ始めたばかりなので苦戦している。特に「お」「よ」「き」「さ」「く」「つ」「へ」などが、何度やっても左右逆の、鏡文字になってしまう。考えれば考えるほど、焦れば焦るほど、右と左がわからなくなり、自分では見たとおりに書いているつもりなのに、書き出してみるとなぜか必ず反対になっている。

「どうして、こんな簡単なことができないの!」

 母の怒号が降ってきた。どうして、と訊かれても、なぜなのかは私にもわからない。わからないから黙っていると、母はさらに私を責める。

「っとにバカだねあんた、あ、バカだからか、そうだバカだからこんなこともできないんだよねあんたは。はー、なんでこんなにバカなんだろうね、誰に似たのかね、あああ、いやだいやだ……」

 母はひととおり噴火が済むと今度はひとりごちて、最終的には私がバカだから、という結論にいきつく。じゃあ私はどうしたらバカじゃなくなるのか。できるものなら治したいけれど、その方法がわからない。そうしてまた母の言葉をただ、浴び続けるしかない。バカは病気なのか、生まれつきなのか、病院に行けば治るのだろうか。

 保育園でカノンにやられるときは、先生の目もあるから私も少しは余裕でいられるが、母が相手だと絶対に勝てないし、逃げられない。こういうとき、父はいつもそこにいない。いたところで、助けてはくれないだろう。「バカ」と言われるたびに、私の脳は固まりそうになる。母そのものではなく、脳が固まっていく感覚が怖くて怖くて、どんどん、息が、できなく、なる。

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