8-2
「君がこれまで過ごして来た養人室っていう場所にあったんだけど、私じゃあ何が書いてあるのか分からなくてさ」
そう言ってリノがリュックサックから取り出したのは数冊の本だった。
「これ……」
僕が好きだった本ばかりだ。黒い猫のお話が書かれた絵本に、夜空を舞台にした小説。
そんな数冊の本の中に、一冊だけ見覚えのない本が混ざっている。
表紙にも背表紙にも、何も書かれていない一冊の古ぼけた本。「これは?」とリノに尋ねると、「この本も、ハクが過ごしていた養人室にあった本だよ」と答えてくれたけれど、あの場所でミシェルと過ごして来た日々の中で、こんな本は一度も目にしたことはなかった。
読んだことのない本。
そう思うと、少しばかり心が浮足立つ。でも、その浮足立った心は表紙を捲って最初の一ページに目を走らせたところで動揺にも似た揺らぎを与えのだった。
「日記?」
最初の一ページ目にはこう書かれている。
――これより、二十三期オペレーションを実施。
――モデルRナンバー8904、あなたの誕生に祝福を。
――ハローワールド。
『四日目。
ナンバー8904。容態は安定。食事、睡眠、問題なし。
絵本に興味を示す。
文字の読み書きから教えるのが有効と判断。
読み聞かせを開始』
『十六日目。
真夜中に目を覚ます。不安だと言う。
過去のデータから、対応策を検索。
ナンバー8904の名を呼び、頭をなでる。
安心したように、静かに眠る』
『五十三日目。
絵本を読んでほしいと、よくせがむ。
特に気に入っている絵本は、――――、と――――。
何度も読み聞かせる。
同じ本を繰り返し聞きたがる様子から、ナンバー8893と性格が類似している可能性。
今後の方針が固まる』
『二百八十二日目。
自分で本を読むようになる。
文字の読み書きは問題なし。
学習に関して、次のフェーズに移行を決定』
日記には、一日も欠かすことなく僕の様子が書かれている。これを書いたのはミシェルだろう。いわば、これは僕の成長記録のようなもので、ミシェルはその記録を淡々とこうして日記という形で残していたのだ。
『三年、五十八日目。
ナンバー8904、外の世界に興味を示す。
外に行きたいと言う。
外の世界はないのだと諭す。
ナンバー8904、顔を曇らせる。
何度も見た表情。
私は、そう教えることしか出来ない』
『三年、二百二十九日目。
ナンバー8904、独りきりだと真夜中に泣く。
精神状態が不安定。
過去のデータより、対応策を実施。
頭をなでる。
しかし、泣き止まない。
手を握る。
ナンバー8904、泣きながら私の手を握り返す。
彼が幸せなのか、私には分からない』
『三年、三百五十一日目
ナンバー8904。一段と本をよく読む。
夜、消灯した後に小型の照明を照らし本を読んでいる様子。
口には出さないが、外の世界に憧れている模様。
このままでいいのか疑念を抱く』
それからも、日記にはミシェルの言葉が書き連ねられていた。
僕が熱を出した時のこと。
ミシェルの壊れた体の一部を直した時のこと。
生きる意味を教えてくれた時のこと。
何をして過ごしたのか。どんなことを話して来たのか。そのすべてがこの一冊に詰め込まれている。
『明日、ナンバー8904を送り、オペレーションは完遂。
きっと、最後に彼は泣くだろう。
これまでも、ずっと彼らは最後に涙を流す。
私はそれを、見送ってきた。
これまでも、これからも変わらずに。
涙は、悲しみの象徴。
きっと、私と一緒に居ては幸せになることなどできない。
さようならと、私は言うことしか出来ない』
「ミシェル」
やっぱり僕は、ミシェルと離れたくはなかった。やっぱり僕は、彼と一緒にいたい。外の世界に憧れ、他の人間と出会いたいと強く願いのと同じくらい、僕はミシェルと離れ離れにはなりたくなかった。
「リノ、僕はやっぱりミシェルと離れ離れにはなりたくないんだ」
だから。
「ミシェルも一緒に、連れて行ってもいいかな?」
これは僕の我儘。ミシェルは嫌だというかもしれない。でも、少なくとも僕は、外の世界を見て回りたいし、リノとも、ミシェルとも、離れ離れにはなりたくなかった。
「ダメ、かな?」
リノはリュックサックを背負って立ち上がる。
そして、彼女はこう言った。
「よし、じゃあ早く戻って、君がしたいこと、ミシェルに話をしに行こうよ」
僕は日記を閉じ、「うん」と立ち上がるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます