第21話 ほんとうのこと
あれだけお願いしたにもかかわらず、ちえこ先生は園長先生にいいつけ、園長先生は母に伝えてしまった。園長室から出てきた母は、焦点の定まらない目をつけた青い顔をしていた。
ほんとうのことは、誰かに言っちゃいけないんだよ。もし言ったら、それがぜんぶ悪いことになっちゃうからね。
ゆいちゃんの言うとおりだと思った。ほんとうのことは、口に出したとたんに悪いことにされ、ほんとうのことの中にあるいちばんのほんとうは、誰も信じてくれない。だってそれは、見えないから。見えないものには名前がなくて、名前がないものはないのと同じ。見えないものは、嘘だといわれる。見えないものは、誰も信じない。
大人は、約束を守ってくれたことがない。怖い顔をした大人は怒りながら、優しい顔をした大人は微笑みながら、どっちにしても私との願いを、約束を、びりびりと画用紙を裂くように簡単に破るのだ。ちえこ先生も、やっぱりただの大人だった。
自宅のドアが開き、妹がまず靴を脱ぎ、母がバギーから弟を出して部屋に放つ。二人はとととと、とリビングへ転がるようにかけていく。
「こらあ! どんどんしない!」
母の声が金属みを帯びている。背筋に寒気が走る。狭い玄関には私と母だけになり、なんとなく、身体が触れないような距離をとる。
「……あんたさ」
私は顎を下に向け、目だけで母を見上げる。母が高い位置から私を睨む。私は目線を自分のつま先に落とす。
「あんたって子は」
母はとても低い、深い穴の奥から聞こえてくるような声を絞りだす。
「ほんとに気持ち悪いんだけど。保育園であんなことするなんて。お母さん、めちゃめちゃ恥ずかしかったじゃない。なんっていやらしい子なの……吐きそう。あんた、いったいいくつだってのよ。ほんっとほんとにもう、信じられない、ありえない……」
母の声が震えた。私の脳はもう、氷のように冷たくなっている。心臓はおそらく、動いてすらいない。
「ご、五さいだよ」
やっとのことでそう言った。なにか言わなきゃ、と勝手に口がしゃべっていた。途端に頭の上で舌打ちが破裂する。着火してしまった。
「はああ? なにいってんの、そういう意味じゃないことくらい、わかんないの? あああああーほんっとうにいやな子。バカすぎてぞっとする! ありえない、きもいきもいきもい!」
そこまで言うと母はさっと靴を脱ぎ、リビングへ向かった。それからどれくらいの時間だったか、私は身体を動かすことができず、玄関に突っ立っていた。
そうだよ。私は大人が期待するような、きれいな子どもじゃないよ。無理をしないと笑えない、泣けない。子どもはまだ知らないだろうと大人が思っていることも、いつのまにかわかってしまうんだ。サンタクロースが親なのも、〝あれ〟をするといやらしい気持ちになることも、大人のために嘘をついたほうがいいことも、誰にも教えてもらってないのにわかっちゃった。へんなの。だから両親は私のことが嫌いで、母は弟がかわいくて、父は妹がかわいいんだ。そうなんだ。
でもどうして私がこんなにへんなのか、へんになっちゃったのか、私にもわからないんだ。治し方も知らない。
私みたいなへんな子どもにも、誰かかわいがってくれる人がいたらよかったな。生まれてくる順番は、最初じゃなければよかったな。「子どもはみんな、生まれる前は空にいて、どのお母さんのところに生まれるか、選んで生まれてくるんだよ」と園長先生が言っていた。私はきっと、空から見ているとき、生まれてくる家を間違えてしまったんだろう。だって私は、バカだから。ジカチュウドクだから。きもいから。ありえないから。
その日から私は夜寝るとき、両手の指をグーに握った形で紐で縛られ、タオルケットを腹にかけることを禁じられた。
家での「おとうばん」の中で、妹にかかわるものは極端に減った。「コトちゃんにうつったら困る」と母は言った。弟に対しては、私は触れることはおろか、話しかけることすら許されなくなった。
保育園の昼寝では、教室の出入り口にいちばん近い、先生の目の届く場所が私の定位置になった。私のお迎え時間は閉園ぎりぎりまで遅くなり、帰宅すると、私が保育園にいる間に先に夕食を済ませた母と妹と弟が風呂に入り、私は食卓に置かれた冷めた夕食をひとりで食べるようになった。なぜか食べものの味がしなくなってしまったので、自分の咀嚼する音を聴きながら食事することを覚えた。
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