『カラマーゾフの兄弟』、読みました。

2023年02月03日


 どうも、あじさいです。


 読み終わりましたよ、『カラマーゾフの兄弟』。


 何の参考にもなりませんが、筆者が読み切るのにかかった時間は、上巻に1週間、中巻に2週間、下巻に5日ほどでした。

 中巻に時間がかかったのは単に実生活が忙しかったせいで、内容がつまらなかったとか、読みにくかったとかではありません。

 1冊につき1週間かけているのは遅いと思われるかもしれませんが、筆者は大学時代にも1冊の小説を読むのに2~3日かかることが多かったので、本作の厚さを考えるとむしろちょっと早いくらいです。


 本作『カラマーゾフの兄弟』については、人類史上屈指の傑作文学であるとか、「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある」(ヴォネガットの小説『スローターハウス5』より)とか、色々言われている一方、読みにくい本としても知られています。

 その神髄を理解してもいないくせに「最後まで文字を追った」というたった1点でマウントを取りにくる人間の講釈なんぞ、皆さんは耳に入れたくないかもしれませんが、読んでいく中でいくつかの印象があったので、これが筆者の新たな黒歴史になりそうなのを承知の上で、本作について少々書かせていただきたいと思います。




 前回の記事にも書いたことですが、本書を読むときは、「ひとまず作中の事実や会話文について、『それら一つひとつが生身の人間によって繰り広げられている現実である』という観点で読み進めていくことが肝心なように思います」。


 本作の主な登場人物が紹介されるとき、

・父フョードルは好色なろくでなし

・長男ドミートリー(愛称:ミーチャ)は同じく好色な乱暴者

・次男イワンは冷笑的な無神論者

・三男アレクセイ(愛称:アリョーシャ)は敬虔なキリスト教徒

 などといった分かりやすい図式がよく提示されますが、筆者の考えでは、ひとまずそういう先入観は捨てるべきです。

 本作で描かれている人物を「要するにこういうキャラ」、「こういう理念や生き方を体現しているキャラ」として見ようとする限り、本作は冗長で、キャラ設定が分かりづらく、矛盾や不明点が多い奇怪な話にしかならないと思います。

 実際、そのせいで多くの人が序盤で挫折しているのだと思います。


 「この人物は要するにこういうキャラだ」というのは、後世の文学研究者やそれに類する人が勝手に言っていることです。

 作品内の記述や発言を見ていくと、どの人物もそう簡単に割り切れる存在ではありません。

 我々が生きる現実世界においても、表面的なイメージで「こういう人だ」と思われていた人物に、状況や環境の変化によってあらわになる第2、第3の顔があったということはよくあります。

 そして、多くの人は1つの抽象的な信念や1つの社会的な傾向を体現するべく生きているわけではなく、それぞれに矛盾や葛藤かっとうを抱えているものです。

 ある局面では「科学的根拠がない宗教に傾倒するなんてどうかしている」と公言する自称・無神論者も、「石にたましいが宿るなんて科学的じゃない」との理由で他人様ひとさま墓石はかいしを盗んで建築資材にしようとする人間を前にしたら、少なくとも一旦は止めようとするはずです。

 また、「この宇宙を作ったのは神様だなんて信じているのは、宗教を妄信するバカだけだ」と言ってはばからない人々が、自身が支持するビッグバン宇宙論の理論的根拠や歴史を何も知らなかった、すなわち、その人は「世間」と「科学」を妄信していたにすぎない、というのもよくある話です(映画『最高の人生の見つけ方』より。ちなみに、そういうことは筆者も知りません)。

 本作『カラマーゾフの兄弟』を読むときにも、それぞれの人物がそれぞれに矛盾や葛藤を抱えている可能性を念頭におく必要があるように思います。


 そもそも人間というものは、原因としての感情や観念があって、実際の言動という結果を導くわけではありません。

 仮にそういう因果関係が成立する場合があるにしても、常にそうだとは限りません。

 漠然ばくぜんとしたイメージを言語化し、行動を具体的に選び取っていく中で、「あ、私はこういう考えを持っていたのか」、「私の中にはこんな切実な感情があったのか」と気付いたり、「いや、私が言いたいのはこういうことじゃない」、「どうして私は言いたいことを上手く伝えられないんだ」と、もどかしさを感じたりするものです。

 本作『カラマーゾフの兄弟』においても、それぞれの台詞や会話は、シナリオの都合で無駄に長くなっているのではなく、その中にそれぞれの人物のとっさの判断や、感情・価値観・思想など内面の揺れ動きがあるものととらえていく必要があります。


 やたら長い会話文を見ると、「この人は結局のところ何が言いたいんだろう?」と考えて、効率的に理解しようと、流し読みをしてしまいそうになるかもしれませんが、グッとこらえて、一言一句を丁寧に拾い上げ、それぞれの言葉を発するに至った「人間の心」に、思いをせていただければと思います。




 そして、本作『カラマーゾフの兄弟』を読むときもう1つ注意していただきたいのが、この作品におけるロシア社会が前提としている倫理観(=道徳についての考え方)です。

 一般的に、本作を読むには作者ドストエフスキーの生涯だとか、キリスト教の神学的な論争だとかを知っておく必要がある、と思われているようですが、筆者はむしろそこよりも、時代背景となる倫理観の方が重要だ、と思います。

 これは別に、登場人物たちが現代日本の我々よりも善良な人間たちだという話ではなく、彼ら彼女らが前提として思い描いている「世間」が、我々が普段思い描くよりも高水準で厳格な道徳性を、人間一般に対して求めていた、ということです。


 21世紀に生きる我々はTVドラマやライトノベルなどに触れることによって、現実的な出来事としてはあまりにも非人道的、あまりにもショッキング、あまりにも非情なはずの事象に対して、フィクションだと割り切る習慣ができてしまっています。

 そのため、虐待・暴力・不倫・殺人・病気・死別などを、現実ではともかく創作物の出来事としては「よくある話」、「そういうパターン」、「お涙ちょうだい」くらいにしか思わない節があると思います。


 たとえば、青少年向けの漫画には、高校生でありながら両親が家に居なかったり亡くなったりしているのに、「親なんて居ても邪魔なだけだ」くらいのテンションで一人暮らしをしている主人公(多くは男子)がいますね。

 幾度となく殺人現場に居合わせておきながら、何も覚えていないかのようにケロッとした顔で日常を生きている高校生がいて、周りの人々もそのことに全く疑問を抱いていない、という作品もあります。

 もう少し日常的なものでも、冗談半分で友人相手に「バカ」、「アホ」、「死ね」などの乱暴な言葉を使ったり、親しくない人や嫌っている人を「ハゲ」、「ヒゲ」、「クソおやじ」、「ばばあ」、「淫乱」、「ビッチ(メス犬。あばずれ女)」などと見下したりするキャラクターが、珍しいとは言えなくなりつつあるようです。


 しかし、『カラマーゾフの兄弟』が書かれた時代は、そういう、悪い意味でマンガ的な創作物が氾濫はんらんしている時代ではありません。

 このような感覚のずれは、作者ドストエフスキーの責任や技量の問題ではないので、読者である我々の側でみ取っていく必要があります。


 また、21世紀の日本では、「普段は嫌い合っていても、親子の間には切っても切れないきずながある」とか、「みんなにとってどうでもいいことであっても自分が自分であるためには、ゆずってはならない信念がある」といった考え方は、前時代的で抑圧的で非合理的なものと見なされつつあると思います。

 実際のところ、現代日本を生き抜くためには、そういう批判精神を持つことも大切です。

 ただ、『カラマーゾフの兄弟』を読むときには、そこで描かれるロシア社会が現代日本とは違い、一般論として親子関係や個人の良心に対して期待を寄せていたということ、そして、そういう期待が近代化・産業化・ヨーロッパ化や、無神論・虚無主義ニヒリズム・社会主義などによって相対化されつつある状況に、少なからぬ人々が警戒感を持っていたということに、注意する必要があると思います。

 良いか悪いかは別として、人間それぞれが数ある選択肢の中から自らの生き方や信念を選ぶことを自己の存在証明としていた時代、「精神的に向上心のない者はバカ」というフレーズが個人のアイデンティティを揺るがし得た時代、若者が「自分のすべきこと」よりも「自分のしたいこと」を優先するなどと(近年のJ-POPやロックのように)宣言すれば「ちるところまで堕ちた」と言われていた時代が、たしかにあったわけで、『カラマーゾフの兄弟』におけるロシア社会や世間も、少なくとも建前上はそういう倫理観で動いています。


 繰り返しになりますが、それぞれの登場人物たちが、現代日本の我々よりも高尚で上品で善良な人間だという話ではありません。

 作中世界における一般論として「道徳」や「倫理」という言葉が(ついでに言えば「伝統」や「秩序」なども)、我々のような現代日本人がイメージするよりもずっとずっと重い意味を持っていたということであり、ドストエフスキーが想定していた(ロシアの)読者も、全面的にではないにせよ部分的には、その感覚を共有しながら本作を読んでいたに違いない、ということです。




 端的に言ってしまいますと、筆者が言いたいことは要するに、我々が現代日本人としての感覚そのままで見てしまうと、『カラマーゾフの兄弟』の序盤は特に何の事件も起こってないように読めてしまうと思いますが、上に述べてきたような具合に登場人物たちの人間性や時代背景を考えながら読むと、そこに描かれている数々のスキャンダルや事件、そして登場人物たちそれぞれが抱えている、爆弾のような矛盾や葛藤が、鮮烈せんれつな人間ドラマとして立ち現れてくるに違いない、ということです。


 もちろん、それだけでは解消できない読みにくさも結構あるのですが、ここでそれを言ってしまうと、皆さんが本作を読もうとしたときにそれらの欠点ばかりが目についてしまうでしょうから、具体的な言及は控えさせていただきます。

 ただ、1点だけ申し上げるなら、どんなに長い段落があっても、段落の途中で読書を中断するのは避けた方が良いと思います。

 段落が続いているということは発言者が一息に語っているということであり、熱が続いているということなので、その熱量(情熱、勢い)は、なるべくそのままの形で受け取った方が良いです。




 何かの本をすすめる場合、「その前にこれを読んでおくといい」などと言うのは逆効果であることは筆者にも分かっていますが、一応そういうたぐいの紹介もさせていただきますと、『カラマーゾフの兄弟』の前に遠藤周作の小説『沈黙』を読んでおくとよいかもしれません。

 キリスト教についての理解が深まるかは分かりませんが、宗教の問題がそれを信じる人々にとってどれだけ重大かを体感するには良い本だと思います。

 筆者は高校時代、ニーチェ的な無神論に傾倒していた時期がありますが、高校3年の夏に『沈黙』を読んで、他人様の信仰心をむやみに否定してはいけない、との(ある意味で当然の)気付きを得ました。


 すでに申し上げた通り、『カラマーゾフの兄弟』を読むとき、キリスト教についての神学的な知識はさほど重要ではないと思いますが、どうしても不安だという方には、三浦綾子氏の『旧約聖書入門』、『新約聖書入門』をお薦めします。

 キリスト教は世界宗教なので、書店やネットには「キリスト教は矛盾だらけ」、「キリスト教はこんなにもおかしい」といった、キリスト教徒の方々を嘲笑ちょうしょうする気満々の本や動画が多いですが、筆者の考えでは、そういうものは悪趣味な娯楽の域を出ません。

 筆者はキリスト教徒ではありませんが、キリスト教についてきちんと理解したいなら、最初から冷笑するつもりで揚げ足取りをするような連中ではなく、心からキリスト教を信じている人、あるいは心から信じたがっている人に話を聴くべきですし、宗教や文化に関してはそれが最低限の作法だと思います。

 日本で信じられているキリスト教は主にプロテスタント、しかも日本独自の形に変質したものであり、『カラマーゾフの兄弟』で登場人物たちが前提にしているロシア正教とは違っている部分も多いのですが、聖書に何が書かれているか(そして当事者のキリスト教徒がそれらをどうとらえているか)を、何も知らない状況から何となくでもつかんでいこうと思うなら、ひとまずこの三浦綾子氏の入門書が良いと思います。




 すっかり長くなりましたね。

 『カラマーゾフの兄弟』の魅力はまだまだ語り尽くせないですが、この辺りにしておきましょうか。


 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 それでは、またお会いしましょう。

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