7-5
暖かい。
僕が一番憧れていたものは、誰かの温もりだった。
他の人間なんていないとミシェルは言うから、僕はずっと独りきりなのだと思っていた。だから、誰かの温もりに触れることなんて出来るわけもなく、出来ることといえば、自分で自分の腕を抱きしめるくらいのものだった。
「ハク」
声が聞こえる。僕が知っている声。僕が「リノ?」と声を上げると、「よかった」という小さな声が確かに聞こえた。
「心配、したよ」
なんと答えればいいのか僕には分からない。心配されたことなんてなかったから。
目を開けて、正面を見据える。依然として真っ暗で、雪はあらゆる音を吸い込んでいくように静かに降っていた。
「僕が憧れていた外の世界は、こんなんじゃあなかった」
太陽。月。星。木々。海。湖。季節と、人と、笑い声。風に乗って飛んでいく花弁。僕が憧れていた世界は、あの小さな部屋で黙々と捲ったページに描かれた世界は、もっと色鮮やかであった。
一面の白。真っ黒な空。音がない。光もない。
「ミシェルは言ってたんだ。外の世界はないって、人もいないって」
もしかしたらそれは、ある意味本当だったのかもしれない。
何もない。誰もいない。それが事実で、視界に映るものすべてなのかもしれない。
「私がいるよ」
「リノが?」
「うん。私がいる。私も、ちょっと前までは似たようなことを考えてた」
何もない。どれほど歩こうと、何もない。誰もいない。世界には自分一人だけで、永遠と真っ白な道の先に暗闇が口を開けているだけ。
「でも、この禁地に来て君に会った」
「でも、」
でも、僕は人間じゃあないんだ。僕は普通の人間じゃあない。
「僕はクローン人間だって言いたいの?」
「知ってたんだ」
「大体のことはミシェルから聞いたわ」
僕は、クローン人間なのだ。きっと、僕には人間の家族なんていないのだ。ただ作られた存在。人間としてみれば、生まれてからずっと、そしてこれからも独りきりの存在だ。
「リノの言う通りだった。僕、やっぱりおかしいんだ。ロボットと一緒にいる人間なんて、やっぱりおかしいんだ」
家族はミシェルだけ。でも、そのミシェルだって僕のことをある意味でずっと騙し続けていた。僕はとうとう、本当に独りきりになってしまったのかもしれない。
「そうね。君は確かにおかしい。こんな場所で独りきりで、ロボットと一緒にこれまで暮らしていて、外の世界のことも、他人も、何もかも知らない。でもね、それでも私にとって、ハクは人間なんだよ。私は、君に感謝してるんだ」
リノは「私の生まれ育った町はね、ロボットに壊されたんだ」と、小さな声で囁くように話し始める。
「壊された?」
「そう」
唐突に何もかもがなくなった。何もかもが燃えて消えていった。たった一人生き残って、ずっと、何かを求めて禁地を渡り歩いて来た。
「なんで生きているのかだとか、こんなことしていても無意味じゃないのかだとか、そんな悩みも疾うに過ぎ去って、もう何も考えられなくなっていた。眠ければ眠るみたいに、いつだって死んでしまえばいいと考えるようになった。そんなときに出会ったのが君。人間に会ったのは本当に久しぶりだった。生まれた町がなくなってから、当てもなく何かを求めて禁地を目指し歩くようになってから、初めてあった人間だった。救われた気がした。私、町にいた時は一人が好きだったの。周りにいる人間がとても煩わしくて、一人で禁地に行って、綺麗なものを見ているのが好きだった。それなのに、本当の一人になった途端、私は一人でいることが寂しかったのよ。君を見て、私は思ったの。君に会えてよかった。私、人と話すのが下手だから、うまく伝えられているか分からないけれど、本当、ありがとう」
リノが僕を包む。耳元で小さな泣き声が聞こえる。
やっぱり僕は、ミシェルは嘘つきだ。この気持ちは何だろう。いつの日か読んだ小説の中で、「人が人である所以は何だと思う?」と主人公がある老人に尋ねられるシーンがあった。あの時、主人公は何と答え、老人は何と言っていただろうか。
「僕は、これからどうすればいいんだろう」
それだけが、分からない。
「僕は、ミシェルから沢山のことを教えてもらった。そこには事実とは違うものも多くあったのかもしれないけれど、でも、僕はいろいろなことをミシェルから教えてもらった。でも、分からないんだ」
生き方が、僕には分からない。生き方を、ミシェルは教えてはくれなかった。
「そんなの、もう答えは出ているんじゃあない? 「僕は憧れていた世界は、こんなんじゃあなかった」大丈夫、今私たちが見ているものは、ほんの一欠けらにも満たないものだから」
リノは「君がしたいことはなに?」と僕に優しく囁く。
僕のしたいこと。憧れ。それは、昔も今も変わらない。
「外の世界を見て回りたい」
「うん。じゃあ、私と一緒だ。生き方だとか、生きている理由だとか、そういうのって、きっとこの程度のものなんだよ」
リノの笑い声が聞こえる。自然と、彼女の笑顔が目に浮かんだ。
「飛行機、直して空を飛ぶんだよね。空からの景色、一緒に見ようよ」
「うん」
「空だけじゃあない。これから一緒に、美しいものを求めて一緒に歩こう」
「うん……」
リノ、ありがとう。
ちゃんと言葉に出来たかは分からない。ぐちゃぐちゃな声。
でもリノは、「これからもよろしく」と、確かに僕の手を握ってくれた。
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