平和、安寧、中庸。
2024年10月23日
どうも、あじさいです。
前回は主張が強めで、政治家や政党を名指しで批判するような大それたことをしてしまったので、今回は平和な内容で行きます
――みたいなことを書く案が一瞬頭をよぎりましたが、その場合の「平和」って何なのでしょうね?
「カルガモの一家が道路を横断していたので、無事に渡れるように通りがかりの警察官が交通整理をしてあげました」
「○○動物園で○○の赤ちゃんが生まれました」
といったニュース動画のコメント欄を見ると、「平和だなぁ」、「こういう明るいニュースをもっと報じてほしい」などと書き込まれていますが、「平和」ってそういうことなんでしょうか?
以前エッセイに書いたように筆者(あじさい)は第1話の残酷描写でギブアップしましたが、人気アニメ『進撃の巨人』のOPでは「家畜の安寧」、「虚偽の繁栄」などと強い言葉が使われ、「死せる
漠然とした不安や違和感の正体を探ったり、歴史的な差別を自然な区別だと偽って我慢を強いる「空気」を打ち破ったり、世間の理不尽さや権力者の悪事に立ち向かったり、苦しみや悲しみを強いられた人々に共感して連帯したり――といった「面倒くさいこと」は、物語の登場人物だけがやっていれば良いのでしょうか?
疑惑の渦中にある政治家が何も言わない内から「疑惑」を否定することこそ、悪しき「忖度」であり、餌付けされた「家畜の安寧」と、いつ失われるとも分からない「虚偽の繁栄」に甘んじる態度ではないのでしょうか?
いや、いや、
もちろん、
筆者にしたところで、普段はニュースから遠ざかって、非生産的なスマホゲームやVTuberの雑談で時間を
現代人が知るべきこと、学ぶべきはあまりにも多いですし、この地球でかつて起こってきたこと、今まさに起こっている(起こっているかもしれない)こと、これから起こり得ることを、本当に全部ちゃんと考え始めたら、夜に眠るどころか食事も喉を通らなくなるでしょう。
たとえば、ロシアによるウクライナ侵略が始まった当初によく指摘されたことですが、東西陣営の大国が原因となった国際紛争・民族虐殺・無政府状態はそれ以前にも頻発していたにもかかわらず、この事件が例外的に大問題とされたのは、ウクライナが白人の国だからだと考えられます。
パレスチナで大量虐殺(ジェノサイド)を行っているイスラエルを、日本を含む先進国の諸政府が基本的には支持しているのも、パレスチナ人が白人でもキリスト教徒でもないから、という部分が大きいでしょう。
日本の国家安全保障にとって最も重要なことは常にアメリカが決めており、在日米軍の訓練が日本人の生命と基本的人権よりも優先されてきたという事実を文字通りに考えるなら、日本は国民主権の民主主義国家ではなく、そういう建前で一定程度の自治を認められているだけのアメリカの植民地と捉えた方が的確かもしれません。
世界はいまだに第一次世界大戦の頃と大差なく、白人が牛耳る“近代国家”群の中で、有色人種の我々は白人の猿真似をしながら、白人たちに認められようと駆けずり回っている――“庶民”はともかく、“白人国家”の政府高官たちはそういう見方を続けているという側面も、否定はできないような気がしてきます。
――今、筆者がそういった可能性や現実に対して真摯に向き合いながら全身全霊で諸問題の解決に取り組んでいるかと言われると、正直、決してそんなことはありません。
そんな人間が突然、取って付けたように「皆さん、もっと政治のことを考えましょうね」なんて叫んだところで、ちゃんちゃらおかしいと笑う人もいるとは思います。
とはいえ、それも悪いことばかりではないはずだ、と思います。
何も行動を起こさない善よりは何か行動を起こす偽善の方がマシ、という話に似てしまうかもしれませんが、筆者が言いたいのはどちらかと言うと、アリストテレスが説いた「
(※「近い」というのがポイントです。アリストテレスの思想そのままではなく、あくまで筆者あじさいの解釈だという点にご注意ください。)
やや無責任なことを言わせていただけば、筆者自身は(人間は全身全霊で道徳的であろうとするべきで、自由な理性が導き出した道徳律を破ったらそれはすなわち反道徳なのだという)カント主義の方が「好き」ではあります。
しかし、生身の人間として実生活を送っている立場として認めざるを得ないのは、倫理や正義に誠実であろうとがむしゃらになったところで、思わぬところで疲弊したり挫折したりして、かえって道徳的なあり方から遠ざかってしまいかねないということです。
自暴自棄になって全てを投げ出したり、そのせいで身近な人々に八つ当たりしたりするとしたら、道徳的/反道徳的どころの騒ぎではありません。
人間の身体や体力は有限ですし、人生は計画した通りにはなりません。
それは道徳的に生きることに関しても同じで、神ならぬ人間は論理以前に体力の面で、完全に倫理的な存在になれないのです。
ですから、中庸、つまり、何かの「徳」や「道」を一息に突き詰めようとするのではなく、自分の身の丈に合ったことを着実に、バランスよく積み重ねていく、そういう年月を大切にしようと考えることの方が、現実的であり堅実な生活態度と言えます。
話を戻しますと、取って付けたような印象になるとしても、人間がそれぞれに出来る範囲で機会を見つけて、社会や政治のあり方について考えたり意見表明をしたりすることは、決して偽善ではなく、それ自体として真っ当な「善」だという見方も可能なのではないか、ということです。
疲れたときはしっかり寝た方が良いし、ストレスが溜まったら誰かに愚痴って、何も考えたくないときはアホなゲームで気分転換しましょ。
どれだけ倫理や正義に情熱を燃やす人であっても、自らの人生経験や感受性が豊かになっていかないことには、立場が異なる他者に配慮し共感するための想像力や洞察力までも、麻痺させてしまうことになりかねないと思います。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
エッセイにせよ小説にせよ、主張が強いことを書いて掲載するときはいつもドキドキします。
石丸氏と自民党を名指しで批判するのも、掲載前はためらいました。
しかし、筆者が今まで発表してきた文章を振り返ったら、そんなのは今更だと思い当たりました。
都知事選の際は、小池氏や蓮舫氏について書くのはカクヨムの利用規約で禁止されている「政治的行為」にあたると思って遠慮しましたし、カクヨムという場を使わせてもらっている立場では、それは仕方なかったと今も思っています。
ただ、今のご時世に人間や社会について書こうと思ったら、仮に舞台を異世界に移したところで、現在の日本政治や日本社会のことを何かしら考え、何らかのポジションを取らざるを得ないとも思います。
小説はフィクション、虚構、嘘にすぎませんし、Web小説は何者でもないアマチュアが頼まれもしないのに趣味で書いているものですが、だからこそ、面白いもの、より良いものを書こうと真面目に考えたら、「今の社会はおかしい」(あるいは「今の社会は正しいのに、おかしなことで反対してくる人たちがいて困る」)ということを書かないわけにはいかないのです。
前回、執筆中の長編小説から一節を引用して、今の日本のヤバさをご確認いただきましたが、あえて言いましょう、政治や社会がヤバい状況にある中で(登場人物だけでなく)我々は何を考えるのか、ということを抜きにした小説など、毒にも薬にもならず、何も面白くありません。
絵画と同じで、人の手で作った虚構だからこそ、世界や人間の、美しさも醜さも、喜びも悲しみも、現実以上に克明に浮かび上がらせることができる、それが小説や文芸の良さだと思います。
それでも、名指しで批判するのは避けた方が良かったというご意見もあるかと思いますが、かつて書いた短編『単刀直入に申します!』のような、誰を批判しているか曖昧な風刺モノも、それはそれで罪深いというか、悪く言ってしまうと卑怯だなという思いがあって、このエッセイでは名指しで批判することにしました。
書き手の皆さんも筆者(あじさい)に続け! とは言いませんが、賛同できず♡を押さなかった読者の方々にも、何かしら考える材料を届けられていれば幸いです。
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