第16話 スーパーで

 お迎えの時間、ちえこ先生はほんとうに母になにも言わなかった。先生は私の願いをちゃんと聞いてくれ、約束を守ってくれた初めての大人だった。


 保育園からの帰り道、母は私たち子ども三人を連れてスーパーへ寄った。弟は最近ひとりで歩きたがるようになり、バギーに乗らないこともある。今日もそうだった。

 スーパーの入り口でさっそく、弟がカートの子ども用椅子に乗りたがらずにぐずりだした。母は顔をしかめて舌打ちをし、私に「あんた、カイくん見てて」と言い残し、さっと妹を抱き上げカートに乗せて広い売り場の向こうへ消えた。私は弟が走っていかないように、しっかりと手をつないだ。

「あーた、あーた」

 弟は私をそう呼び、母が見えなくなると平然としたようすで私の手を強い力でぐいぐいと綱引きみたいにひっぱってきた。弟が転ばないようにと力を加減していたら、まんまと彼が大好きなお菓子コーナーまで連れてこられてしまった。

 しばらくして母が私たちを見つけたときには、弟は大好きなおもちゃ付きのお菓子を握ったまま離さなかった。母が「今日は買わないよ」と言うと、弟はぎゃあー! とつぶれた声を天に向かって打ち上げて泣き、両足を力いっぱい踏みしめてドンドンと床を鳴らした。母は私に向かって炎のともったような目をした。

「もう! 見ててって言ったのに、どうしてお菓子の前に連れてきちゃうのよ! ほんとにあんたは、使えないんだから!」

 弟のあまりに大きな泣き声に、周りの人たちがこちらを見るのがわかった。私は恥ずかしくなってうつむいて「ごめんなさい」と小さな声で言ったけれど、母はこっちを見ずに、妹の乗ったカートを押してずんずん先に歩いていってしまう。弟は濁った声をいっそうはりあげて、再び大音量で吠えた。スーパーの制服を着た女性店員が、私になにか話しかけようとしている。やめて、お願い、こっちこないで。

 弟が号泣の息継ぎのために大きく息を吸ったとき、握っていたお菓子をぱっと落とした。私は急いでそれを棚に戻し、素早く弟の腕をつかんでひっぱり、母と妹の後を追いかけた。弟の靴が床に引きずられる感触があったが、かまわず力を込めた。やっと母に追いついたところで、向こうから、うちの真下の階に住む中山さんちのおばさんがやってくるのが見えた。

「あらあ、こんにちはあ」

 おばさんから声をかけられると、母は私を睨んだ目をすっと戻してとよそゆきの声を出した。

「あ、どうもー、こんにちはあ」

「こんにちは」

 母に続いて私も足を止め、深くお辞儀をして挨拶をした。おばさんは弟の手を引いている私を見やり「あらま、いとちゃんはほーんとに、しっかりしたお姉ちゃんでえらいわあ。ほら、こんなに賢そうなお顔して。これならお母さんも助かるわねえ」と微笑んだ。母は「そうかしらあ? こう見えてぜーんぜん、いうこときかなくて困ってるんですよお」と愛想笑いをする。そして、妹を前に押し出しながら言う。

「下のこの子もね、幼稚園に入ったらすっかりお姉さんになったんですよお」

 おばさんは一瞬きょとんとした顔をして、「あ、あらそうなの。それはお母さん、ますます楽しみねえ」と薄く笑った。

「それじゃまたあ」

「どうもー」

 中山のおばさんが見えなくなってから、母はぱっとさっきの顔に戻る。

「あんたってほんと、子どもらしくないわよね。よその大人に媚び売っちゃってさ。あー、きみわるい」

 コビウッチャッテって、どういう意味だろう? だけどあそこで挨拶をしなかったら、間違いなく後で母は私を叱っただろう。それなのにちゃんと挨拶をしても、こうしてコビウッチャッテと叱られてしまう。「子どもらしく」って、どうすればいいのだろう。私はバカだからわからない。でも訊いたりしたらまた母の機嫌が悪くなるから、やめておく。

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