トランスジェンダーをめぐる論争。

2024年10月26日


 どうも、あじさいです。


 先日、遅ればせながら『世界』2024年10月号(発売は9月初旬)を開いたのですが、巻頭記事を読んでびっくりしました。

 パリ五輪の女子ボクシングの選手2人に対し、「本当は男だ」「実はトランスジェンダーだ」といったデマが流され、

「J・K・ローリング、イーロン・マスク、ドナルド・トランプ、ひろゆきなど、反トランス派で知られる著名人や保守右派が次々と両選手の性別に疑義を呈した」(李琴峰ことね「反トランスの魔女狩り」、『世界』2024年10月号、p.10)

 というのです。

 以前から、ハリポタの作者のローリング氏がトランスジェンダーを差別する発言をしているということで、エマ・ワトソン氏やダニエル・ラドクリフ氏ら映画版キャストからも批判されていることは筆者(あじさい)も知っていましたが、このメンツと同列に並べられるところまで来ちゃいましたか。


 率直なところ、「いつまでめてんだ?」と思います。

 筆者(あじさい)に言わせると、この論争は賛成派も反対派も論点がズレていて、「出発点が性的多元論なのに、着地点が性的二元論になっている」だけです。

 そこにさえ気付けばすぐ次の段階に進めます。

 ――だと思います。

 そのため、時間がてば本人たちでこの初歩的なミスに気付いて、第三の道に抜けていく形でおしまいになる、と予想していたのですが、何でしょうね、やっぱり筆者がおかしいんでしょうかね……。


 ともかく、筆者はこのエッセイに限らず、カクヨム生活の中で何度となくハリポタを絶賛してきた立場なので、もうぼちぼち筆者自身の考えをはっきりさせておくことにします。




「トランスジェンダーというのは、男なのに女子トイレや女湯に入りたがり、女子スポーツに出場して女をいじめる犯罪者だ」

 と信じている人も、どこまで一般的かは分かりませんが、いるにはいるので、最初に確認しておきたいと思いますが、変な人が混じっていたり、変な人がそうだと自称していたりするからと言って、その属性の人全体が同じように変だと結論付けることはできません。


 昔、凶悪な犯罪者の自宅からゲームやアニメのビデオが大量に出てきて、「オタクはみんな社会不適合者で、犯罪者予備軍なのだ」という、いま思うとアホの極みのような話が「社会の空気」になった時期がありました。

 今となってはオタクもだいぶ市民権を得てきましたが、「オタク(ヲタク)」という言葉にネガティブな印象を持つ人が今もいるとすれば、そのイメージはこの時期に作られたものです。

 当然ながら、ゲームファン、アニメファンの圧倒的多数は犯罪行為などせず真っ当に生きています。


 トランスジェンダーにしても、男性の性犯罪者が「自分は性自認が女性のトランスジェンダーだから、女子トイレや女湯に入る権利がある」と主張して罪をまぬがれようとするかもしれませんし、先天的なトランスジェンダーの何人かが軽率な犯罪行為に及ぶこともあるかもしれませんが、それは個々の犯罪者(あるいは犯罪を誘発する社会的要因)が悪いだけです。

 性自認が女性のトランスジェンダー(トランス女性)が悪いのでもなければ、シスジェンダー男性が悪いのでもありません。

 また、断片的な事例を引き合いに出して「トランスジェンダー(の大半)は後天的なものだ」と断じる人がいますが、仮に、トランスジェンダーと名乗っていた人の何人かが後になって「自分はそうではなかったかもしれない」と自己認識を訂正したからといって、自分をトランスジェンダーと位置付けている他の人々の境遇が全く同じだと推論することは、論理的に言ってできません。


 ちなみに、

「その理屈だと、フェミニストが男性による性犯罪を持ち出して男性全員を非難するのも不適切ということにならないか?」

 と思われるかもしれませんし、もしフェミニスト(仮)が「男はみんなクソ」とだけネットに書き込んでいるなら――感情の吐露としての重みは無視すべきではありませんが――、政治的・社会的な主張としては根拠薄弱です。

 しかしながら、ここで留意していただきたいのは、フェミニストやその議論の主な批判対象は、男性個々人ではなく、ジェンダー秩序や家父長制だということです。

 おそらく日本で最も有名なフェミニストである上野千鶴子教授の著書『ナショナリズムとジェンダー』や『女ぎらい』などでしばしば女性が批判対象になるのも、このことを表しています。

 一見すると男性全般を十把一絡げに非難しているように思える文章であっても、よくよく読むと、男性の犯罪者に欲望やストレスの発散方法としてセクハラや性暴力を選択させた社会構造や、性犯罪を矮小化したり被害者への配慮を欠いたりしている風潮の方を批判していることが多いと思います。




 さて、先ほど書いたように、筆者の考えでは、トランスジェンダーをめぐる論争は、「出発点が性的多元論なのに、着地点が性的二元論になっている」ところに問題があります。

 旧来的な男/女のどちらにも属さないトランスジェンダー(多元論)の話が出発点なのに、特定の設備や制度に関して彼女ら彼らを男/女のどちらに振り分けるか(二元論)の話に留まっているから、平行線になるのです。


 トイレは多目的トイレがありますし、銭湯は(どうしても問題になるなら)施設ごとにルールを変えて、男女ではなく股間の形で振り分けたり、いっそ混浴にしたり、全員水着着用にしたり、時間帯をずらしたり、宿泊施設なら共同浴場以外に浴室付きの個室を作ったりといったことで対処可能でしょう。


 トランスジェンダーをめぐる論争の中でも特に銭湯の話は、過熱している割には、賛否どちらも論点が少しズレているように思います。

 だって、人間にとって「風呂に入ること」や「入浴施設の利用を拒否されないこと」は権利かもしれませんが、「入浴中に同性のはだかを見ること」や「裸の同性と同じ湯船にかること」の方は、権利でも何でもないわけじゃないですか。

 もちろん、人種や民族で「あの人たちと同じ風呂に入りたくない」とか言い始めたら差別ですが、「他人の男性的な身体を見せられたくない」、「自分の裸を、男性的な身体の他人に見られたくない」という女性の要望は、差別ではなくむしろ権利として尊重されるべきものでしょう。

 裸を見せ合うことが問題になるのですから、見せ合わないように、別々に入浴すればいいだけ、ではないでしょうか。


 社会分断が進むと相互不信が強くなって、意外と忘れられがちですが、普通、人間は身の丈に合った日常を平穏に生きることを望んでいるものです。

 面白半分に他人に迷惑を掛けようとする人はいても、それは周りが見えていなかったり、他人に甘えていたりするからです(コンビニや飲食店の店員に横柄な客は、この店員にならイライラをぶつけても許されるだろうと思って甘えているのです)。

 他人に興味がない人も、あえて人に嫌われようとはしませんし、特に、自分が属するカテゴリー全体への差別や憎悪を強めるような面倒事は(これといった理由がなければ)避けようとするものです。

 ということで、あえて女湯に入って騒ぎを起こしているのは、トランスジェンダー女性ではなくシスジェンダー男性の性犯罪者だと断定してしまって良いように思います。




 スポーツに関しては、男女をほとんど唯一の線引きにする考え方をやめて、他の新しい基準――詳しい検討は有識者にお任せしたいですが、たとえば体重、身長、体脂肪率、テストステロンの量など――を設定する手はないのかな、と思います。

 まあ、近年、大規模なスポーツ大会はすっかり金儲かねもうけの道具になってしまった感があるので、根幹のシステムを全面的に大改編するなんて無茶が、そう簡単に通るわけはありません。

 でもね……、改めて考えてみると不合理なルールや慣習も多い気がします。

 たとえば甲子園も、女子選手が伸び伸び競技できるように男子とは部門を分けていると言えば聞こえがいいですが、女子選手が男子選手と同じ大会に出場するというのは、変な話じゃありませんか?

 試合には出なくてもベンチ入りしているキャプテンがいるくらいですし、男子選手と同じ大会を目指して共に練習する女子選手がいてもいいんじゃないでしょうか。

 もちろん、男女平等・ジェンダーフリーのためにスポーツの女子部門を廃止しろ、と言いたいのではありません。

 ただ、「男子が相手ならともかく、同じ女子なんだから、良い勝負ができるはず」という考え方を、男女で分ける以外の分け方をのは、果たして選手のことを本当にちゃんと考えているのか、という気はします。




 まとめますと、まずは「出発点が性的多元論なのに、着地点が性的二元論になっている」事態から抜け出して、(中長期的には)既存の設備や制度を変えていくことを視野に入れること。

 そして、「この人は××というカテゴリーだから、ここに振り分けておけばもう文句ないだろ」ということを、当事者不在で「上から」決めてしまわずに、より良い設備や制度の形を、断続的なコミュニケーションによって模索もさくしていくこと。

 この2点が、トランスジェンダーをめぐる論争を前に進めるために重要になってくると思います。




 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


 今回、執筆の段階ではいくつかの本や雑誌を引用することも考えていましたが、そうなると文字数がかなり多くなるぞ、書くのも大変だぞ、ということで、このような形に収まりました。

 以下、大学のレポートに使うにしても心許こころもとないものが多いですが、参考資料として引用していたかもしれないものをご紹介させていただきます。


・井谷聡子(2024)「トランス排除の潮流 脅かされているのは「女子スポーツ」ではない」、『世界』2024年7月号、岩波書店、pp.59-66。

・上野千鶴子(1998)『ナショナリズムとジェンダー』、青土社。

・上野千鶴子(2018)『女ぎらい ニッポンのミソジニー』、朝日文庫(朝日新聞出版)。

・鈴木大介(2023)『ネット右翼になった父』、講談社現代新書(講談社)。

・高井ゆと里編(2024)『トランスジェンダーと性別変更 これまでとこれから』、岩波ブックレット(岩波書店)。

・森山至貴(2017)『LGBTを読みとく クィア・スタディーズ入門』、ちくま新書(筑摩書房)。

・好井裕明(2015)『差別の現在 ヘイトスピーチのある日常から考える』、平凡社新書(平凡社)。

・吉田徹、白井聡、藤井聡、柴山桂太、浜崎洋介、川端祐一郎(2024)「日本において「保守政治」は可能か?」、『表現者クライテリオン』2024年7月号、啓文社書房、pp.16-42。※賛同しかねる内容が含まれています。

・李琴峰(2024)「反トランスの魔女狩り」、『世界』2024年10月号、岩波書店、pp.10-11。


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