2023年

『はてしない物語』はいいぞ、というお話。

2023年02月01日


 どうも、あじさいです。


 今更と言えばそうなのですが、先月1月の初め、ようやくのことでエンデの『はてしない物語』に着手しました。

 読み始めてみると面白くて、上下巻を3日ほどで読破しました。

 その後、現在に至るまでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に取り組んでおりまして、先週末、新潮文庫版(原卓也訳)全3巻の2巻(「第九編 予審」の終わりまで)を読み終えました。


 おそらく今回、文体がそれらの作品に引っ張られて、Web掲載のエッセイとしては読みにくくなっていると思います。

 すみません。




 『はてしない物語』を読んだのは、カクヨムで懇意にさせていただいている複数の書き手さんが、この作品に影響を受けたとおっしゃっていたからです。

 筆者はたしか小学生のときに映画版(『ネバーエンディング・ストーリー』)を見たのですが、「少年が白い竜にまたがって空を飛ぶ」ことと、誰かが砂漠のような場所を歩いていたこと以外は、ほとんど何も覚えていない状態でした。

 しかし、今回原作小説を読んで、この作品の映画化に取り組んだ方々の情熱に尊敬の念を抱きながらも、「これを映像化するのは、どう考えても無謀だろう」と思いました。


 めちゃくちゃ面白かった――と言うと、未読の方々の心理的ハードルをむやみに上げてしまうだけでしょうし、実際のところ、Web小説のように簡潔、あるいは文字数を削るために情報が不足気味な文章に慣れてしまうと、冗長に思ってしまいそうな細かい描写も所々にあるのですが――、ともかく、かなり巧みに作り込まれた児童文学でした。

 そして、良い小説の必然的な帰結として、視覚的・聴覚的イメージとは別次元の、文章表現というフィールドでの面白さを追求したものに仕上がっていました。

 映画化したいと考えた人々の情熱も、出来上がった映画版も否定するつもりはありませんが、この作品を語る場合、ひとまず文章で読んでみないことには、どうにもならないと思います。


 比較するのもおこがましいですが、筆者が流行のテンプレ系異世界ファンタジーWeb小説(ナーロッパ作品)を批判するために拙作『ようこそ、ナーロッパ劇団へ』に書いたことのは、40年以上も前にドイツで発表されたこの『はてしない物語』の中に、もっとずっと洗練された形で、読者の好奇心と良心をもっとずっと的確に刺激する形で描き出されていたのだと、感動さえ覚えました。

 そして、読んでいる最中、この歳になるまでこの作品を知らずにいた自分が恥ずかしくてなりませんでした。


 実のところ、拙作『ナーロッパ劇団』を書いたとき、筆者はとある心配をしていました――このまま「なろう系」と呼ばれる、ファンタジーもどきのゲーム的異世界を舞台とした創作物が流行し続ければ、いずれ日本の文芸やアニメーションはそれに毒されて品性と良心を失ってしまうのではないか、という心配です。

 しかし、『はてしない物語』を読んで、この作品がまがりなりにも名作として今なお話題にされること、ついでに言えば、声優の緒方恵美さんが朗読もなさっているということを知って、それが杞憂だった――日本の読書家の方々には(当然ながら)品性も良心も残っていたのだ――ということを知りました。


 あえて言いますが、2023年1月までにコミカライズされたなろう系作品を1000作読むよりも、『はてしない物語』1作を読む方が、よほど充実感を得られると思いますし、今の時代に大の大人が読むべきファンタジーがあるとしたら、それは間違いなくなろう系ではなくこちらだと思います。

 なろう系が執拗なまでに提供し続けている、幼稚で偏狭で短絡的な(時には差別的な)創作世界に引き籠ろうとしている方々に出くわしたときは、エンデの『はてしない物語』、この1作さえ提示しておけば大丈夫です。


 それと、これは蛇足かもしれませんが、2007年のアメリカ映画(日本では2008年公開)で『テラビシアにかける橋』という作品があって、筆者はVTuberのNe.Mo.42さんの動画で知ってこれを見たのですが、この映画を見る前にエンデの『はてしない物語』を読んでおくと、映画に対する理解度が上がる気がします。

 逆に言うと、『テラビシアにかける橋』の魅力がいまいち腑に落ちなかった方も、『はてしない物語』を読んでみると、違った見方ができると思います。

 筆者自身、良い映画とは思いつつ「あまり万人受けしなさそうな部分もあるな」と思っていたのですが、『はてしない物語』を読むことで、「ああ、あれはそういうことだったのか」と納得できました。


 ファンタジー小説を書こうという方々だけでなく、いわゆる読み専の皆さんが読んでも興味深い作品なのは間違いありませんから、エンデの『はてしない物語』、未読なら是非お手に取っていただければと思います。




 この作品に続いてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み始めたのも、カクヨムで知り合った方がエッセイで絶賛なさっていたことがきっかけですが、『はてしない物語』以上に、前々から興味はありました。

 高校時代に挑戦したときは、「第六編 ロシアの修道僧」の終わりまで読んで挫折ざせつしました。

 このときの印象では、序盤がかなり退屈、やっと話が動き始めたと思ったらゴタゴタ話し合って(兄弟の父フョードルがコニャックなる酒をやたら飲んでいて)、そうこうしている内に主人公アリョーシャの前で兄のイワンと師匠のゾシマ長老がそれぞれに長話を始めた、くらいにしかとらえていませんでした。

 ですが、あれから予備校と大学で勉強をしたおかげか、年とともに社会経験を重ねたせいなのか何なのか、いま読んでみると、序盤を含めて退屈だなんてことは全然ありません。

 最初に言った通り筆者はまだ全編を読み終えていないので、そこは差し引いて考えてほしいですが、読むときのコツさえ掴めば、ほぼ全編を通してかなり面白いと思います。

 たしかに、世界的に認められた古典文学であり、NHKの『100分de名著』で紹介されたときにも「4つの層」がどうのと言われていたので、文学批評的な難しいことを色々考えないといけないのかと身構えてしまいますし、実際、そういう読み方ができるに越したことはないと思います。

 ですが、おそらく(あくまで何者でもない筆者が言う「おそらく」ですが)作者のドストエフスキーはこの作品のエンタメ性を放棄していなかったような気がします(この点は夏目漱石と似ていると言って良いかもしれません)。

 世の中には、芸術家を気取ってふんぞり返り、「俺様の小説を理解できないのは貴様らに教養と感受性がないからだ」とか「作品に込めたテーマを簡潔な言葉で言い換えられるようなら最初から小説なんぞ書かない」などと開き直るような「純文学者」もいると思いますが、筆者の見るところ、ドストエフスキーは読者に対してマニアックな前提知識や、複雑で精緻な批評能力などは求めていなかったのではないか、ということです。


 長くなりますし、筆者ごときが書き連ねても駄文にしかならないことは目に見えていますので、『カラマーゾフの兄弟』を読んだ感想の詳細は、書くとしてもまた日を改めて、作品全編を読み終えたときにさせていただきたいと思います。

 ただ、ひとまず言えることは、この作品を読むときは、(20世紀以降のTVドラマやライトノベルに親しんでいる人ほど難しいかもしれませんが、)ひとまず作中の事実や会話文について、「それら一つひとつが生身の人間によって繰り広げられている現実である」という観点で読み進めていくことが肝心なように思います。




 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 それでは、またお会いしましょう。

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