質問!フォルマリズム。

2020年7月16日


 どうも、あじさいです。


 皆さんは、2011年のR-1グランプリで準優勝した AMEMIYAアメミヤ というお笑い芸人を覚えていらっしゃるでしょうか。

 彼はギターを弾きながら歌ネタを繰り出すピン芸人で、『冷やし中華はじめました』が最も有名です。

 筆者は今でもちょくちょく彼の歌を聞くのですが、改めて考えてみると、物語としては不幸なはずなのに笑ってしまう、その心理的なプロセスは我ながらよく分かりません。

 お笑いは奥が深いですね。


 ところで、彼を含む芸人のネタでは基本的に言葉が重要な役割を果たしていますよね。

 お笑いは演劇や映画以上にその瞬間ごとの言葉選びが重要な分野だと考えることも可能だと思いますが、こういうものも定義によっては「文芸」に含まれるものなのでしょうか?

 谷川俊太郎の詩「わたし」や「いるか」がロシア・フォルマリズム的な観点から文学として価値を認められるなら、より多くの人をより楽しい気分にしたであろう「PPAP」や「ラッスンゴレライ」に対してだって文学理論を使った批評が試みられても良さそうなものですが、専門家がそういうことをしたという話は聞かないんですよね。

 もちろん、この世の大抵の物事には熱中する人がいるのが世界史の法則なので、おそらく日本にも1人か2人くらいはお笑いについて何らかの文章を書いた専門家がいると思います。

 ただ、もしそういう人が多数いて様々な学説が飛び交っているなら Twitter 民が放っておくはずがないので、とりあえず数は多くないのでしょう。

 どうせ専門家の多くは、「庶民はアホだから気づいていないが、お笑い芸人のネタより谷川俊太郎の詩の方が人をにするし、そう考えるのがなあり方だ。バラエティ番組を見て大笑いするなんてサルブタのすることだ」くらいに思っているのでしょう。




 専門家への嫌悪感で心がどす黒くなる前に、ロシア・フォルマリズムと異化作用の話の続きをしていきたいと思います。


 前回に引き続き、『超入門!現代文学理論講座』(ちくまプリマー新書、2015年。以下、「本書」と言えばこの本を指すものとします)に沿って話を進めます。

 ロシア・フォルマリズムは文学作品を作者や時代背景から切り離し、作品としての物質的マテリアルなありようのみに注目しようとする、ロシア発祥の形式主義フォルマリズムです。

 特に、ある種の文章が持つ異化作用に価値を見出します。

 異化作用とは、「見慣れすぎて気にも留めなくなった事物を、まるで見慣れないもの(異物)であるかのように意識し直させる働き」のことです。

 異化作用という概念を使ったときに面白さ(の一部)をうまく表現できる作品の具体例としては、文学だと夏目漱石の『吾輩は猫である』、現代アートだとデュシャンの『泉』などがあります。

 しかし、このロシア・フォルマリズムという考え方には、「作品の異化作用を読み取るためには作者や時代背景といった要素を考慮に入れる必要があり、その意味でロシア・フォルマリズムは矛盾を抱えているのではないか」という批判が考えられます。




 本書は、亀井先生(本書の監修者)と蓼沼たでぬま先生(本書の著者)によって作られた「カメイ先生」なる架空かくうの人物が講義として読者に語りかける形式を採用していますが、カメイ先生はロシア・フォルマリズムについて一通り説明した後、読者として想定される聴講者からの質問に答えています。

 2つの質問が扱われますが、その内の1つがまさに筆者の疑問と同じものだったので、ここではそちらを紹介します(文字数の都合もあるので、もうひとつの質問はカットさせていただきます)。

 以下にそのやり取りを抜き出します。

 先に言っておくと、聴講者の質問はともかく、カメイ先生の返答はあまり分かりやすくありません。


――――

 (※引用者注:聴講者の質問:)〈異化作用〉というのは、実は前の時代や同時代の「約束」を熟知していないと理解出来ないわけで、だとすると、ある限られた集団、例えば研究者のような人たちには意味を持つでしょうが、そういう知識を持たない人たちにとっては、〈異化〉そのものが実感されないのではないでしょうか。

 (※引用者注:カメイ先生の返答:)その通りです。〈ロシア・フォルマリズム〉の理論というのは、先行する文学や同時代文学に関して、一定の知識を備えた言わば専門家の理論でしかないのではないか、そういう疑問がこの理論の再評価にともなって起こってきました。その点デュシャンは、同じ〈異化〉という視点に立つものの、取り上げたのは私たちの身の回りにある日常的な既製品でした。それだけに彼の「レディ・メイド」たちは(※引用者注:既製品のことを英語では ready-made goods と言います)強いインパクトを持ち、20世紀の芸術に大きな影響を与えることになったと言えるでしょう。

 しかしむしろいま問題なのは、〈異化作用〉ということばだけが一般化してしまい、単にそれを狙っててらっただけの作品が量産され、もはや何のインパクトも与えなくなってしまっているということです。しかも一方で、それらの作品の意味や価値を論じようとする場合、相変わらず作家の生活や、作家自身が社会に対しどのようにコミットしているかという視点に立った、旧来の批評方法を踏襲とうしゅうしてしまっている。

 その意味でいま本当に必要なのは、そういうあり方をまるごと〈異化〉してしまうような表現と論理なのだと思います。

(pp.60-61。ただし、漢数字の一部をアラビア数字に改めました。)

――――


 ここで「この理論の再評価に伴って」と言っているのは、ロシア・フォルマリズムが、誕生した1920年前後にはあまり好意的に評価されていなかったからです。

 本書によると、ロシア革命が起こって共産主義者が権力を握ったことが関係しているそうなのですが、ちょっと説明が曖昧あいまいだと感じられるので、ここでは端折はしょります。


 とりあえず、「その通りです」というのが聴講者の質問(および筆者の疑問)に対する答えです。

 ロシア・フォルマリズム的な読み方には限界があり、作品の異化作用をきちんと読み取るためには、作者や時代背景を考慮に入れなければならないのではないか、という批判は昔からあったようです。


 カメイ先生はこの後、「その点デュシャンは上手くやって、専門家以外の人々からも注目されることに成功した」という話をしてから、昨今の文芸をめぐる状況への不満を述べています。

 彼の不満をざっくり要約すると、次のようになります。


「ロシア・フォルマリズムをめぐっては、理論としての限界よりも大きな問題が2つある。

 1つは、読者にそういう読み方を要求できるほどインパクトのある作品が書かれなくなっていること。

 もうひとつは、専門家を含む読者もそういう読み方にチャレンジしなくなっていることだ。

 誰かもっと良い作品を書いてこの状況を変えてくれないかなぁ」




 本書は「超入門」、しかも新書なので、カメイ先生の返答がやや言葉足らずと思えることや論点がずらされていることを本気で批判するのは、とりあえず別の機会にゆずっておきましょう。

 その上で、先生のコメントをヒントに、筆者なりに考えてみることにします。


 改めて考えてみて気づくのは、そもそも文学理論はとしては考案されていないのではないかということです。

 以前のエッセイで、文学理論はどうやら「そのままでは(理論なしの状態では)『何となく』に頼って上手く言葉にできなかったり、そもそも気付かなかったりする文学作品の魅力や違和感について、深く考え、みんなに分かりやすく説明するのに役立つ考え方」と言えそうだ、という話をさせていただきましたが、それを思い出してください。

 これが意味するところはつまり、「それまでにない読み方」を提案して、それが文学作品の「それまで注目されてこなかった面白さ」にスポットライトを当てるのに役立てば、文学理論として一定の意義を認められるということです。

 そう考えると、読者がロシア・フォルマリズム的な読み方に100%徹することが可能かどうか、そしてそれをこころみることが文学作品の読み方としてかどうかは、実はあまり重要な問題ではない……のかもしれません。


 ロシア・フォルマリズムは、世間で一般的だと考えられている「主人公中心」「作者中心」の読み方とは別の読み方を提示しました。

 そして、それは、私たち読者がの面白さに注目し、異化作用という魅力を掘り下げて考えることに貢献しました。

 その時点で、この考え方は文学理論として成功したと言って良さそうです。




 そして、もうひとつ。

 何かしらの事物を異化する作品は、(その異化作用がきちんと認識された場合の)インパクトが強いだけに、後続の作品が登場しにくいと考えられます。

 たとえばロマン主義や現実主義リアリズムなどであれば、壮大な目標や難しいテーマが掲げられるので、少数の作品だけでは完結せず、多くの作品が書かれる中で思想や技法が洗練されていくことになります。

 したがって、それぞれの試みの価値を、単にそれが成功したか失敗したかだけで評価することはできません。 

 それに対して、異化は違和感を持たせることが目的であり、それ以外のテーマや指針を持たないので、(極端に聞こえるかもしれませんが)成功か失敗かのどちらかしかありません。

 もちろん、ある作品によって異化された対象やテーマについて、別の作品で考察が深められることはあると思いますが、対象が同じ場合、異化そのものが模倣もほうの域を超えてことはあり得ません。

 別の対象を異化する作品が後続として登場することはあると思いますが、カメイ先生の言葉を信じるなら、その多くは「てらっただけの作品」であり、さほどインパクトはないようです。


 そうなってくると、ある作品の異化作用が世間に強烈なインパクトを与えれば与えるほど、それにインスパイアされた異化の試みは二番煎じとして陳腐化することになりそうです。

 今となっては、何かの異化を主要な目的に据えて創作物を書こうとすること自体が「陳腐」なのかもしれません。




 という辺りで、ロシア・フォルマリズムの話はとりあえず一区切りとさせていただきます。

 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


 実のところ、本書を初めて読んだ時点では、批判的なことをここまで多く言おうとは考えていなかったのですが、内容を紹介するべく文章を書き進める内に、新たな違和感や不満が出てきて、このような結果となりました。


 次回は本書で扱われている残り3つの文学理論から、言語行為論をご紹介したいと考えています。

 今回のことにりずにお付き合いいただけると幸いです。

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