3-2
目を開けると、いつも見ている白い天井はどこにもなかった。左の方から差し込む生暖かく薄い明かりが、僕の視界を灰色に染め上げている。
明かりが射す左側に顔を傾けてみると、真っ白な世界が広がっていた。昔絵本の中で見た絵画のように、その白い世界は瓦礫という不器用な額縁に納まっている。
確かミシェルは、あの白いものを雪だと言っていた。
「ミシェル……」
そうだ。ミシェルはどこだろう。
「ミシェル……」
体を起き上がらせる。そこで初めて、右腕の痛みに気が付いた。体を動かしたその瞬間、高熱が右腕の一点から溢れ、瞬く間に全身を駆け抜け、その余韻が右腕に痛みとして残る。
初めて経験する痛みに、思わず目を瞑ってしまう。再び視界が真っ暗になったところで、「大丈夫?」という声を聞いた。
声のした方に目を向ける。そこにいるのはミシェルではなかった。
「誰……?」
人だ。人がいる。
「どうして人が、いるの?」
僕は人に会うことは出来ないとミシェルは言っていた。友達が欲しいと言っても、それは叶わないとミシェルは言った。だから、人なんてものはいないと思っていたのに、どうして今、僕の目の前に人がいるのだろう。
「変なことを聞くね。君だって人でしょ。人はいるよ。まだいる。でも、とても少ないからね。私も、誰かに会うのは久しぶり」
君だって人でしょ。そんな事を言われたのは初めてだった。なんだか、随分と当たり前のことを言われているような気がするけれど、不思議とその言葉が嬉しかった。
「その右腕、一応包帯とか巻いてみたけど、どう?」
右腕に目を落としてみると、確かに包帯が巻かれていた。
「うん。大丈夫、ありがとう」
僕がそう言うと、「なら良かった」と、頬を掻いて目を下に落とす。それから、「その右腕の怪我、何かあったの?」と、僕の右腕を見ながら尋ねて来る。
「えっと、」
何があったのかを思い出そうとしたけれど、上手く思い出すことは出来そうになかった。いや、思い出せそうにないというよりは、自分でも何があったのか分からなかった。
僕は今日、誰かを救うためにもう一度生まれた場所で眠りに着くはずだった。それが、ミシェルとのお別れを意味するのを知っていた。僕はそれが嫌だったけれど、ミシェルはそうすることが僕の生まれた意味だと言うから、仕方がないと思った。
でも、そうはならなかった。
轟音と、白と黒。それと雪。突如僕の目の前に世界が開けた。それから、もう一度大きな音を聞いた後、僕はおそらく落ちたのだと思う。気が付いたら、頬と身体が冷たかった。冷たいという感覚の中で、右腕だけが不気味に熱かった。
雪の上に倒れている。そう思った覚えは微かにある。それから、『ナンバー8904』というミシェルの声。目だけを上に向けると、舞い落ちる雪とミシェル。そして、その先に黒く大きな何かを見た。それが、僕が思い出せる最後の記憶だった。
「酷い顔。別に、無理して思い出さなくてもいいよ」
あの後、僕はどうなったのだろう。そして、どうやってここまでたどり着くことが出来たのだろう。何も思い出すことが出来ない。
「あなたが僕を助けてくれたの?」
「違う。君を助けたのは、君と一緒にいたあのロボット。私は、ほんの手助けをしただけ。むしろ、私の方こそ助けられたようなものよ」
それから、彼女はどうやって僕と出会い、この場所にたどり着いたのか話てくれた。
どうやら、ミシェルは彼女に助けを求めたらしい。僕の意識が途絶える前、確かミシェルは『救難信号を送りました』と、そんな事を言っていた。彼女はその救難信号を受け取ったのだという。「これ」と言って彼女が取り出したのは何かの機械だった。彼女曰く、その機械は「通信機」と言うらしい。この通信機からミシェルの声が聞こえたのだそうだ。
「助けられたっていうのは、どういう意味なの?」
僕のその問いかけに対し、彼女は一度遠い目をして僕の後方、雪に一面を覆われた世界に目を向け、話し始める。
「私、簡単に言えば流浪人なのよ。禁地と禁地を渡る流浪人」
「禁地って?」
僕がそう尋ねると、彼女は「禁地を知らないの?」と目を少し開く。
「うん。ミシェルは教えてくれなかった」
僕は、ミシェルが教えてくれたことと、本で読んだことしか知らない。
「禁地っていうのは、遥か昔の建造物や物、そういうのをまとめて遺物っていうけど、その遺物が残った一帯のことを指すの」
禁地と遺物。僕はその言葉を初めて聞いた。
「どうしてあなたは、そんな禁地を渡り歩いているの?」
「それは……」
今度は分かりやすく彼女の顔に影が射す。少しして、「興味があるだけよ。それだけ」と呟くように答えるのだった。
「ちょうど、私は次の禁地を目指して彷徨っていた所だったの。もうじき食料も底を尽きそうで、もうダメかと思っていた所に、君とロボットに出会った。そうして、何とか禁地にたどり着くことが出来た。助けられたって言うのはそういう意味」
ミシェルと僕を見つけた彼女は、怪我を負って意識を失っていた僕を担ぎ、ここまで運んでくれたらしい。僕が「ありがとう」と言うと、彼女は「いいって別に」と、顔の前で両手を振って、それからやはり頬を掻くのだった。
「私が聞くのも変な話かもしれないけど、君こそどうしてこんな所に居るの? それも、あんなロボットと一緒に」
彼女の言葉の中で、「あんなロボット」という箇所が僕はどうしてか気に入らなくて、「ミシェル。あんなロボットじゃあなくて、ミシェル」と、ほんの少しぶっきらぼうな声が出たのが自分でも分かった。そんな僕の答えに、彼女も彼女で「どっちでもいいわ。ロボットはロボットよ」と、影のある声を漏らす。その声が、なんだか物寂しくもあり、どこか虚しい響きを携えていたから、思わず「あなたはロボットが嫌いなの?」と僕は尋ねた。すると彼女は「嫌い。でも、本当はよく分からない」と答えるのだった。
「ゴホン」っと、調子を取り戻すように彼女は一度咳払いをする。それから、「で、どうして君はこんな所にいるの?」再度僕に質問を投げかけるのだった。
でも、その質問に対して僕も「良く分からない」としか答えることが出来なかった。
「私みたいにどこからかこの禁地にやって来たか、それともこの場所で生まれたのか。この二つのうちのどちらかだと思うんだけど」
そのうちのどちらかなら、多分僕は「この場所で生まれた」に当てはまるような気がする。それをそのまま伝えたら、「気がするって……君、変な人ね」と、彼女はクスリと笑うのだった。
「そうかな?」
「そうだよ。ミシェル、だっけ? ロボットと一緒にいる時点で、私からしてみれば充分に変わってる」
「ロボットと一緒にいると、変わっているの?」
「そうよ」
また彼女はどこか遠い目をする。それから小さな声で「まあ、私も大概変だと思うけど」と呟いたのを僕は聞き逃さなかった。でも、「どうしてそう思うの?」とは聞けずに、一面真っ白な世界を一緒に眺めるばかりだった。
これから先、どうなるのだろう。ミシェルはどこに行ってしまったのだろう。
僕はどうしてこの場所にいるのか分からない。そもそも、ここがどこなのかも僕は知らない。
確かに、僕は彼女の言う通り、どこか変なのかもしれない。
そんなことを頭の中であれこれと考えていると、彼女が「ねぇ」と僕に声をかけてくる。僕が「何?」と返すと、彼女は短く「リノ」と言った。
「リノ?」
「そう。今更だけど、それが私の名前。私、しばらくはこの禁地に留まるから、少しの間よろしく。それで、君はなんて言うの?」
「僕? えっと、ミシェルは僕のことをナンバー8904って呼んでる」
「なんばー8904? それ、名前なの?」
「多分」
リノ、という彼女は「う~ん」と唸り、それから「ナンバー8904って、長いわね」と呟き、そしてリノは僕をこう呼んだ。
「89でハク。どう?」
ハク。彼女の名前はリノで、僕はハク。
名前で呼び合うなんて、なんだか小説の一場面のようだと思った。そんな事を思った途端、唐突に風が僕の横を駆け抜けて行くようで、そんな風に乗った色とりどりの花弁が、奥底に沈めていた憧れを色付けていく。
今、もしかしたら僕は憧れの中にいるのかもしれない。
「気に入らなかった?」
「ううん。いいよ。うん。ハクでいい」
「そっか。じゃあハク、少しの間よろしく」
「うん。よろしく、リノ」
なんだかまるで友達みたいだと、そんな事を思った。
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