第5話 気流遣いの迦楼羅 天午
「できましたよ。これで本当にいいんですか」
檸檬の手にはお膳がある。一汁三菜の場合の配膳の理想は、茶碗を左手前、汁椀を右手前、主菜を右奥に副菜を左奥、副々菜は中央奥が和食御前の習わしだ。
檸檬は自分の分と、干支神禰宜の分の食事を揃えたところだった。
「いつも悪いな、やあ、美味しそうだな」
しかし、その中身は。茶碗には炊き立てのご飯なはずが何もなし。汁椀には塩水、主菜には小松菜、副菜には豆腐、中央にも豆腐。つまり、豆腐と小松菜しかない。
「炊き立てご飯、美味しいのに」子音は「いや」といつもの口調でPCに魅入っている。
「ごはん、できましたが」
「ああ」
これでは朝食を食べないで新聞を読みふける親父である。やれやれと檸檬は自分の分の味噌汁を啜った。美味だ。本当はこういうあたたかいごはんを食べて欲しいが、子音はお茶以外は温かいものを好まない。
しかも、変わった食べ方をする。
彼は、じっと食材を見て、軽く小さく吸うだけだ。
「美味しいのに。少し食べませんか」と以前無理やりおにぎりを置いてみたが、もともと消化という概念がないらしく、ただ、きちんと食べた色合いにはなる。
「その後のウェブの状況を鴉を通じて見ていたんだ。SNSの被害も減ったようだ。何かあったのかと思ったら規制が始まったらしい。これはいい、煩悩魑魅魍魎も動けまいて」
「子音、それ喜んでいいんですか。退治するのでは」
「退治じゃない。消滅だ」
これだ。時折子音はぴしゃりとした物言いをする。檸檬は「食事」を終えた二人分の片づけを済ませると、部屋に引き上げた。
自分がこうして神社を継いですぐ、家族が消えた。代わりに干支神との出会いがあった。その日からずっと記帳を続けている。それももう最後のページで終わりそうだ。丁度ノートは余った御朱印帳を使っているから、紙が堅い。
「檸檬」
部屋に下がるとすぐにお呼びがかかる。やれやれと檸檬は腰を上げた。干支の巫女なので、禰宜には逆らえない。ちなみに、禰宜(ねぎ)とは神主よりも低いので、宮司で良いのではと思ったが、子音は「禰宜」と言って譲らない。
「妖気だ。造りざま、小きながら三層四層ならぬはなし。こは瘴気を恐るればなり」
妖気とは「瘴気」だ。子音は縁側に立ち、梅と桜の樹々をすっとさした。
「また迷い込んだかたがいるのでしょうか」
「魑魅魍魎にとって、祓われない意識体からの侵入は容易いだろうからね。外に出れば我々や神道において祓われる。煩悩のくせに知恵があるとは何事だよ」
子音は「いいかい」と空中に指を置いた。すると、そこに、まるまるとしたどんぐりが弐つ現れる。
「ひとつは、進化のどんぐり。ひとつは退化と欲のどんぐりだ。これは我々の世界ではチャクラというが、こちらでは神霊通力と言うらしいな。これを手にすると、煩悩風情でも賢くなる。その知恵を与えたのが……」
ず……
ずずず……
ずずずずず……。
大地が震動するような鳴動と、空には大きな黒い渦。巫女である檸檬にはとんでもない妖気だと分かる。まるで時空が引き裂かれるような。
「今度は何だ」
WEB小説の中の怨の炎龍、次はワーカホリックによる貪欲の権化、これでWEB魑魅魍魎は参回目になる。
ピタ。
空気の鳴動が止んだ。気がつくと、階段の上に人影が表れている。その手にはスマホが張り付いたように残っており、やはり血痕と、画面の罅、それに窪んだ眼は同じだった。
「わたし、見て来ます!」檸檬は慌てて袖を襷掛けにすると、階段の人影目指して駆けだした。頬にひらり、と何かが舞い降りる。
……桜……?
まだ弐月だ。もうすぐ節分である。桜など早過ぎる。
「『造りざま、小きながら三層四層ならぬはなし。こは瘴気を恐るればなり』かつての小説で書かれた言葉だ。俺が降ろしたんだったか」
え?
ザアアアアアアアア
手に透ける程の桜吹雪が激しく舞って、渦中の人物像をくっきりと映し出した。
背が高く、朝陽を浴びた輪郭は頼もしく見える。チリチリと輪郭に電磁波のような次元の揺らぎ。
子音が顕現した時に似ている。しかし楠木では無い。準備を済ませた桜の黒い枝が目についた。
「天午(てんま)……まだ子年だが何しに来たんだ」
「あれ? 午だと思ったのに。子音ちゃん、元気だった?」
炎が飛んできた。普段は穏やかな子音が手のひらから発したのだ。しかしそれは天午がすがさず張った大きな気流に巻き込まれて簡単に消えた。
「ち」と不愉快そうな子音の呻き。
「浄火の炎なんか投げつけるなよ。逆に煽りたくなる」
「ちゃん付はやめろと言っただろうが! そのお陰で僕は勘違いされているんだ! それに、浄火前に憑依の意識を眠らせるな」
「困っている人民は見過ごせん。初めまして。きみが、俺の巫女?」
どういうことなのか分からない檸檬の前に、影が傅いて、桜吹雪は遠く消えて行った。そこには、色黒の肌を晒して、黒髪を高く縛り上げた新たな干支神が顕現していたのだった。
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