第五章
5-1
鋼鉄の翼。思いやりのない冷えた胴体。その、真っ黒な体に触れると、僕の熱が少しずつあちら側へ渡っていくのが分かった。
これが飛行機。空を飛ぶための機械。本当にあるだなんて思いもしなかった。ミシェルは言った、小説や絵本の中に登場してくるものの大半は現実には存在しないものなのだと。だから、僕はいつだって「もしも本当にこんなものがあったら」という憧れを抱かずにはいられなかった。
でも、その憧れは確かな形となって今僕の目の前にあるのだ。もしかしたら、僕は空を飛ぶことさえできてしまうかもしれない。
「できるよ。君ならできる。私に出来ないことを君は沢山出来るんだから、きっとできるよ」
いつの間にか僕の隣にやってきたリノが言う。どうしてリノは、そんなにも真っすぐな言葉を口にすることが出来るのだろう。僕には、そんな自信なんてない。
そもそも、僕は自由ではないのだと思う。僕は、この場所から出ることはできない。僕は、もう一度この場所で眠り、そうして誰かを救う。それが生まれた意味だと、ミシェルは言った。ここに来る途中、僕は見た。小さな部屋で、見覚えのある機械の中で音もなく眠っていた人間。あれが、僕が最終的にあるべき姿で、僕はあれと同じように、ひっそりと眠り続けなければならない。だって、それが僕の生まれた意味なのだから。それは、揺らぎようのないことなのだから。
「無理だよ」
僕がそう言うと、リノは「どうして?」と首をかしげる。「だって、僕には生まれた理由があって、それを成し遂げなくちゃあいけないから」と、もうずっと自分に言い聞かせて来た言葉を口にする。受け入れて、それを微かな希望のようにずっと大事に抱えて来たはずなのに、何故か僕の声は震えていた。
「ハク、声って正直なんだよ」
「え?」
「君のしたいことは、本当にそれなの?」
僕のしたいこと。
「分からない」
憧れこそすれ、でも実際にそれらをやろう、やるためにはどうすればいいか、そんなことを考えたことなんて一度もなかった。
「君は、生まれた理由にこだわっているよね。私には分からない。私がどうしてこんな世界に生まれて来たのかなんて、私には分からない。でも、どうしてここまで生きて来れたのかは分かるんだ」
やりたいことがあるから。見たいものがあるから。感じたい思いがあるから。言葉にすれば簡単で、たったそれだけのことなのだとリノは話す。
「私は今、凄く胸が高鳴ってる。私は、こういうものを求めてここまで必死に生きて、一人でこんな遠くまで歩いてきたんだ。経ったそれだけのことなんだよ。結局、私がそうしたいから、私の我儘で生きてるんだ」
リノは「って、この高鳴りを私はついさっきまで忘れていたんだけどね。君と、この飛行機が思い出させてくれたんだ」と、笑って見せる。
「私は君のことを知らないけれど、もう少し我儘になってもいいと思うよ」
我儘に。僕のやりたいこと。
「リノは、空を飛びたいの?」
「うん。飛んでみたい。君の話を聞いてそう思った。飛んで、空からの光景をこの目で見てみたい。遠い昔の人も、もしかしたらそんな光景を見ていたのかもしれないんだよね? 空を飛ぶことが出来たら、遠い昔の人と同じ光景を私も見ることが出来るかもしれない。それって、なんだか素敵なことだと思わない?」
「そう、かもしれない」
「でしょ。じゃあ、やらない理由はないよ。私は空を飛んで、そこから見える光景をこの目で確かめる。君も、ずっと憧れていたことを現実のものにする」
リノは「決まりね」と飛行機を仰ぐ。
そんなリノにつられるように、僕も飛行機を仰いだ。
やりたいことをやる。思うままに、感情のままに足を進める。リノはこれまでそうやって生きて来たのだという。
でも、僕にとって、やりたいことは全部叶わない憧れでしかなかった。だから僕は空っぽで、生きていく意味だなんて分かるはずもなかった。だからこそ、唯一あった生まれた理由を大事に抱えて来た。
もしも本当に僕はこの飛行機に乗って空を飛ぶことが出来たのなら、何かが変わるのだろうか。
今、僕の胸の内に湧き出た感情に身を任せ足を進めることが出来たのなら、何かが変わるのだろうか。
「大丈夫」
リノは笑う。
彼女がそう言うのなら大丈夫なのだと思えて来る。「ああ、僕はこの飛行機で空を飛ぶのだ」と、緩やかな坂を下るように僕の心の内側に溶け込んでいく。
それがあまりにも不思議で、だけどとても心地がよかった。
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