第9話 貪欲の部下 国栖(くず)土蜘蛛との死闘②
「う……」
女性の呻きに呼応して、檸檬は用意していた塩水を含んだ布を絞り、そっと額に乗せたところだった。ピキと空気が揺れて目の前の宝珠が微動する。
「如意宝珠が割れた...?」
手を翳すと、微かに結界も震動しているように感じる。何が起こったのだろうと檸檬は腰を浮かせた。ところで、宝珠の表面の膜に小さな亀裂が入って、内側からピシピシとひよこが生まれるようにゆっくりと輪郭を消し始めた。
ひよこ……子音さまたちが戻られるのだろうか。
【僕は子だ。ひよこではないな。戻った】
「子音様! よくもご無事で」
【満身創痍だよ。内側から破り出る。少し離れたほうがいい】
――ローカーハ・サマスターハ……
サンスクリッドの文言とともに、子音の錫がぬっと出て来て、膜を裂くように上下に動いた。いくつもの次元の膜は錫に消されていき、あかあかとした炎を宿した朱雀の片目が見えた。ぞっとしたところで、子音は両手でその宝珠を引き裂き、ふわりと現世に舞い降りた。
天午の姿は見当たらない。
「天午はシャングリヤに還した。皮肉だが、意識体を通じてなら帰れるだろうから」
「シャングリヤですか」
「僕たちの概念が現存する世界だ。いつかはきみも行くことになるだろう。誰かの姫巫女として」
シャングリヤ……。
弟の顔で、言われても……と言い返そうとしたとき、女性の手のスマホがごとんと落ちた。子音は静かに近づくと、錫でそのスマホを拾い、手に掴んだ。チリ、と手に紫色の細い電流が巻き付いている。
「まだ、本体がいるな」
「浄火しますか? 炉の準備はしてあります」
「いや」
子音はスマホを落とすと、思い切り錫を振り上げた。(まさか)と思う前で「これでいい」と画面めがけて振り下ろした!
バキン!
画面が割れて、その隙間から蜘蛛のような糸があふれ出てくる。「くっ」子音は更に錫に力を込めて、ぐっと押し返した。錫に赤い糸が無数に見える。
「うわっ」
油断した子音に赤い糸が巻き付いた。
「この痴れ者蜘蛛が...!」
蜘蛛の糸はシュルシュルと集合し、綱のようになって子音を逆さ吊りにしようとした。部屋に蜘蛛の巣のような曼荼羅が編まれていく。
「子音さま! この糸燃えない!」
「粘液のせいだ...天午を送るのに霊力を...全力で燃やし落とす!」
熱量を上げた子音の熱風が頬にかかる。本当に子なのかと疑うほどに子音は炎をその身に宿し始めた。朱雀の姿がダブって見える。
その時風が吹き抜けた。
【「エーカム・サット・ヴィプラー・バフダー・ヴァダンティ」】
天午の流暢な声がして、今度は小さな風の刃が子音とその赤い呪の糸を切り飛ばして、スマホの中に吸い込まれた。朱雀になりかけた子音はくすりと口端を持ち上げる。
衣装を焼き焦がして、裸足で床に足を下ろした。
「余計なことを……死にかけが」
――俺は自意識が高い。従って礼は即座に還す。死んでもね。子音ちゃん――……
「終わりだ! 巣を全て燃してきた。ここに出て来たが運の尽きだ。国栖(くず)土蜘蛛!」
木々が燃え尽きた大地。ボロボロになった空間が浮かぶ。
『子音、おまえのせいだ。****が消えたのは……』
『探そう、幾星霜をかけようとも。そばにて尽力をする。生きていれば、きっと』
『ここであったが100年目? もう、闘いは無意味なんだ、天午』
『――共に、行こう。「ローカーハ・サマスターハ・スキノー・バヴァントゥ」
(生きとし生けるもの全て、世界の全てが幸せになりますよう)のままに』
ふたりが共に戦い続けた歴史が見える。それは国栖(くず)土蜘蛛が嫌がらせに見せたのか、緩んだ子音の心の隙間だったのかは分からなかった。
「小細工を弄するな、煩悩風情が。人とは違うぞ。俺たちがトラウマごときで心揺らぐわけないだろうが、とっくに昇華してる」
錫に炎と風の力が同時に巻き込まれて注ぎ込まれて行く。ボコ、と土色の毛むくじゃらの手が見えた。
子音はこれを待っていたのだろう。
「では、心おきなく」
一際高く掲げられた錫が金色の光を発した――。
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