第8話 センセイ

 ゆいちゃんの家族はお父さんが半年前に、お母さんとゆいちゃんが四月に入ってからこの団地に引っ越してきたという。近くに広大なキャンパスのある大学の教授をしているというお父さん、駅前のカルチャースクールで、絵画教室を開いているお母さん。中学生と高校生の二人のお姉さんは全寮制の私立学校に通っていて、長期休みのとき以外は、三人で暮らしているそうだ。

 これらの情報は、すべて母から聞いた。ゆいちゃんの送り迎えにはいつもお父さんがきていて、母は自分から積極的にゆいちゃんのお父さんに話しかけていた。ほかの親とは挨拶程度で交流を持とうとしていなかった母だったので、珍しい光景だった。

 母は最近、私の送り迎えのときに化粧をするようになった。彼女は常々「自然由来のもの以外は肌に触れさせたくないし、口に入れたくないの」と言っていて、白髪の混じった髪の毛はひっつめてひとつに結び、アクセサリーなどの飾り気もなく、化粧したところなど見たことがなかった。母が初めてフルメイクを施した顔でお迎えの時間に現れたときはぎょっとした。首より白く浮いた顔に、赤みがかったピンクの口紅が、母の薄い唇に輪っかをはめたように乗っていた。先日「ははのひカード」を作ったときに隣の子から聞いたせいで、口紅はクレヨンと同じようなものだと思っていたから、自分ではないのに口の周りが痒くなった。

「あらセンセイ、こんにちはあ。ごくろうさまですぅ」

 ゆいちゃんのお父さんに会うと、母は家族には見せたことのない優雅な表情で微笑み、よその人みたいな声でしゃべる。いつにも増して、今日はほんとうに知らない人に見える。母はゆいちゃんのお父さんを「センセイ」と呼び、「ヨウジキョウイク」とか「ハッタツ」とかいう言葉をたくさん使って話をしている。話をしているというより、母が一方的に矢継ぎ早に質問し、ゆいちゃんのお父さんがそれに答えているという感じだ。母はゆいちゃんのお父さんの答えに「そうなんですねえ」と納得したような相づちを打ったらすかさず「それじゃ、あれはどうなんですか?」と次の質問を続けていく。

 母は常々、工場で金属加工の仕事をしている私の父とは「まともなはなし」ができないとこぼしていた。それからなにかにつけて、このへんに住んでいる人は「イシキガヒクイ」とも言う。「イシキガヒクイ」の具体的な意味はわからなかったが、汚いものを見るような目をして話をしているから、きっとよくない意味なのだろう。

 母とゆいちゃんのお父さんがそうやって長々とおしゃべりをしている間、ゆいちゃんと私は笑いあったり、くっついたりして、少しずつ仲良くなった。

「ゆいといとちゃんがほんとはなかよしなのは、ほいくえんではぜったいにひみつね」

 ゆいちゃんはひそひそ声で私に言った。私は嬉しさで胸をいっぱいにしながら頷いた。ゆいちゃんと仲がいいことが知られれば、カノンたちに妬まれて、なにをされるかわからない。でも、秘密にすればいいのだ。ゆいちゃんと二人だけの秘密を持てるなんて、まるで宝物を隠しているみたいだと思った。それからは長い保育園での一日の中で、このお迎えの時間がいちばんの楽しみになった。

 ある夕方、カノンとルナに先にお迎えがきていなくなるとすぐ、ゆいちゃんが私のところへやってきた。

「ねえいとちゃん、こんど、ゆいのおうちで遊ぼう」

 私は一瞬、なにを言われたのかわからず、ぽかんと口を開けてゆいちゃんの白い顔を見た。

「おやすみのひに、うちであそぼうよ。でも、だれにもないしょだよ。ふたりだけのひみつね」

「う……うん」

 私は、やっとのことで顎を縦に動かした。身体が熱くなって、うまく笑えなかった。誰にも内緒でゆいちゃんと遊ぶ。そんな、うそみたいに楽しそうなことが、ほかにあるだろうか。でも、すぐに不安に襲われた。母は団地内のほかの親たちと関わるのを嫌っていたため、今まで友だちの、というよりよその家に上がったこと自体がなかった。それに、妹抜きで私だけが単独で誰かと遊んだこともない。だからこんなこと、そもそも母が許してくれないかもしれない。不機嫌になることはわかりきっているから、言い出すことすらかなりの勇気を必要とする。また、胃が重くなった。

 幼稚園の制服を着た妹とバギーに乗せた弟を連れて、母が迎えにきた。私の帰り支度は終わったというのに、落ち着かないようすで周りをきょろきょろと見まわしている。

「あ! パパ!」

 ゆいちゃんの声で、私と母も保育園の門のほうに顔を向けた。ゆいちゃんのお父さんが、小走りでこちらへやってくるのが見えた。まだ六月になったばかりだというのに、真夏のように蒸し暑い日だった。

「はあ、はあ。ごめんゆい、はあ、ちょっと、遅くなっちゃった」

 ゆいちゃんのお父さんは、肩で大きく息をしながらずれた眼鏡を直し、それから大きな手のひらをゆいちゃんの頭に乗せた。

「あらセンセイ、こんにちはあ」

 まるで今気づいたかのようなようすを装って、母が声をかけた。「はあ、あ、どうもこんにちは」とゆいちゃんのお父さんが返事をする。ゆいちゃんはここしかないというタイミングでお父さんの脚にしがみつき、顎を限界まで垂直に上げてお父さんを見た。

「ねえねえパパ? あのねゆいね、こんどのにちようび、いとちゃんとおうちであそびたいの。ねえ、いいでしょ?」

 ゆいちゃんが甘えた声でそう言って、身体を左右に振った。わたしはびく、と身体を硬くし、目だけを動かして母の表情をのぞき見る。

「え? えっと、うちはたぶんいいと思うけど……いとちゃんのおうちにも訊かないといけな」

 ゆいちゃんのお父さんが言い終わらないうちに、母のぬめっとした声が割り込んできた。

「あらあ、ゆいちゃんありがとお! おうちにおじゃましてもいいのお?」

 母は大げさに目を開き、ゆいちゃんに向かって鶴みたいに首を伸ばして傾け、にかっと微笑んだ。 

「うん! ゆい、いとちゃんといっしょにゆいのおうちであそびたいの!」

「じゃあ、遊びに行かせてもらうわね」

 母は笑顔を固定したまま、ゆいちゃんのお父さんに顔を向けた。

「あ、あの、娘がわがまま言っちゃってすみません、あの、よろしいんですか?」

 ゆいちゃんのお父さんがおでこの汗をタオルで拭いながら母に言った。母の粉っぽい笑顔が橙色の西陽に浮かんだ。

「もちろんですよ。ぜひ遊んでやってください」

「やーったあ! じゃあ、こんどのにちようびね! きーまった!」

 ゆいちゃんが私に抱きついた。私はどんな表情をしたらいいかわからず、されるがままに身体を揺らした。目の前で起こっていることが信じられない。私は、夢を見ているんじゃないだろうか。

「ほいくえんでは、わたしたちがあそぶことはぜーったいにひみつだよ」

 ゆいちゃんはもう一度言った。それから私に顔を近づけ、声をひそめた。

「あのね、いとちゃん。どうしてかっていうとね。ほんとうのことは、誰かに言っちゃいけないんだよ。もし言ったら、それがぜんぶわるいことになっちゃうからね」

 え、と私が訊き返そうとすると、ゆいちゃんはぱっと私から離れ、お父さんの手を握った。それから私のほうをちらとのぞき見ながら、ばいばーい、と口を動かした。母は帰り道いつになく上機嫌で、鼻歌を歌いながらバギーを押して歩いた。

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