第2話 Alice in New World

「母さん、この服は何……?」


「何って、とっても可愛い有栖のお洋服よ?」


 にこにこーっと嬉しそうな笑みを浮かべながら言うのは、有栖の母親である|御伽(おとぎ)ルイス。


 ルイスは目の前で空色のエプロンドレスに身を包む最愛の息子の姿を見て、嬉しそうに写真を撮る。


「そんなの分かってるよ! なんでドレスなんだって聞いてんの!」


「えー、だってアリスと言えば空色のエプロンドレスでしょう? 有栖がアリス展に行くなら、空色のエプロンドレスが正装じゃない」


「女の場合ならね! オレは男だし、もう十五歳だよ!? 流石にこの格好には無理があるよ!」


「あらぁ、全然違和感無いわよ? とっても可愛いわぁ」


 きゃーっと嬉しそうに有栖を抱きしめるルイス。


「もう! 姉さんもなんか言ってよ!」


「とっても似合ってるわよー」


「感想を言って欲しい訳じゃない!」


 ソファでだらけている姉――美夜が有栖の恰好を見て正直なコメントをする。


 確かに、今の有栖は可愛らしいと言う言葉が当てはまっていた。空色のエプロンドレスは装飾華美ではないけれど、ところどころにお洒落な|刺繍(ししゅう)が施されている。細やかで、綺麗な刺繍だ。服飾デザイナーであるルイスが腕によりをかけた傑作だ。


 有栖としてもこの服自体は可愛らしいと思う。けれど、それを自分が着るのは嫌だ。いや、母親が丹精込めて作ってくれた服を着たくないという訳では無く、単にこの歳にもなって女物の服を着たくないだけだ。


「ふわぁ……おはおー…………わっ、お兄ちゃん可愛いー!」


 眠気|眼(まなこ)でリビングに降りてきた妹――三日月は眠たそうな眼から即座に一変して、キラキラと眼を輝かせて有栖を見る。


「あ、三日月! 三日月も言ってやってくれ! 男のオレがこういうの着るのは変だって!」


「えー? 全然変じゃないよ? むしろ超似合ってるー!」


 ぱしゃぱしゃとスマホで撮影をする三日月。どうやら此処に味方はいないらしい。


「有栖、そんな事よりも時間は良いの?」


「そんな事じゃない! って、もうこんな時間!」


 懐中時計を見てみれば、もう家を出なくてはいけない時間だった。早起きしているから、展示時間を過ぎる事は無いけれど、せっかくだから開場と同時に入ってゆっくりと眺めたいのだ。


「ぐ、ぬぬぅ……」


 着替えてから言っては確実に電車に間に合わない。


 おそらくはルイスはそれを見越して有栖に着替えをさせたのだろう。なんて母親だ。


「はぁ……もう良い。とりあえずこれで行ってくる……」


 少し気落ちしながらも、有栖は玄関へと向かう。


「あ、有栖。忘れものよ」


「え、何?」


 振り返れば、ルイスは手に可愛らしい白兎のリュックを持っていた。


 それを見て、有栖の表情が引き攣る。


「え、それ持ってけって……?」


「ええ。これ、見た目以上にいっぱい荷物が入るから、持って行きなさい」


「えー……」


 この格好をして、更に白兎のリュックなど背負った日にはどれだけ本気で挑んでいるんだと周りの来場者にドン引きされる事だろう。


 さすがに嫌だなと思った有栖だけれど、確かに財布とスマホだけだと心もとないのは確かだった。


 それに、段々とルイスが悲し気な顔をするものだから、有栖が折れる他無かった。


「はぁ……分かった。持ってく」


「――! ありがとう、|私の可愛い有栖(マイスイートアリス)!」


 大袈裟に喜んで、ルイスは有栖にリュックを渡す。


「もう。調子良いんだから」


 有栖は苦笑しながらリュックを背負って、玄関に向かう。


「いてらー」


「いってらっしゃい、お兄ちゃん!」


「楽しんでらっしゃい、有栖」


「はーい。行ってきまーす!」


 全員に返事をして、有栖は元気よく家を出た。



 〇 〇 〇



「アリス。起きて、アリス」


「んぅ……むぅ……」


 |耳朶(じだ)に誰かの声が響く。


 誰……? 母さん……?


「アリス。早く起きて。……駄目だね。アリスったら、御寝坊さんだ」


 呆れたような声。


 知らない人の声だ……。え、知らない人?


 知らない人の声が聞こえると言う状況に危機感を覚え、有栖の意識は急速に覚醒する。


「あ、起きたね」


 有栖が起きれば、そこは見知らぬ場所だった。


「此処、どこ……?」


 見た事も無い場所で混乱しながらも、有栖は周囲を見渡す。が、そこで異常に気付いた。


「え、オレの声、こんなだったっけ……?」


 喉に触れながら、自身の声に違和感を覚える。


 声がいつもより高いのだ。少し喉の調子が良いとか、そういうレベルじゃない。声の質がまったく違うのだ。


 有栖の声は元々高かったけれど、こんなにも高かくは無かった。それこそまるで、子供のような声の高さだ。


 ひとまず立ち上がり、自分の身体に異常が無いかどうかを確認する。が、そこでも違和感が。


「視点低い……」


 いつも見ている光景よりも視点が低かった。


 有栖の身長は百六十センチなのだけれど、今の身長ではニ十センチ程低い位置に視点が来ている。


「何がどうなって……」


 自分の恰好を確認してみれば、空色のエプロンドレスが目に入る。


 良かった。これは見覚えがある。


 有栖が着ていたのはルイスが丹精込めて作ってくれた空色のエプロンドレスだった。背中には白兎のリュックが背負われている。


 恰好自体は変わっていない。異変があるのは、有栖の身体だけのようだ。


「……ていうか、此処本当にどこ?」


 有栖は改めて周囲を見渡す。


 そこは荒れ果てた室内だった。


 物は散乱し、ガラスは割れ、何かを展示していたであろう台座や、大きな人形は盛大に砕けていた。


「って、此処は……」


 見た事が無いと思っていた場所。しかし、有栖には少し見覚えがあった。


「此処、アリス展の会場だ」


 人形、展示物、そのどれもが壊れているけれど、見覚えがあった。


「なんでこんなに荒れて……ていうか、どうなってんだ? オレ、なんでこんなところで寝て……」


 有栖は自身が何故此処で眠っていたのかを思い出そうとするけれど、どういう訳かアリス展に行くために家を出たところまでしか憶えていない。それ以降、此処に居る理由を含めて、何も思い出せない。


「どうして……」


 混乱する中、アリスはとりあえず外に出ようと一歩踏み出す。


「おっと、危ない」


「――ひっ!?」


 足元から、誰かの声が聞こえてきた。


 思わず、びっくりしてその場に尻もちをついてしまう有栖。


「ああ、アリス。大丈夫かい?」


「え、な、え……?」


 そう言えば寝ている間に聞こえた声の主の存在を、今更ながらに思いだし、その声を発しているのが目の前の者だという事に気付く。


 しかし、だからこそ驚く。だって、その者は普通は喋ったりはしないのだから。


 にんまりを避けた大きな口。灰と黒の縞模様の毛並み。尻尾をゆらゆらと揺らし、驚く有栖の顔を|見上げている(・・・・・・)。


「……チェシャ猫……?」


「ああ、そうだよアリス。久しぶりだね」


 チェシャ猫。そう呼ばれたにんまりお口の猫はさらににんまりと笑みを浮かべる。


「ああ、久しぶりとは違うね。でもアリスはアリスだから、やっぱり久しぶりだね。でもアリスとは初対面か。うん、では、久しぶり、そして、初めましてアリス」


「え、いや……初めまして……」


 訳の分からない事を言い、挨拶をするチェシャ猫に、有栖は律義に挨拶を返す。


 いや、そうではなくて。


「え、お前、本当にチェシャ猫なの?」


「ああ。|猫(ぼく)はまごうことなきチェシャ猫だよ、アリス」


 お座りから立ち上がり、アリスの肩にひょいひょいっと上るチェシャ猫。


 ふわふわと柔らかい毛並みが心地よい。それに、温かさもある。


 夢じゃなかろうかと思ったけれど、夢だったらこれほどまでに繊細に情報を再現出来はしないだろう。


 チェシャ猫の顔はちょっと怖いし、猫が喋るなんて現実的では無いけれど、空気感や五感は夢とは全く違う。地面を触る手にはちゃんと感触も返ってくるし、チェシャ猫の重みもちゃんとある。


 では、これは現実だ。分からない事は多いけれど、しっかりとした現実なのだ。


しかし、現実だとして、この状況はいったいどういう事なのか。それに、自分の身体に起こっている異変は一体……。


「なぁ、チェシャ猫」


「なんだい、アリス」


「オレの身体、どうなってる?」


 此処に鏡は無い。だから、第三者であるチェシャ猫に尋ねるしかない。


 チェシャ猫は有栖の身体を見る。


「アリスはアリスだよ。あの時と変わらない……いや、ちょっと大きくなったかな? うん、でも、可愛いらしい|女の子(・・・)だよ」


「そっか……ん、ちょっと待て。今女の子って言ったか?」


「うん、言ったよ」


「こんななりだが、オレは男だ。そこは間違えるな」


「どんななりでもアリスは女の子だよ?」


「違ーう! 俺は男なの!」


「……?」


 怒る有栖にチェシャ猫は訳が分からないといった顔をする。


「でもアリス、|猫(ぼく)から見たら君は女の子だよ?」


「そういう見た目してるだけなんだよ! 俺は正真正銘男なんだ!」


「うーん……」


 小首を傾げながら、チェシャ猫は有栖の肩から降りると、有栖のスカートの中を覗き込む。


「ぎゃっ!? 何してんだお前!?」


 思わずずるずると後ろに下がる有栖。


 小首を傾げたままのにんまりお口のチェシャ猫は有栖に言う。


「アリス、君はやっぱり女の子だよ」


「だから男だって――」


 そこまで言って、チェシャ猫が何をしていたのかを理解した。


 まさかと思い、有栖は自身の股を恐る恐るまさぐる。そして、さーっと顔を青褪めさせる。


「……無い」


「そうだね」


「なんで!?」


本来在るべきものが無い事を確認した有栖は面白いくらいに取り乱す。


「え、だ、だってオレ、こんな見た目だけど男だったんだぞ!? 在るはずだ! 無い方がおかしい!」


「|猫(ぼく)は良く分からないけど、きっとそういう事はよくあると思うんだ」


「そんな訳無いだろ!!」


 知らない間に自分の|あれ(・・)が無くなっているだなんて、そんな恐ろしい出来事あってたまるか。


 有栖はへなへなとその場に蹲り、力無く床に寝そべる。


「なんで無いんだぁ……」


「きっと、そういうものだったんだよ。あれだって、人の身体を離れたい時もあるさ」


「そんな時あってたまるか!!」


「そうかい?」


 小首を傾げながら、チェシャ猫は有栖の背中の上に乗る。


「それよりもアリス、|猫(ぼく)の話を聞いてほしいんだ」


「そんな事じゃない……」


 有栖にとっては重大事項だけれど、チェシャ猫にとっては重大な事ではない。むしろ、そういう事もあるよねといった様子だ。


「ともかくアリス。此処を出ようか。此処もそう安全じゃないからね」


「それはどういう意味だ?」


「此処にもそろそろ|御伽の住人(モブ)が来る。奴らは誰彼構わず襲うけど、|御伽の守護者(ワンダー)である君は誰よりも標的にされるからね。奴らに気付かれる前に、安全な場所まで逃げよう」


「もぶ……? わんだー……?」


「事情は落ち着いてから説明するよ。今はとにかく此処を離れよう。さぁ、立って」


「う、うん……」


 何がなんだか分からないけれど、此処が危険だという事は分かった有栖は立ち上がる。


 その際、チェシャ猫が一瞬消えて、有栖が立ち上がった時に有栖の肩の上に乗ったのだけれど、有栖はまったく気付いていない。


「それで、安全なところってどこなんだ?」


「|猫(ぼく)の鼻はそんなに信用ならないけど、人がいっぱいいるところは分かる。今はそこが安全だと思うよ」


「そっか。それで、その場所は?」


「さぁ?」


「さぁって……」


「大体の位置は分かるけど、細かい場所までは分からないんだ」


「なんだよそれ……」


 がっかりする有栖にチェシャ猫はさして申し訳なさそうな素振りもせずに、有栖に言う。


「案内は|猫(ぼく)がするよ。それじゃあ、行こうか」


「不安しか無いけど、分かった……」


 有栖は頷き、一先ずこの建物から出る事にした。


 建物から出ると、有栖は思わず己が目を疑った。


「なんだ、これ……」


 思わず、呆然と立ち尽くしてしまう有栖。


 それもそうだろう。何せ、一歩外に出れば、そこには荒れ果てた街並みが広がっていたのだから。


 お店のショーウィンドウは割れ、店内はまるで嵐が過ぎたように荒れ果てている。それはどのお店も変わらず、凄惨な|有様(ありさま)であった。


 街は閑散としており、人っ子一人見当たらない。


「いったい、何が……」


「それは後でだよ、アリス。今は逃げよう」


「あ、ああ……」


って、逃げる? 移動しようじゃ無く?


 チェシャ猫がそんな有栖の疑問を感じ取った訳では無いだろうけれど、にんまりお口を開いて言う。


「見つかっちゃったみたいだよ」


 そう言ってチェシャ猫が見つめる先。そこには、人が立っていた。


 ただの人、ではない。古びた服は何世代も昔に流行したであろう衣服で、現代人が着るにはどうにも羞恥心が勝ってしまうような見た目だった。


 ただ、華美ではなく、むしろ質素だと言えた。それでも、まるで|御伽噺の(・・・・)|中から出てきた(・・・・・・・)ような服は、普段着として着るには勇気がいるだろう。


 そんな現代ではまず見かけない服装の人物。しかし、違和感はそれだけではない。


「ひっ……!!」


 その者の顔を見た有栖は小さく悲鳴を上げてしまう。


 なにせ、その者には顔が無かったのだ。


 目、鼻、口、眉毛、そのどれもが無く、シミや黒子、頭蓋骨の|凹凸(おうとつ)もまるでなかった。


 のっぺらぼう。そんな妖怪の名前が頭をよぎる。


 有栖が訳も分からず恐怖で立ち竦んでいると、急に耳に痛みが走る。


「った……!!」


「アリス、怖いのは分かるけど今はお逃げ。ほら、早く」


「う、うん……!!」


 チェシャ猫が耳を噛んだ事に気付きながらも、その事については何も言わずに有栖は言われるがままに走った。


 |顔の無い者(ノーフェイス)はそんな有栖を追いかける。音も匂いも光も分からぬまま、ただ手探りをするように手を前にして。

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