第17話 ジカチュウドク
おとうばん、保育園、おとうばん、保育園。記憶を留めさえしなければ、目や耳から入ってきた
近ごろ私は十日に一度くらいの割合で突然嘔吐し、高熱を出すようになった。園長先生は迎えにきた母に「自家中毒かもしれません。いちどお医者さまに診てもらったほうが……」と言った。ジカチュウドク。毒? 毒が、私の身体の中に入ってしまったのだろうか?
母は「いやそんな、たいしたことじゃないですよお。ちょっとがめついとこあるんでこの子、きっとこちらの給食が美味しくって食べすぎちゃうんですよ。お恥ずかしいわあ」とからから笑っていた。
今日も、私は朝から熱を出して保育園を休んでいた。母が私の頭にキャベツの葉をかぶせた。妹はそれを見てきゃっきゃと笑った。父はもう仕事に出かけていた。
妹が幼稚園に行き、弟が二度寝をしたところで、母が私のためにミルクセーキを作った。いつも熱を出したときに飲まさせるのは薄めた
「どう? おいしい?」
困った。母が私のためだけになにかをしてくれたことに戸惑ってしまい、どう表現してよいのかわからない。牛乳に蜂蜜と卵黄液を入れてあたためたそれは、ただひたすらに甘く、胃がずんともたれてくるような味だった。
「保育園、楽しい? お友だちと仲良くやってる? いやなこととか、ない?」
母のやわらかな顔に気が緩んだとたん、ミルクセーキの湯気が鼻を刺し、つうんと痛んだ。今なら、きっとだいじょうぶだ。私はつい我を忘れて、マグカップをテーブルに置いた。
「……お、おかあさんは、ど、どうして、わたしだけ、おこ、るの? コトちゃんや、カイくんは、できなくても、おこられないのに、さ、どうして、い、いつも、わ、わたしだけ、おこ、るの?」
言ってからしまったと思ったが、遅かった。母の貼りついたような笑顔は、みるみるうちに崩れていく。私の視界は熱をもった涙で急激に濁り、決壊し、溢れて頬をどんどん伝って落ちていき、首が冷たく濡れた。
「……私だって、大変なのよ」
母は私の顔を見ているのか見ていないのか、肩をわなわなと小刻みに震わせ、焦点の合わない目をしていた。温まったはずの私の身体に、ざっと悪寒が走った。
「お父さんはたいした給料ももらえないくせに毎日帰りが遅いし、かといって家にいたってなんの役にも立たないし。私は毎日、まず朝カイくんの泣き声で起こされて、おむつ替えて、あんたたちのごはん作って、掃除して、洗濯して、ゴミ捨てて、またごはん作って、公園行って、病院や注射に連れてって、おやつ作って、もっかいごはん作ってお風呂入れて、着替えさせて、寝かしつけて、もう、それだけで一日が終わっちゃうの。もう、疲れて疲れて疲れて、自分のことなんてなあんにもできないの、それでもまた次の朝が勝手にきちゃうの。それがどんだけつらいか、あんたにわかる? ねえ」
母がこうなると、もう止まらない。どんどんどんどん、金属の声が強くなる。
「ああ! もう! なによ! なんなのよ! せっかくたまには保育園での話でも聞いてやろうと思ったのに! そんなくだらない話をされるなんて! ああやだ! 損したわ!」
だけど私だって止まらない。涙が、洟が、嗚咽に飲み込まれ、さらにその奥から新しい嗚咽を呼んでくる。
「コッ、コトちゃんやカイくんは……のに、エッ、ドッ、どうしてわた、しだけ、おこ、られるのっ」
「だーからしつこいっての! そんなの、あんたがお姉ちゃんなんだからあたりまえでしょ。っとに、あんたはいっつもヘリクツばっかり言う! 誰に似たのかね! ほんとにほんとにほんっとうに、どうしてこんなにいやな子なんだろ!」
ヘリクツって何だろう。ヘリクツ……。わからないけど、ここまできたら私も、今日はとことんまでがんばろうという気になっていた。
「あっ、あと、あとね、わたしのこと、あんた、って、いわないで。ちゃんと、なまえで……いとちゃんって、よん、で、ほしいのっ、えっ」
母が椅子をガタンとさせて立ち上がる。ぶたれる。私はびくりと大きく全身を震わせた。その音で弟が目を覚ましてあーんと泣いた。ちっ。母の舌打ちが、私の上に降りかかる。心臓が跳ねて、呼吸が乱れる。私はそれを懸命に抑えて自分を閉じて体の中に押し戻す、声を殺す。冷めてしまったミルクセーキは、喉に絡みつき、押し戻されて、なかなか飲み下せない。もうこれ以上、無理。
母は……「おかあさん」というものは、どれだけ私をなじっていたとしても、私の心を殴っていたとしても、きっとどこかで、最後の最後のどこかでは、ちゃんとした、だいじょうぶな存在なのだと信じたかった。だけどそれは、やっぱり違ったみたいだ。ダメみたいだ。私にはその存在の、ほんの少しの恩恵を受ける権利すら与えられていないのだ。そういう役回りに生まれついてしまったのだ。
その結論がやけにはっきりと文字の形をして私の脳裏に突き刺さり、かけめぐり、熱とともに身体の内側で何度も跳ね返り続けた。再び戻ってきた熱で、意識が遠のく。涙が涸れてなくなってしまったことも、母が弟を連れて公園に行ってしまったことにも気がつかなかった。
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