第23話 プール
七月に入ると暑さはさらに増し、太陽はじりじりと肌を焼いた。保育園では、子どもの膝ほどの水を入れた浅いプールでの水遊びが始まった。自分たちのクラスの順番が回ってくる日は、朝から教室全体がそわそわと落ち着かず、ちえこ先生は少し怒りを含んだ強めの口調で暴走しそうな子たちを注意していた。
自宅の風呂釜に少し水を張って妹と水遊びをしたことはあったが、プールは初めてだった。プール開きの日、私は母がどこからか調達してきた誰かのおさがりの赤い水着を着てプールの縁にそっと腰かけ、おそるおそる足首まで水に浸かってみた。鋭い太陽の光が砕けて尖りながら輝く水面、絵の具を溶かしたような青緑色の水、つうんと鼻腔をくすぐる塩素の匂い。水のかけあいっこをしている子たちのところからしぶきが飛んできて頬にかかっても、不思議といやな気持ちがしなかった。プールはすごい。みんなを一気に笑顔にしてしまう。カノンもルナも、お気に入りの浮き具を確保するのに必死で、私のことまで気が回らないようだった。
「やあ、やー! やーあ!」
声のするほうをふり返ると、もりくんが年長クラスのサユリ先生の腕の中でもがいていた。サユリ先生は、ちえこ先生よりずっと背が高く、声も大きく、手足も太くてがっしりしている。
「わがままいわないの! ほら、みんなと一緒にお水ぱしゃぱしゃしよ? 楽しいよ?」
「やあああ!」
もりくんは頭がもうすぐ地面についてしまいそうなほど反り返って叫び、全身でプールを拒否していた。サユリ先生は苦いものを食べたように顔をくしゃっとしかめて、ちっ、と舌打ちした。その表情は、私の母によく似ていた。
反らした身体をもとに戻したもりくんと、目が合った。もりくんはふと我に返ったようになって苦痛にゆがんだ顔をフラットな状態に戻し、その場で服を脱ぎはじめた。Tシャツを裏返しのまま放り投げ、半ズボンと一緒にパンツも脱いですっぽんぽんになる。私はもりくんの脚の間に揺れる、小さなものに焦点を合わせた。もりくんのそれは太った大人の親指みたいな形をしていて、弟のよりも少し大きい。サユリ先生が慌ててそばに置いておいたもりくんの海水パンツを履かせようとしたが、もりくんはするりとその手をかわして園庭のほうへ逃げた。サユリ先生もその後を追った。
プールから上がる時間になった。混雑を避けるため、みんながいなくなってしまうまで、私はプールサイドで待っていた。もりくんは海水パンツを嫌がって裸のまま、結局水には少しも入らなかった。みんな水遊びに夢中で、もりくんをからかう子もいなかった。サユリ先生は自分のクラスの引率に戻った。
もりくんは水を嫌がって入らなかったくせに、みんながプールから上がってしまっても、なかなか部屋に戻ろうとしない。
「いとちゃん」
見上げると、ちえこ先生がいた。もりくんの青い海水パンツを持っている。
「先生、みんなのところに行かないといけないから、悪いけど、ちょっとの間だけもりくんと一緒に待っててくれる? すぐ戻ってくるから」
私は黙って頷いた。プールの水はいつの間にか抜かれていて、露わになったコンクリートの底に大きな水たまりができていた。ちえこ先生がいなくなっても、もりくんはなにかぶつぶつ歌いながら、プールの周囲をぐるぐると裸足で歩き回っている。私はもりくんを、正確に言うともりくんの股で揺れるものを、じっと見ていた。視線を感じたもりくんは、私の顔を見てにっと笑ったかと思うと、その場にしゃがんで地面を凝視しはじめた。私もプールを離れ、そこに近づく。
もりくんが見ていたのは、アリだった。十数匹のアリが、ダンゴムシの死骸を一生懸命運んでいる。もりくんはいきなり、そのアリたちを手のひらでつぶした。私は驚いて身体をのけぞらせる。ばん、ばん、ばん、ばん。もりくんは目を三角にして口を大きく開け、うあ、うああ、と唸り声をあげながら逃げ回るアリを一心不乱に叩き続けている。
私は口を引き結んで耐えた。けれどもりくんの顔を見ていたら、くつくつと沸いていた衝動が急速に沸騰し、腹から脳天に向かって破けた。地面の土を雑草ごとつかんで、もりくんに投げる。もりくんは驚いてこちらを見、そして笑った。私はもう一度土をつかみ、もりくんの脚の間をめがけて力いっぱい投げた。飛び散った土がもりくんの目を直撃し、もりくんはぎゃー! と叫んだ。
私は手を休めず、また土を投げた。ようやく危険を察したもりくんは、べそをかきながら逃げる。私は握った土を振りかぶって追いかける。断末魔のような泣き声をもっともっと聞きたくなって、また投げる。土のかたまりはもりくんの股を直撃して割れた。もりくんは、泣きながらのろのろと逃げるので、すぐに追いつく。もりくんのふとももは、土でどんどん汚れていく。
「ぎゃあああ!」
もりくんが泣き声をあげればあげるほど、私の心はとてつもなく興奮し、刺激がざくざくと胸を突いてきた。止まらない、止められない。さあ泣け、泣け、もっと泣け!
その日から、もりくんはあまり私の近くに寄ってこなくなった。私はいつ先生に呼ばれるかとびくびくしていたけれど、なにも起こらなかった。もりくんはあのことを、親にも先生にもいいつけていないようだ。
保育園にある絵本をあらかた読みつくしてしまった私は、罪悪感と安堵感でないまぜになった気持ちを持て余していた。もりくんに土を投げた左腕の、肩から先がすっぽりとえぐり取られてなくなったみたいになった。その違和感を取り除こうと懸命に動かしてみても、スースーして力が入らなかった。
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