第6話 ゆいちゃん・2

 私はほっとして、読みかけていた絵本を開く。『まっくろネリノ』という、身体の色が黒いというだけで、見た目の美しいきょうだいたちから仲間外れにされている、小さないきものの話。あるとき、ふだんはネリノをバカにしているきょうだいたちが人間に捕まってしまうが、ネリノの活躍で彼らは救出される。その事件をきっかけにネリノはきょうだいとして認められ、仲間に入れてもらえるようになる、というストーリーだ。

 私は金色の鳥かごに色とりどりのいきものたちが捕らえられている美しい絵のページを眺め、進んではまた戻り、眺めてはまたページをめくる。自分の家にいるときと違い、保育園では自分の読みたい絵本を自由に選び、その世界に逃げ込むことができる。だからカノンたちになにをされても、たいていは大丈夫だった。

 とはいえ、少しずつ細部にバリエーションを加えながら、彼女らは日に一度は私になにかしら仕掛けてくる。無視をするともっと長い時間しつこくからまれるので、一旦は応じることにしている。私を悪役にしてオチにするまでの寸劇の時間をやり過ごせばいいのだから、と気にしないようにしているつもりだけれど、毎回事後に胃がもったりと重くなるような感覚が残ってしまうのは、少し厄介だった。

 クラス全員で園庭で遊ぶ日の鬼ごっこでも、私は彼女たちのターゲットにされた。鬼でもないのにルナがまず私に突進してきて、体当たりする。巨体にふっ飛ばされて尻もちをつくと、こんどはカノンが走ってきて砂を蹴り上げ、私にかける。私が砂を払いながら立ち上がったところに、今度は後ろからルナに髪をひっぱられる。なにをしても私が声ひとつあげずに無反応なのがおもしろくないようで、鬼ごっこが終わるまでの間、暴行は断続的に行われる。先生たちに気づかれることはまずない。団地やその周辺地域に住む子どもたちのほとんどがこの園に集まっているので、クラスはかなりの大所帯であった。先生の数が明らかに足りておらず、年中クラス以上は一クラス当たり先生はひとりだけ。カノンたちはしっかりと先生の死角を確かめながら私に手を出し、ぎりぎり傷にはならないくらいの絶妙な力加減でいたぶってくる。

 カノンは「へんなかお」「ブス」と私の容姿をなじるのをことさら好んだ。私の前髪はいつも母によって、眉毛のずっと上、おでこがすっかり見えてしまう位置でごく短くまっすぐに切られている。毛流れの整わない太い眉毛が丸出しになって、河童みたいで、たしかに我ながら不細工だと思う。保育園じゅうを見ても、そんな前髪をしているのは私だけだ。母がそうするのは、すぐに伸びてくる前髪を切る手間を省くのが目的らしいが、妹は幼稚園に入る少し前からその髪型をいやがって前髪を伸ばしていた。今は可愛いピンを使って長くなった前髪を顔の横に留めて、幼稚園に通っている。私だってほんとうはいやだったけれど、抵抗すれば母がまたあの金属の声を出して私を罵倒することはわかりきっている。あの声を聞くくらいなら、カノンに悪口をいわれるほうがずっとましだ。

 あの声には、おばけが混ざっていると思う。聞くと、私の心臓は動くのをやめ、すべての臓器が下に落ちていく感覚がして、脳はなにも考えられなくなる。脳が動かなくなるのは、なにより恐ろしいことだ。身体のすべてに指令がいかなくなり、自由に呼吸をすることもかなわなくなってしまう。ほら今思い出しただけで、肺が苦しい。

 息を、しなくちゃ、息を、息、を、はあ、はあ、はあ、はあ。


「いとちゃんのかみがた、へーんなのー」

「カバみたい。あははは、カバだあ、いとのカバ!」

 カノンとルナが、今日は朝からいつも以上にしつこく私の前髪をなじってきた。昨日、母に切られたばかりだった。カノンに言われるならまだわかるが、私よりはるかにカバに近いルナにカバと言われたことが急に可笑しくなり、うつむくふりをして堪えた。懸命に抑えても、身体が細かく震えてしまう。そこへ、ゆいちゃんが登園してきた。

「ほら、こうしな?」

 ゆいちゃんは、自分のかぶっていた水色のキャップをぽん、と私の頭にのせ、つばの部分を少し下げた。

「ね、かわいい」

 ゆいちゃんは大きな目をくしゃっと崩して笑った。マーくんやヒロくんのみならず、今やクラスじゅうの男の子たちに大人気となったゆいちゃんには、さすがのカノンも手出しができない。ゆいちゃんが登園かばんを置きに行ったすきに、私は再び二人に行く手をふさがれた。

「そんなぼうし、ぜんっぜんにあわない。あんたなんか、ゆいちゃんとしゃべったりしたらダメなんだからね」

 カノンが糸みたいな目を限界まで吊り上げ、大きな鼻の穴をふがっとふくらませながら顔を近づけてきた。『灰かぶり』に出てくる、妹の金の靴を無理やり履くためにかかとを切り落とすほうの姉はこんな顔をしているのだろうと思った。黒い穴の中に、黄色い鼻くそが見えている。吐く息が臭い。朝ごはんは納豆か。

「そうだよ。ダメなんだからねっ」

 ルナのぼてっとふくらんだ腹や、年齢のわりに濃く長い体毛の生えた太い手足は、『かいじゅうたちのいるところ』という絵本に出てくる怪獣のどれかに似ている。どのページのだったか、一生懸命思い出してみるがうまくいかない。そうしているうち、私の腹が、胃が、またもったりと重く下がってきた。そればかりか、今度は胸のあたりから吐き気がせり上がってきてしまったので、喉にありったけの唾を集めて飲み下した。


 昼寝の時間、私はまたなかなか寝つけなかった。暗闇の中ですこしだけ首を持ち上げて周囲を確認する。すう、すう、とあちこちから寝息が聞こえる。しばらくすると、ゆっくりと教室の引き戸が開く音がして、ちえこ先生が出ていくのが見えた。私はそっとズボンの中に手を伸ばす。マーくんとしたキス、それからヒロくんとしたキスの感触、温度、興奮を頭の中で再生する。

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