第4話 おとうばん

 私は毎日歩いて保育園へ、妹は猫の形をした黄色いバスに乗って幼稚園に通っている。都会からずっと離れ、鉄道駅からも遠い土地に建つ古い団地内には、ずいぶん昔からこの公立の保育園はあるそうで、団地やその近辺に住む子どもならほぼ誰でも入れることになっていた。

 末っ子の弟が生まれてからここに入るまで、私は一学年下の妹の面倒をみる係として、同い年の子どもより長く家におかれていた。私が五月生まれ、妹が翌々年の三月生まれだから、実際の歳は二年くらい離れている。妹の遊び相手、入浴、歯磨き、着替え、トイレの手伝い。私には、一日のうちにやらなければならない「おとうばん」がいくつも割り当てられていた。

 新年度から就園年齢に達した妹が保育園の年少に、私は年中のクラスに入る予定だった。しかし妹は、かたくなに保育園への入園を拒んだ。妹は前々から、向かいの棟に住む私より一つ年上の女の子に憧れていた。その子はひとりっ子で、いつ見てもお姫さまのような服を着ていて、家には発売されたばかりのおもちゃを揃えているという噂だった。妹は彼女が通う、駅のほうにある私立の幼稚園に行きたい、かわいい制服を着たい、幼稚園バスに乗りたいとさんざん駄々をこねた。両親が連日、あの手この手で説得にあたったけれど、一度決めたら頑として意思を曲げない妹に、最後は大人が根負けした。

 

 団地から車で数十分のところにある工場に勤める父は、朝は早くに出かけ帰りは遅く、休日出勤もよくあった。そのため母は毎日ひとりで家の中のことを担っていた。加えて弟は病気がちで手がかかり、母がほぼつきっきりで世話をしなければならない状態だ。母は弟の体調に敏感で、いつもピリピリとしていた。次第に私や妹の世話までは手が回らなくなり、私にいろいろと指示を出しているうちに、自然と今のような形になった。食が細くて好き嫌いも多い弟は、しょっちゅう食べものを戻したり熱を出したりする。その度に、母は私に妹を任せ、かかりつけの小児科へ駆け込み、ぐったりと疲れて帰ってくるのだった。

 わがままで気が強く、なかなかいうとおりにしてくれない妹よりも、私は弟のほうに興味があった。自分よりもはるかに小さい彼の手や足や鼻や口は、まるで小動物のような愛らしさで、強烈に私の好奇心をかきたてる。

 弟が寝ているバウンサーに少しずつ近づいて、中をのぞく。すべすべとして薄くやわらかそうな皮膚に無性にさわりたくなる。頭の匂いを嗅いでみる。少しの髪の毛がふわりと乗っただけの弟の頭はほかほかと熱を発していて、汗と乳と石鹸が混じったような、あたたかな匂いがした。私がそっと腕を伸ばして弟のおでこを撫でようものなら、母が家のどこからともなくすっ飛んでくる。

「やめて! きたない手でカイくんに触らないでっていつもいってるでしょ!」

 母は叫び、私の手首を勢いよくはじく。その声。怒気と悲鳴の混じった金属みたいな声は、いつも私の耳をつんざいて、銀紙を誤って噛んでしまったときのように、背中を粟立たせる。

 母は弟の世話以外の多くの時間、台所に立って何かをしている。シンクの周りには大小さまざまな瓶が並んでいて、それぞれに野菜やくだものを漬けたもの、呼び名のわからない白いもの、黒いもの、茶色いものが入っている。母はそれを「もつもの」と呼び、食事やおやつを作るたびに、そのうちのいくつかの瓶を開けて中身を取り出す。「もつもの」を使って母が作る料理は、どれもぼんやりと薄く酸っぱい味がして、すべてに茶色が混ざった色をしていた。私も妹も弟も、おそらく父も、それを美味しいとか不味いとかいう選択肢も与えられず、ただもくもくと摂取している。

 スーパーに売っているお菓子やジュースは「テンカブツ」とか「しろいおさとう」が入っているから、それは毒だからと、ほとんど食べさせてもらったことはない。おかずはだいだい豆腐や豆をすりつぶしてできたなにかで、肉や卵、魚などは、誰かの誕生日やクリスマスなど、ごくごくたまにしか食べられない「ごちそう」だった。

 母は食事を作ったり洗濯をするのは苦にならないようだが、掃除が苦手だ。ある日私は掃除機の使い方を教えられ、以来掃除も私の「おとうばん」になった。棚の上など、掃除機が届かないところはハタキやぞうきんを手にして拭いた。

 いくつもの「おとうばん」のうちのひとつに、一日に三冊、私が妹に絵本を読み聞かせるというものがある。私の家にはおもちゃがない代わりに、母が選んだ絵本がたくさんあった。どの本を読むのかは母が決め、必ず母の横で読み聞かせなければならない。私はひらがなはもうほとんど読めるけれど、たまにふりがなのついた漢字が入っていると、目線が動いて音読のリズムを崩さないようにと緊張するあまり、声が震えてしまう。

「そのいずみからは、つめたいみずが、とくとく、と、と、あ、えっと」

 私ははっとして、母の顔を見る。母はいったん天井を見上げ、すうーっと大きく息を吸い、眉をぐっと額に寄せて「は」という字を大きく声に出して息を吐く。はじまりの合図だ。私は絵本を閉じて脇に置き、正座する。 

「ねえ。あんたその本、いったい何十回読んでると思ってんの? どうしていつもいつもいつも、同じところでつっかえるのよ?」

「……ごめんなさい」

「ごめんなさいごめんなさいってさあ、いったい誰に謝ってんの? ねえ? 字が読み書きできないと、大人になってから困るのはあんたなんだよ? そのためにやらせてやってんだよ? コトちゃんにもその変な読み方がうつったらあんた、どうしてくれんのよ」


 はい。

 ごめんなさい。

 きをつけます。

 こんどからまちがえないようにします。


 いくつかの返答パターンを使い切ってしまうと、私は口を閉ざす。膝の上に置いた手を、ぎゅっとグーに握る。今日は、どれくらいかかるのだろう。

「気をつける、って言ったってさ、結局また同じことするじゃない。ったく、あんたってどうしてこうバカなの? ほんっとに、腹立つんだから」


 ごめんなさい。

 わたしがバカで、

 よむのをまちがえて、

 ごめんなさい。


 母の怒りが過ぎ去るまで、私はこの呪文を何度も何度も繰り返す。横にいたはずの妹は、いつのまにかどこかへと消えている。弟があーんと泣く。母がぶつぶつとなにかこぼしながら立ち上がって弟をあやしにいき、ようやく私は解放される。

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