第27話 ぼうけん

 八月最初の日曜日。私は夜明け前から何度も目を覚まし、部屋の窓のすぐ横にとまったセミの、壁を叩き割るかのような鳴き声で完全に起き上がった。父は夜遅かったのか、私たちが出かける時間になってもまだ寝ていた。母は人さし指と親指でスマートフォンの画面を何度か撫でて、ゆいちゃんのお父さんに連絡をしていた。今回の緊急連絡用に、お互いの連絡先を交換したらしい。母の顔はひとりでに笑っていて、私はなんとなく顔をそむけた。

「ゆいちゃんのお家に行ったら、ちゃんとご挨拶して、ごはんを食べたら食器をお片付けするのよ。間違ってもおねしょとか、恥ずかしいことしないでよね。わかった?」

 私はこくりと頷いた。唾を飲む音が耳を貫く。

 母と妹と弟は私と一緒に家を出てバス停へ向かい、私はゆいちゃんと待ち合わせしている水たまりのあった公園へ急いだ。ゆいちゃんは、少し遅れてやってきた。怒ったような、少し怖い顔をしている。さすがのゆいちゃんも、今日ばかりは緊張しているのだろうか。ゆいちゃんの計画どおり、お姉ちゃんたちも、お父さんもお母さんももう出かけていないそうだ。ゆいちゃんは自分のリュックの中から、ダイアナを取りだして私に渡した。

「じゃあ、出発ね」

「うん」

 手をつなぐと、ようやく私たちは笑顔を思い出した。すると、全身から希望がむくむくとが沸き上がって踊りだした。やっと、やっとだ。ほんとうのぼうけんの、始まりだ。


 私たちがまず向かったのは、団地内にあるスーパー。ここへ子どもだけでくるのは初めてだった。

「なに買うの?」

 私が訊くと、ゆいちゃんは声をひそめた。

「買うんじゃないよ。ジュースをいただくの」

「え?」

「うちにあるマンガにね、ダイヤモンドとかをぬすんでいくかっこいいドロボウのおはなしがあるの、それでね、わたしたちもそれをするの」

 空気はむせかえるほど暑いのに、心臓がものすごい速さで冷えた。ここまできたら、ゆいちゃんについていくしかない。スーパーに入るとゆいちゃんはスタスタとジュース売り場のほうへ向かい、左右を確かめた。それから天井を見て、なにかを探している。

「カメラ、あそこにある、それからあそこにも」

 ゆいちゃんの視線の先に、天井から吊り下げられている、四角い箱に丸い目玉がついたようなものが見えた。

「いとちゃん、ゆいのことみてて」

 ゆいちゃんはジュースのペットボトルを一本つかんで、歩きだした。縦に伸びる通路から少し左に入ったところまでくると、ゆいちゃんは着ていたワンピースをばっとめくってペットボトルを自分の下着の中に入れた。

「まえにおねえちゃんといっしょにきたとき、こうやったの」

 衝撃の連続で身体がギクシャクしている私の背中を、ゆいちゃんが押した。

「いとちゃんも、はやく」

 私は震える足でジュース売り場へと向かい、目の前にあったペットボトルを中身も見ずに手にした。そしてゆいちゃんのところに戻り、左右と天井を確かめた。

 いまだ。

 私はズボンのウエストをグイっとひっぱり、下着の中にペットボトルを縦に刺すように突っ込んだ。股に氷が入ったような冷たさが走り、思わず声をあげそうになる。慌てて上からTシャツをかぶせた。

「いくよ」

 ゆいちゃんはずんずんと歩いて出口へ向かった。私は極力走らないように注意しながら、後を追った。すれ違った店員が振り返る気配がしたが、かまわず前進した。


 スーパーを脱出した私たちは下腹部を押さえて懸命に走った。冷房から解き放たれた身体が、外界の湿気と暑さでむわりとゆるむ。団地の敷地を出て、長い一本道を息もつかずに駆け抜ける。後ろをふりかえる。だいじょうぶ、誰も追いかけてきたりしていない。緊張と恐怖で足がもつれ、何度も転びそうになった。

『ブレーメンのおんがくたい』みたいだと思った。こき使われたあげく、不要になったからと飼い主に殺されそうになったロバと犬と猫とおんどりが、それぞれの家から逃げだしてブレーメンを目指す。私とゆいちゃんは、東京を目指す。

 恐れと不安が、わくわくとした興奮に変わる瞬間を感じた。

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