第2話 赴任(Village Police)

「まつもとー、まつもと。」


プシューと大き目の音を立てて特急あずさのドアが開くと、ホームに女声アナウンスが響いた。僕は不格好に膨らんだシルバーのスーツケースを引きずりホームに滑り出た。先頭車両は、ちょうど出口階段の近くだった。


ホームに構えられた野菜の販売所を過ぎると、正面改札の奥に「がんばれ小平奈緒」と書かれた大きな垂れ幕が目に入った。


改札を抜けずに左に曲がり、在来線ホームへスーツケースを抱えて降りた。僕は少し色の剥げた木製のベンチに腰掛けると、「次の電車までは30分」と表示が出ていた。


周りに人がいないことを確かめ、僕はシャツの中に手を入れて背中をぼりぼりと掻いた。季節の変わり目は、どうにも背中がかゆくて仕方がなかった。


自動販売機で無糖のコーヒーを買い、座り直すと思わずため息が漏れた。


自分は本当に警察官になりたかったのか。

アルバムに残っていた幼稚園の七夕の写真に、「けいさつかんになれますように」と書かれた短冊が写っていた。小さいころからの夢だったのだろうが、安易にその道を目指しただけではなかったか。

思えばこれまで自分を熱くさせるものに出会ったことはなかった。趣味も、部活も、恋愛もすべてにおいて。「打ち込む」「熱心に取り組む」「好き」な「ふり」だけ上手になった気がする。警察官にならないといけない、と漠然とそれを目標にしていたように思う。


昨冬国家試験を通って先月までの3年間は、東京豊島区の交番に勤務した。池袋付近は酔客や国籍不明の外国人が多く、日々事件対応に追われていた。異動は4年周期が一般的だったので、あと一年は同じ場所で働くのだろうと漠然と考えていた。

先輩たちからようやく戦力として認められ始めたと感じるようになったタイミングでの移動は自分とっては不本意だった。なぜそうなったのか。失敗することは多々あったが、そのどれが直接的な原因となったのかは想像してもわからなかった。


先月発生した豊島区役所近くの新しいタワーマンションの最上階で起きた殺人事件の聞き込み調査を始めたばかりだった。犯人の足取りはつかめず、所轄の一員として僕は初めて大きな事件の合同会議に出席し、目撃者の聞き込みを行っていた。殺された飲食店のオーナーの関係者、交友関係を洗い、本部に報告する役目を担っていた。「自分は用無し」と、失格の烙印を押されたような気がした。



「カスミ村ですか?」

僕は上司に聞き返した。


長野には観光で訪れたことはあったが、その村の名前は聞いたことがなかった。赴任地は人口3,000人の農家中心の村ということだった。まさか池袋署から高齢者が多いであろう過疎の村に行かされるとは思いもしなかった。両親は長野出身だったはずだが、高校生の時に他界してしまい、詳しいことは聞いていなかった。僕は人生とは一つの必然の中で動いているものという自己哲学を持っていたので、そのご縁として受け止めるのも悪くないとは思うことにした。


「霞村:長野県にある人口3,000人の村。村民の平均年齢は35歳。レタスの産地として国内20%のシェアを誇る。村長の村上孝明は5年連続全国市町村組合の長を務めている。小中高一貫校の霞学校があり、学費や給食費、修学旅行費などすべてが村負担のため無料となっている。病院代やバス代も村民は無料と、社会福祉が充実しており、近年は東京都内からの移住希望者が多い。」


しばし時間を持て余しつつスマホの画面を見ていると、どうもその村は自分のイメージしていた元気のない高齢者だらけの村ではない様子だった。


「霞村か。」


最近気づいたが、いつのまにか独り言を言うようになっていた。それなりの大きさで声を発すため、人に聞かれたらあやしい人と思われる領域になっているのではと自認していた。自身の情けなさをごまかすために、声を出してうやむやにしようとしているのだろうか、、、。


ネガティブ思考は何も生み出さない。

とりあえずは明るく元気に、与えられた環境で精一杯過ごすこと。それしかないだろう。異動の理由なんて大した理由はない。全国25万人の中の春の異動の一つでしかない。警視庁から警察庁へ、しかも長野県警への異動は珍しいものではあったが。これもまた「縁」か。とつぶやいた。 

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