第13話 リゲ

 それからは毎週のように、私はゆいちゃんの家へ行ったり、二人で団地の敷地内で遊んだりした。今まで、妹を連れずに私だけが友だちと遊ぶなんて許されたことはなかったが、ゆいちゃんだけは例外だった。「ゆいちゃんとあそぶ」と言えば、母は「あらそう、いってらっしゃい」と簡単に私を外に出してくれるようになった。世界は一気に広がった。

 最近の私たちの流行りは、「ぼうけん」。スコールのような大雨が過ぎ去ったあとの水たまりで、ゆいちゃんがもってくるシリコン人形の「ジョン」と「ダイアナ」で遊ぶことを、そう呼んでいる。ゆいちゃんがジョンで、私がダイアナの役だ。ジョンとダイアナは将来を約束した恋人同士だけれど、親同士の仲が悪いため、かけおちをしてこうやって逃避行をしている。この設定を考えたのはゆいちゃん。私では到底思いつかないような大人びたセンス、最初聞いたときは鳥肌が立った。こんな遊びができるのは、保育園じゅうを探したって、きっと私たちだけだ。

 水たまりに飽きると、団地内の公園や芝生や木々の間を、ジョンとダイアナはいつも仲良く、協力しあいながら「ぼうけん」を続けた。公園にカノンやルナの姿を見つけると、私たちは彼女らを「くらやみの女王」と呼び、草の陰に伏せた。お互いの身体がぴったりとくっついて、くすぐったいような笑いをこらえるのが、楽しくて楽しくてたまらなかった。

 私たちの共通の夢は、魔女になることだった。木の枝に野の花や草で飾り付けをして、魔法の杖にした。呪文も考えた。悪いもの、悪い人、私たちをいじめるものをすべてこの世から消して、美味しいものと好きな人だけがいる国を妄想した。「まほうのしゅぎょう」もした。まずは雨傘を開いて、飛ぶ練習。最初は団地の階段を何段か、それから駐車場の低いフェンスの上から下へ、自転車置き場の屋根から、ジャングルジムからも飛び降りた。飛ぶときに、傘を後ろから前へ振りかぶると、くわっ、と一瞬だけ身体が浮く。その感覚が私たちに希望を抱かせ、もっと高く、もっと空へとかきたてる。公園の滑り台の頂上から飛び降りたとき、私は足を強くくじいてしまった。足を少しだけ引きずって何とか耐え、母には言わずに隠した。


 ある日、ゆいちゃんと外で遊ぶために靴を履いている私に、母が声をかけた。

「今日カイくんの病院行かないといけないから、コトちゃんも連れてってあげて」

 妹は私の顔も見ずに無言のまま、そそくさと靴を履いている。えー、と私は言いかけたが、ごくりと声を飲み込んだ。下手に抵抗して外出禁止になるよりはましだと思った。

 待ち合わせ場所の公園に行くと、ゆいちゃんが一瞬「え」という顔をした。

「ゆいちゃん、きょうは妹もいっしょでいい?」

 私は申し訳なさで緊張する。

「うーん……いいよ」

 ゆいちゃんは今日もジョンとダイアナを持ってきていたが、当然、妹のぶんの人形はない。二人で「ぼうけん」をするときは、ゆいちゃんはジョン、私はダイアナという役名で呼び合っている。妹の人形はないから、役名もない。ゆいちゃんは私の耳元で「うんちの〝ゲリ〟をさかさまにした〝リゲ〟ってなまえにすればいいよ」と囁いた。

「コトちゃんはリゲね!」

 何も知らない妹は嬉しそうに飛び跳ねた。私の心はざわざわと、なんだかわからない感情でかき混ぜられた。邪魔だった。善悪の判断をやめたら、それはすぐに快感に変わった。

 私たちはいつものように「ぼうけん」を始めた。水たまりで水路を作り、近くの芝生の坂を駆け抜け、木々の間をジグザグに走り、ジャングルジムから飛び降りる。「リゲ」は、動きがのろく、足も遅くて、私たちのペースについてこられない。

「おそいね」

 ゆいちゃんが不機嫌になったのを感じとった私は焦った。ゆいちゃんにまで嫌われたりしたら困る。どうしよう。

「かくれよう」

 ゆいちゃんの提案で、私たちは公園の短いトンネル型の遊具に入って隠れた。遊具の小さな丸い窓から外を窺う。少しすると妹がとことことやってきて、あたりを見回し、立ち止まった。

「おねーちゃーん、どーこー?」

 妹は弱弱しく声を出す。私たちは窓から顔を離して目を合わせ、声を出さずに笑いあう。妹はすぐに、す、す、す、と鼻で息をして、同じリズムで肩を引き上げた。泣く前の兆候だ。私はたまらなくなった。楽しくて、おもしろくて、ひどくて、とても悪い。妹がぐちゃぐちゃに泣き叫んでいるところを、私のせいで泣くところを見たくて見たくて苦しい。

「ここだよー!」

 ゆいちゃんはぱっと外に出て、妹に手をふった。妹はぽかんと口を開けたまま、目を丸くして泣くのをやめた。

 あーあ、あとちょっとだったのに。

 妹の姿に、保育園の秘密の入り口で〝あれ〟をしていたのを見ていた男の子が重なって見えた。


 ふいに、風が乱れる気配がした。私の頭のすぐ上で、ばささささと大きな羽音がして、視界が遮られた。カラスだ! 私たちはとっさに、別々の方向へ走った。私は妹の手をひっぱった。カラスはゆいちゃんには見向きもせず、こちらへ狙いを定めてきた。妹がひいひいと泣きだして転んだ。私は手を離し、ひとり全速力で逃げた。逃げても、逃げても、大きな木の下や遊具に隠れても、二羽のカラスはどこまでも追ってくる。私に、私だけに向かってアア、アア、と大声でわめきたてる。

 どうして、どうして、私だけ? 私が、悪い子だから? カラスは、私の悪い心を見抜いていたの? 私はこのまま、今日ここでカラスに食われて死んでしまうのか。いやだ、いやだ、死にたくない、私はまだ、死にたくない。

 大きな飼い犬を連れたおじさんが通りかかり「こら!」と叫んで手を大きく振りはらった。犬がカラスに向かって口を開け、ウォンウォン! と二回吠えた。カラスたちはようやく、ばさっばさっと大げさに羽ばたいて逃げていった。


 後日、私とゆいちゃんはカラスに負けないよう、また飛ぶ練習を始めた。いつものように自転車置き場の屋根から、公園の木から、あらゆるところから飛び降りた。私はジャングルジムのてっぺんから飛び降りて、再び足首をひどくひねってしまった。今回は片足を完全に引きずらなければ歩けないほどだった。しかたなく母に言うと、汚いものを見るような目で睨まれ、舌打ちをされた。病院へは行かずに、芋湿布を渡された。腫れは数日ひかず、保育園では全体遊びの時間にひとり絵本を読んで過ごした。

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