第7話 ははのひ
五月になってすぐ、保育園では「ははのひ」に送るカードというものを作らされた。表紙にカーネーションの絵がプリントされた二つ折りのカードの左側に母親、または保護者の似顔絵を描き、右側には各自が考えたその人宛のメッセージを先生が書いてくれる、というものだった。
「みんな、だいすきなおうちのひとが喜んでくれるように、心をこめて作りましょうね」
ちえこ先生がそう言うと、園児たちは張り裂けんばかりの声で「はああああい!」と唱和した。
「あたしママだあいすき!」
「ぼくも!」
「おかあさんすきー!」
みんなは口々に叫んだ。私は放心した。自分の母について「すき」とか「だいすき」とかそんなふうに言ったこともないし、考えたこともない。「おかあさん」というのは、自分にとって絶対君主であり揺るがない存在ではある。けれどそれは、例えばぬいぐるみが好き、というのと同じように、愛おしい感情を持つ対象になり得るのだろうか? 私にはどうしてもその感覚がわからず、空白のカードを見つめて動けないでいた。
気がつくと、みんなもうめいめいに描きはじめていた。ちらりとのぞき見た隣の子の絵には、人物の顔らしきものの口の部分が、真っ赤なクレヨンで塗られている。
「どうして、口が赤いの?」
私は思わず訊いてしまった。するとその子は「くちべに。おかあさんはおけしょうしてるから」と教えてくれた。
「くちべには、なにでできているの?」
「しらなーい。でも、クレヨンみたいなかたちだよ」
「ふーん」
私もその子の真似をして、顔の輪郭を描き、それから口を描こうとして、赤いクレヨンを手に取った。けれど、化粧をした母など見たこともなく、赤い口を想像してみたら、ものすごく恐ろしく思えてきた。あの金属の声がどこからともなく聞こえてきて、私の耳を覆う。母は、どんな顔だったか、どんな目をしていたか。描こうとすればするほど、頭の中がからっぽになって思い出せない。
「いとちゃん? どうしたの? 難しい?」
頭の上から、ちえこ先生の声がした。私は小さく頷いた。
「お母さんが好きなものでもいいのよ。お母さんの好きな食べものとか、お花とか」
わからない。いよいよなにもわからない。私は首を右に傾け、沈黙した。困ったときは、このポーズをすれば、大人はだいたい諦めて、勝手に都合のよい答えを出してくれる。
「そっかあ、じゃ、先生がお手伝いするから、なんでもいいから一緒に描いてみよう」
作戦はうまくいった。私の隣に座ってほとんど先生が描いてくれた母の絵は、実物と少しも似ていなかった。目はにっこりと笑っていて、口はピンク色に塗られている。
「いとちゃん、お母さんへのメッセージ考えられた?」
私は再び首を右に傾け、黙った。先生は今度は黒いクレヨンを手に取り、カードの右側に大きくきれいな文字を書いてくれた。
「おかあさん、いつもありがとう。だいすき。いとより」
できあがったカードは各自持って帰り、母に渡すように言われた。帰宅すると妹も幼稚園で同じように「ははのひカード」を作っていたらしく、真っ先に母に見せていた。カーネーションの形にカットされ、縁に赤いリボンがあしらわれた、かなり手の込んだ仕様のものだ。
「わあー、やっぱり保育園と違って、幼稚園の先生ってレベル高いわあ。なんでもすごく丁寧に作ってくれるのね。ほんと上手よねえ」
母は妹のカードを手に取ると、表、裏と何度か繰り返し眺め、「すてきねえー」とまた口にした。
私はちえこ先生のことを思った。ちえこ先生だって、私を手伝って、優しく丁寧にきれいな字を書いてくれたのに。
寝る前、母にも誰にも見つからないように、登園リュックに小さくたたんでしまいこんでいた自分のカードをこっそりと取り出し、ズボンのポケットに忍ばせた。それからトイレの中で細かく細かく破り、数回に分けてゴミ箱に捨てた。
その週の日曜日は、私の誕生日だった。誕生日は年に一度、自分の食べたいものの希望が通る特別な日。今年は「ははのひ」と重なっていた。私は、団地内のスーパーに入っているケーキ屋で見かけたフルーツタルトを希望するつもりで、ずっと前から楽しみにしていた。
「やあだ! コトちゃん、おはなのケーキがたべたいの!」
妹が、台所に立つ母に向かって強い声で訴えている。幼稚園バスの車窓から、鉄道駅近くのケーキ屋が掲げているポスターを見たのだという。
「やあだやあだやあだ! おはなのケーキイイイイイイイ!」
妹はその場に座り込み、声を張り上げた。こうなるともう、彼女は自分の主張が受け入れられるまでおさまらない。母は慌てて妹の口を手でふさいだ。
「コトちゃんちょっと、静かにして! ご近所から通報されちゃう! はいはい、わかったわかった、お花のケーキにするから、ね?」
妹はようやく落ち着いた。母は、私の顔をちらとも見なかった。
日曜日、父が妹と一緒に車で店まで行って買ってきたピンク色のケーキには、カーネーションの花の形をした赤い砂糖菓子が乗っていた。ろうそくは五本、プレートには「おかあさん、いつもありがとう」と書いてあった。
「これもう完成品がセットで売られててさあ、カスタマイズできなかったんだよ。ほら、ろうそくはちゃんと五本、もらってきたんだからいいだろ」
父は私ではなく母に言い訳しているのを、どこか遠くの国の言葉のように聞いていた。
夕食後、父がライターでケーキに刺さったろうそくに火をつけた。母が部屋の電気を消した。その瞬間、私はそれまでのいろんなことを忘れ、高揚感だけで胸がふくらんだ。このひとときが終わるのが惜しくて、でも火をいっぺんに吹き消すことに挑戦したい気持ちもあって。めいいっぱい息を吸い込んでいたら、横から妹が割り込んでひとつ残らず消してしまった。「やあだ、コトちゃんたら」と母が笑いだし、妹と弟は手を叩いてキャッキャと笑った。父も笑っていた。
こってりとしたバタークリームのケーキは、「しろいおさとう」の味がした。
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