ロシアからの刺客。

2020年7月6日


 どうも、あじさいです。


 新しいページに入ったので、前のページの内容を振り返っておきたいと思います。

 これから取り上げていく本は『超入門!現代文学理論講座』(ちくまプリマー新書、2015年。以下「本書」と言えばこの本を指すものとします)。

 現代文学理論は、その字面から考えて、私たちが「何となく」に頼った読み方を乗り越え、文学作品を筋道立てて読み解き、その内容について考察・説明・議論するのに役立ってくれそうです。

 本書は国語教育における文学作品の読み方――主人公に感情移入し、作者のメッセージを読み取ろうとする読み方――を批判するところから始まります(前のページでは、その批判が少々無責任じゃないのかという話が長くなりましたね)。




 多くの学校で推奨されている「主人公中心」「作者中心」の読み方以外の読み方の道標みちしるべとして、「現代文学理論」が紹介されます。

 「現代文学理論」の「超入門」的「講座」というタイトルの通り、講義のように先生が読者に語りかけるという形式で、章ごとに質疑応答の時間も設けられています。

 講義は4回に分かれており、4つの文学理論が扱われます。

 ロシア・フォルマリズム、言語行為論、読書行為論、昔話形態学です。

 このエッセイではとりあえず、ロシア・フォルマリズムについて書かれた部分を取り上げたいと思います(楽しくなってきたら残った3つのどれか1つを紹介させていただくかもしれません)。


 初っ端から「ロシア・フォルマリズム」という語を前にした筆者は、正直なところ近寄りがたさを感じましたが、この入門書を読む限り、別に世界各国の「形式主義フォルマリズム」の歴史や関係をたどらないといけないというものではなく、単にそれがロシア発祥だからそう呼ばれているだけのようです。


 ロシア・フォルマリズムは、「1920年前後にシクロフスキーやヤーコブソン、トゥイニャーノフを中心として起こった批評理論」(p.28)です。

 本書では、谷川俊太郎の「わたし」という詩を紹介した上で、次のように述べられています。


――――

〈ロシア・フォルマリスト〉と呼ばれる人たちが研究の対象としたのは、まさにこうしたことばの物質的マテリアルなありようであり、その構造についてでした。つまり、ある言語の組み合わせによることばの連なりがあった時に、それ以外のことに関心を向けない。谷川俊太郎の詩であれば、詩の外にあること、例えば彼の人生がどうであったとか、その時の社会的背景がどういうものであったとかいうことは、研究の対象とせず、ことばそのもの、あるいは詩の形式そのものに注目していったのです。〈フォルマリスト〉(=形式主義者)という呼称も、そこからきているわけです。(pp.27-28)

――――


 要するに、ロシア・フォルマリズムは作品と作者を切り離して考えようとする発想であり、「ことば(の連なり)」そのもの、「(詩の)形式」そのものに着目するということです。




 ロシア・フォルマリズムで鍵になるのが、「異化作用」です。

 聞き慣れない語句なので難しく感じられますが、本書の内容から筆者なりに解釈すると、「見慣れすぎて気にも留めなくなった事物を、まるで見慣れないもの(異物)であるかのように意識し直させる働き」と言って良さそうです。


 以前ちらりと紹介した中村邦夫くにお『はじめての文学講義』(岩波ジュニア新書、2015年)では、作者が意図せず「異化的な表現を実現」した例として、夏目漱石の『吾輩は猫である』が挙げられています。

 分かりやすい箇所を引用してみます。


――――

手のひらの上で少し落ち付いて書生しょせいの顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべ(ママ)きはずの顔がつるつるしてまるで薬罐やかんだ。その後猫にもだいぶ会ったがこんな片輪かたわには一度も出くわしたことがない。のみならず顔のまん中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷう煙を吹く。どうもむせぽくてじつに弱った。これが人間の飲む煙草タバコというものであることをようやくこのごろ知った。

(夏目漱石、『吾輩は猫である』、角川文庫、p.10)

――――


 私たちが日々当たり前に思っている人間の姿を、猫という他者の視点を借りることで、まるで見慣れないものであるかのように提示し直してみせた訳ですね。


 この意味での異化作用が特定の読者にある種の面白さを感じさせることは筆者にも分かりますが、本書によると、ロシア・フォルマリズムの代表的論者であるシクロフスキーは、異化作用の目的は単に読者を楽しませることにとどまらないと考えました。

 私たちは日常生活の中で多くのことを意識せず記憶しないまま受け流してしまう訳ですが、それはの状態なのだそうです。

 彼の主張では、異化作用の目的は人間の知覚や意識を呼び覚まし活性化させることであり、それはまさに芸術の目的でもあります。




 違和感を覚えずに日常を過ごしている人々がという見方にはかなり疑問が残りますが(シクロフスキーが過激なのか、本書の説明が短すぎるのか、筆者の読み方がまずいのか)、それはさておき、異化作用を芸術の目的に据える発想は、なかなか興味深いと思います。

 というのも、近現代の「芸術アート」を考えてみると、異化作用を狙ったと考えられそうな作品がかなり見つかるからです。

 実際、本書でもデュシャンの『泉』(既製品の男性用小便器に架空の人物名をサインしたものをアートと言い張って展覧会に出そうとした問題作)が、異化作用を念頭に置いた作品として例示されています。

 この作品については各方面の専門家(および専門家寄りだと自認する人々)が話題にしていますが、ほとんど共通して言われるのは、デュシャンはこれを悪ふざけや面白半分で発表した訳ではなく、「芸術とは何か」、「何をもって芸術なのか」を世間に問いかけようと真面目に考えていたということです。


 ふーん、芸術アートって今はそういう感じになってるんだぁ。


 と思ったのですが、あれ? ちょっと待てよ。


 『泉』は便器の素材や形(物質的マテリアルなありよう)に芸術的価値が認められたから評価されている訳ではありません。

 この作品が芸術史に残る「アート」として評価されるためには、作品の外の事柄――それが持ち込まれた場(展覧会)、その問題提起が画期的だったと判断される時代状況(当時の芸術の常識)、そして作者の意図など――が検討される必要がありました。

 このことが示唆しさするのは、何かを異化することを意図した作品の場合であっても、その異化作用がきちんと理解されるためには、作者の意図や時代背景が考慮されなければならないということです。


 文学についても同じことが言えるとすると、ロシア・フォルマリズムはどういうことになるでしょうか……?




 話の途中ですが、長くなってきたので、今回はここで切り上げたいと思います。

 次回は、本書の講義の後に設けられている質疑応答の紹介に入ります。

 筆者が提示させていただいたものと同じ疑問も扱われているので、お楽しみに。

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