4-4

「どうかした?」

「その、このままミシェルのいるところに戻るんだよね?」

「うん。おなかも減っているし、今日はもう最上階に戻って、探索はまた明日からするつもり。どうかしたの?」

「その、発着場っていうのが気になって」


 発着場。一瞬、何のことかわからなかった。ハクが続けて、「この階の、もう一つの、」と言いかけたところで、私はようやく思い出した。


「もう一つの扉?」


 私がそういうと、ハクは大きく首を縦に振る。


 エレベーターから降りてすぐ、二つの扉があったのだ。一つは食糧庫に続く扉。そしてもう一つの扉は発着場という場所に続いているらしかった。


 発着場という場所は、一体どういう場所なのだろう。そんな言葉自体、私は今まで一度も聞いたことがない。それをそのままハクに伝えると、「僕も、本の中で出て来たものしか知らないから本当かどうか自信がないんだけど……」と、彼は話を始める。本、というのがどういうものなのか、それすらわからなかったけれど、そんなことが気にならなくなるほどに、それから先、ハクが語った内容は、到底私には思い浮かばないようなものだった。


 飛行機、という乗り物があったらしい。飛行機というのは、曰く空を飛ぶための機械なのだそうだ。ハクが呼んだ本の中では、そんな飛行機が人を乗せて空へ旅立ち、そしてまた帰ってくる場所を、発着場と言っていたらしい。


「空を飛ぶ……」


 空というのは、あの空だ。顔を上げればそこにある、あの真っ黒で、どこまでも広がっている。そんな空を飛ぶための機械があるのだと、ハクは言っているのだ。


「僕、いつも憧れてたんだ。空を飛んだら、一体どんな景色が見られるんだろうって。その本を読む度にいつも考えてた。僕も、乗ってみたいなって、乗って、空を間近で見てみたいって、ずっと思ってたんだ」

「そっか。本当に、憧れてるんだね」


 声でわかる。声って、結構正直なのだということを私は知ってる。


「昔の人は、飛行機っていう機械を使って空を飛んでいたの?」

「わからない。だって、僕はそもそも世界を知らないから。僕以外の人間はいないって思ってたから。ずっと、本を読んで憧れていることしかできなかったんだ」


 ハクは顔を俯かせる。


「気になるなら行ってみればいいよ。どうせ帰る途中で必ず近くに行くんだし」

「いいの?」

「うん。憧れてたんでしょ? ずっと、憧れたままにしておくの?」


 その時、ようやくハクの瞳に彼自身の色が鮮やかに咲いたような気がした。ハクは「行きたい」と呟き、ジッと私の目を見るのだ。だから私は「じゃあ、行こうか」とだけ返した。


 台車に水と、それから食料の入った茶色い箱を何箱か乗せる。それから、その台車を私とハク二人で押し進めながら、発着場という場所に向かった。


 私も、台車を押しながら想像してみる。飛行機、というものがどういう見た目で、どうやって空を飛ぶのかは分からない。ただ、私が空を飛んで、そこから見えるであろう光景を想像する。


 きっと、何もかもが小さくなるのだ。私がずっと小さかった頃、お母さんに肩車をしてもらったことがある。私はその時のことをよく覚えている。グッと視線が高くなって、いつも見ていたものが、より一層見渡せることが出来るようになって、視線が高くなった分だけ、世界が広がったような心地になった。


 もしも空を飛んだとして、私の世界はどれほど広がるのだろう。今私がいるこの禁地も小さくなって、世界を見渡して。この地面の上からでは絶対に見ることが出来ない何かを、私は見渡すことが出来る。


 見てみたいと思った。私も、その光景を見てみたいと。なんとなくだけれど、その光景にきっと私が求め続けているものがあるような気がする。


「ここね」


 発着場へと続く扉。ひとまず台車はここに置いていこう。そう決めた後、私は目くばせでハクに合図をし、彼に扉を開けるよう伝える。彼は、小さく頷き扉を開け、そして奥へと歩き始めるのだった。私はそんな彼の後を追う。


 彼の足取りは力強かった。一歩一歩、着々と前へ進んで行った。


 扉を一つ、二つと開けて進む。そして、三つ目の扉を開けたところ、私たちは辿り着いた。


「ここが、発着場」


 まず初めに、油のような鼻につく臭いが私たちを出迎えた。周囲は薄暗く、何も見えないわけではないけれど、この部屋の先の方はどうなっているのか分からない。


「この部屋も、随分と広そうね」

「うん。もしも発着場なら、こんな風にとても長い道が必要なんだ。滑走路って言うらしいんだけど、飛行機はこの滑走路を走って、そうして空に飛び立つんだ」

「へぇ」


 目を動かして周りを見ても、それらしきものは見当たらない。本当に、何もない長い道が続いているだけの部屋。


「飛行機、あるのかな?」


 暗くてよく見えないけれど、すぐ近くにそれらしきものはない。人が乗って空を飛ぶ機械なのだから、それなりに大きな機械だろう。


「あそこ……」


 ハクは、ある場所を指さし歩き出す。私は慌ててその後を追った。


「整備室」

「整備室?」


 扉がもう一つ。左側の壁にある。その扉はとても大きなもので、ハクがその扉に掌をかざすと、大きな音を立ててその扉は開いた。


「本当にあった」


 これが、飛行機。大きな黒色の翼と、細長い胴体。こんなものが空を飛ぶだなんて、私には信じられない。


「本当に、これが空を飛ぶの?」

「うん」


 ハクは、黒い飛行機の胴体をなぞる。


 つくづく、遥か昔、今から遠い時代には、一体どんな光景が日々の日常の中で繰り返されていたのだろうかと、考えずにはいられない。今私が見ているものは、きっと遠い昔、当たり前だったものの、ほんの一部に過ぎない。この、暗い世界にひっそりと息を止めて眠っている遺物の一つでしかない。


 本当に、遥か昔の人はこれに乗って、あの空を自由に行き来していたと言うのだろうか。もしも本当にそうであるというのなら、私はこれに乗って、空から見える景色を見てみたい。古代の人が見ていた景色を、今生きている私が目にする。その光景はきっと、通信機の音色を聞いたあの時のような輝きを、私にくれるかもしれない。


「ハクは、空を飛んでみたいんだよね?」

「う、うん。ずっと憧れてた」

「じゃあ飛ぼうよ! これがあれば飛べるんでしょ? ならそうしよう。私も、空からの景色を見てみたい」

「そんなこと、僕にできるのかな」

「できるよ。君ならできる。私に出来ないことを君は沢山出来るんだから、きっとできるよ」


 ハクの隣に立つ。私は、かつて空を飛んでいたのかもしれない遺物に触れる。


 こんな風に胸が高鳴るのは、一体いつぶりのことだろう。一体、私はいつから惰性で生きるようになったのだろう。


 寝て起きて、少ない食料を宝物のように大事に抱え、ただ息をするだけの日々。そうやって、誰もいない禁地に何かを求めて彷徨い続けてきたうちに、私はすっかり忘れてしまっていた。


 私は、この眩さの先を見たいかったんだ。お母さんも、妹も、家も、生まれ育った町も、全部をなくして一人になっても、それでも必死に生きて、ここまで歩いてきたのは、今微かに灯った高鳴りのためだった。


 この高鳴りの先。私はそれを見たい。


「愛してる。リノ、どうか生きて」と言って私の前からいなくなってしまったお母さん。その言葉を、私は忘れることなんで出来なかった。


 私は生きる。私がここまで生きて来た理由なんて、たったそれだけのことだった。

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