第19話 かみさま
園庭のベンチに座っていたら、保育園の門の向こうに母の姿が見えた。いつものお迎え時間よりも少し早い。と、いきなり胸がきゅうっと苦しくなって、肩が勝手に上下した。
はあ、はあ、はあ、はあ。
どうして、どうして、息が、できない。
視界ががたんと横に倒れて、映像はそこでぶつっと途切れた。
「いとちゃん、もしかして保育園でもおうちでも、なにかつらいことがあるんじゃないでしょうか」
遠くのほうで、ちえこ先生の声がした。うっすらと目を開けると、ちえこ先生はとても疲れたような顔をして、話をしている。保健室のベッドで横になっている私とちえこ先生の間には、母の背中と弟の乗ったバギー、椅子に座って絵本を開きながら足をぶらつかせている妹の姿が見えた。
「そんなことないですう。もともとね、ちょっと変わったとこあるんですよ、この子は」
からからとした母の声が降ってきた。たぶん帰ったらまた「あんたのせいで」となじるにちがいない。胃がぐーっと縮んで痛む。
「あの……差し出がましいようですが、お母さんは少し、いとちゃんに対して厳しすぎるところがあるように見えます。もう少しだけ、やさしくお話してあげると、いいかなと」
母は少し間を置いた。不機嫌になったのが、空気でわかった。
「……へえ。先生からはそんなふうに見えてたんですね。私のせいでうちの娘がこうなったって、疑ってらっしゃるんですか。ちょっとショックです」
「あ、いえ、その」
「だって、ご覧のとおり、うち子ども三人もいるでしょう? 父親は仕事ばかりであてにならないし、結局、わたしひとりで家をまわしてかなきゃならないんです。妹のこの子なんかは上を見てわかってるから要領がいいんですけど、どうしても長女はねえ。いちばん目につくし、言いやすいっていうか。だけどわたしだってね、毎日子どもたちの世話でいっぱいいっぱいなんですよ? まあ、お子さんのいらっしゃらない先生には、おわかりにならないかと思いますけど」
母の口調はよそゆきの声を失い、金属の声になっている。私をなじるときと完全に同じだ。
「それにお言葉ですけどこの園だって、はっきり言って先生方の目が細かいところまで行き届いてるとは思えませんけど? 娘はここに通う前まで、熱なんかほとんど出したことなかったんです。だけど先生方も一生懸命やってくださっていると思うし、ほんとに手一杯なんだろうってわかっているから、こちらも今まで何も申し上げずにいたんですよ?」
「あ、いえ、その、すいません、それぞれのご家庭の方針があるのはわかっておりますので。少し言いすぎてしまいました。申し訳ありません、お許しください」
先生は母に向かって、ぺこぺこと何度も細かく頭を下げた。母は「いえいえ、先生方にはいつもお世話になっておりますので、お気になさらず」と言った。きっと口元だけで笑っている。胃の奥が、今度はしくしくと痛みだした。このまま、できれば一生、ここで眠っていたい。『ねむりひめ』みたいに百年の眠りにつきたい。私はぎゅっと目を閉じ、神さまに、ほんとうはいるのかいないのかわからない神さまに、懸命に祈った。
かみさま。おねがいします。わたしを、いとを、ここにいさせてください。どうか、たすけてください。
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