第四章

4-1


 ナンバー8904。彼は、それが自分の名前だと言った。それは名前と呼ぶには酷く機械じみていた。また外見も弱々しく、私は不思議と、そんな彼を放っては置けなかった。


 純粋に、久しぶりに人と会えて嬉しかったというのもある。町を出て、ずっと独りで禁地を求めて漂って、そうやって自分の足だけで生きているうちに、私は無意識のうちに誰かと会えないだろうかと、そんな期待を膨らます様になっていたのかもしれない。だって、あの雪の中、初めて彼を目にしたとき、私の胸の内に温もりが優しく灯ったのだ。それは、ちょうど昔、家に帰ってお母さんと妹の顔を見た時に感じたものと似ていた。


 それに彼、ハクはどことなく妹に似ているんだ。彼と話をしていてそんな事を思った。彼のことを「ハク」と呼んだ時、彼は嬉しそうに笑って見せたけれど、その笑い方がどことなく妹に似ていた。


 後ろを振り返ると、ハクは視線を落としてゆっくりとした歩幅で私の後をついてきていた。きっと、彼はあのロボット、ミシェルと一緒に居たかったのだと思う。だったらそうすればいいのにと思う。でも彼はそうしなかった。彼はミシェルに『食料を探して来てください』と言われ、結果今、私と一緒に行動を共にしている。


 ハクは分かりやすい。感情と表情は強く結びついているようで、私とは大違いだった。


「あのロボット、ミシェルと一緒にいたかったの?」


 私が声をかけると、「え?」なんて声をハクは上げる。「そんなこと、ないよ」と言うけれど、それは嘘だとすぐに分かる。


「一緒に居たいのなら、そう言えばよかったんじゃあないの?」


 言葉にしてみると、随分単純で簡単なことの様に聞こえるけれど、実際に言葉ほど軽々しく出来るものではないことを私は知っている。そんな言葉通りのことが出来るのなら、私はこんな面倒な生き方をしてはいないだろう。


「無理だよ」という、分かり切っていた答えが返って来る。それでも私は「どうして?」と彼に聞く。するとハクは、「ミシェルの言うことは、いつだって正しいから」と小さな声で呟くのだった。


 彼は、これまでどんな風に生きて来たのだろう。見た目からして、多分私と同じ位の年齢だろう。私がこれまで生きていた時間と同じ長さだけ、彼もまた生きて来たはずだ。私ですら、町を出て、いくつかの禁地を当ても無く渡り歩くくらいには時間があった。それだけの時間を、彼はどんな風に過ごして来たのだろうか。


 立ち止まって後ろを振り返る。ジッとハクを見ると、「な、なに?」と、彼は視線を落ち着かせる場所を探す様に、忙しなく目を動かすのだった。


 不思議な子だ。どうしてこんな場所にたった一人でいるのだろう。昔は沢山の人がいたらしいけれど、今はもう、大半の人間はこの地上にいない。いたとしても、私が生まれ育った町のように、複数人で群れて生きている。少なくとも、私はお母さんからそう聞かされた。


 そもそも、こうやって誰かに会うこと自体、禁地を求めて当てもなく彷徨うようになって初めてのことだ。


 昔、お母さんが話していたことを思い出す。地上で生きている人間は限りなく少なくなってしまったけれど、それでもゼロではないという話。確かに人はいる。でも、町を出て、一人でただ歩き続けるようになってからというもの、一度だって人間を目にしたことはなかった。そのうちに、なんだかもう、この地上には私一人しかいないのではないのだろうかと、そんな気さえしていた。


 それはきっと、ハクも同じなのだと思う。彼は、目を覚ました時にこう言った。「どうして人がいるの?」と。その顔を酷く狼狽していた。


 あの時の彼の表情の裏には、一体どんな名前の感情が隠れていたのだろう。そして今、こんな風に自分以外の人間と話をして、一体何を思っているのだろう。


 彼のことは分からない。ただ、私はこうやって誰かと話をすることが出来て嬉しいと感じている。本当、自分でも不思議に思えるほどに、私はこうやって誰かと話が出来て、純粋に嬉しかった。町にいた時は誰かと他愛ない話をすることに何ら興味もなかった。むしろ、他人から話しかけられた時には嫌気すら感じていた。でも今は違う。人と話すことが、こんなにも嬉しいことだなんて、私は知らなかった。


「どうしたの?」


 いつの間にか、ハクは私の近くに寄ってきて、怪訝そうな顔つきで私のことを見ていた。


「ううん。何でもないよ」


 何でもない。本当に、何でもない。


 一瞬、何故かお母さんと妹の笑った顔がチラついて、それはたちまち何かに攫われるように遠くへ旅立っていく。


「行こうか」


 今更、こんな気持ちになったところでどうしようもないじゃあないか。私はもう、随分と遠いところに来てしまった。


「…………」


 この時私は、切ない、という言葉の意味を初めて知ったような気がした。

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