2-3

「…………!」


 目を開けると、亀裂が走った見慣れぬ天井が視界に広がる。


 早朝の、鼻の奥を刺す様な冷たい空気と、背中に鈍い痛み。


 どうやら、壁に寄りかかったまま、いつの間にか眠りについてしまったらしい。

体を起き上がらせて外に目を向けてみると、地面が白に染まっていた。昨日降り始めた雪は、一晩で世界を真っ白に染め上げたようだった。


「…………」


 嫌な夢を見た。とても嫌な夢。大抵、夢なんてものは目覚めと共に消えて行ってしまうものだけれど、この夢だけは忘れることが出来ない。


 夢だけれど、夢じゃあない。あれは私の傷だ。


 私の心の奥底には、二つの傷が刻まれている。


 一つは、通信機を見つけた時のこと。そしてもう一つは、町が経った一機の遺物に壊された時のこと。


 古代の人間が残したものはすべて遺物と呼ぶ。私が持っている通信機のようなものから、今私がいる朽ち果てた建造物、そうして今もなお動き続けるものもある巨大なロボットまで様々な遺物がこの世界には残っている。


 可笑しな話だけれど、私はそんな遺物に憧れを抱くと共に、恐れも抱いている。


 空気が焼ける。町が真っ赤に染まる。悲鳴が聞こえる。遺物の不気味な駆動音と、自分の自信の荒い息遣い。炎の中で天を仰ぐ巨大なロボットの姿を、私は忘れられない。


 巨大な樹木、通信機と澄んだ音の連なりが明であるなら、燃える町、巨大なロボットと叫び声の連なりは暗だ。


 私は町を出てからロボットを何度か目にしたことがある。私が生まれ育った町を焼き払ったロボットと同じ位巨大なものから、私よりも小さなものまで。姿形に違いはあれ、明確な共通点がロボットたちにはあった。それは、ロボットたちは今もなお、自身に与えられた役割のようなものを成し続けているという点だ。


 私は遺物のことを何でも知っている訳じゃあない。でも、人並み以上に色々な遺物をこの目で見て来た自覚はある。もちろん、ロボットだってそれなりの数を目にしてきた。


 あるロボットは荒れ果てた禁地で朽ち果てた鉄の塊を解体していた。あるロボットは建物の前で『いらっしゃいませ』という言葉を何度も繰り返していた。決まったルートを歩き回るロボットもいれば、建物の中でジッと動かずにいるロボットもいた。


 きっと、今なお動き続けているロボットは、古代の人から与えられた使命と言うか、役割のようなものを全うし続けているのだと、私は思う。想像も出来ないずっと昔から、ロボットは古代の人から与えられた役割をルーティンとしてずっと繰り返してきたのだ。そして、ロボットのそんな姿は、古代の人がどんな風に生きていたのかを私に教えてくれる。それは私にとって、とても魅力的に映るはずなのに、でも、それでもやはり私はロボットを好きにはなれない。ロボットが私のすべてを焼き払った事実はどうしたって消えてはくれないし、もうあの日々には決して戻ることは出来ない。


「…………真っ白」


 この雪みたいに、何もかもはっきりと区別できれば楽なのに。


 自然と漏れ出た白い息は、形も定めずに漂ってどこかに消え去る。


 ジッと通信機に目を落としても、通信機は黙り切ったまま。


 今日もまた、一日が始まる。一人きりの一日。


 リュックサックの中を覗いてみると、食料も残りあとわずかだった。この食料が全て無くなってしまう前に、私はしばらくの間留まることが出来そうな禁地に辿りつくことが出来るだろうか。


 大きな禁地には、必ずと言って良いほど古代の人が何らかの方法で加工した食料が多く残っている。また、今なお動き続けているロボットが食料を生産し続けている様子さえ見たことがあった。だから、食べ物に関しては、大きな禁地にさえたどり着くことが出来れば問題はなかった。


 私の生き方は単純だ。禁地を目指して流浪し、禁地を見つければ、一帯を隈なく調べ切るまでその場に留まる。調べ切ったら、食料や飲み水を私の背丈以上あるリュックサックに詰め込んで、また次の禁地を目指して放浪する。町を失ってからの私は、そうやって生きて来た。


 前の禁地を出発してから、もうどれほどの日数が経っただろう。自分が何回眠り、何回起きたかなんて数えていられるほど私に余裕などない。ただ少なくとも、リュックサックに目一杯詰め込んだ食料や飲み水が、もうじき無くなりそうになるくらいには時間が経ったらしい。


 いよいよ私もここで死ぬのか。


 リュックサックの底が尽きそうになる頃、私はいつもそんな事を考える。生きることに対する執着心なんて、町が燃え上がったあの日を境に無くなってしまったはずなのに。それでも心のどこかでは、「死にたくないな」なんて思っていて、禁地を見つけたその瞬間、「ああ、よかった」と安堵する私がいる。


 可笑しいなと、私は私が可笑しい。


 でも、今回はそんな風に笑うことが出来るかは怪しかった。


 随分と軽くなったリュックサックを背負って外に出る。吐く息は白く、目に映る世界はずっと先の地平線まで真っ白だった。雪は止んでいるけど、依然として空は灰色。灰色と言うよりは黒色と言って良い。白い地面と黒い空。その間で、ポツポツと朽ち果てた遥か昔の建物が物寂しい残り香を放っている。


 一歩一歩前へ進み、少ししたら後ろを振り返る。汚れを知らない白い雪に、私の足跡が確かに刻まれていて、その足跡の先に視線を運び、ジッと昨晩寝泊りした建物を見ては再び歩く。


 そんな事を何回か繰り返しているうちに、振り返っても建物は見えなくなった。


 そのくせ、正面は依然として何も変わらない。


 ただ、真っ白い世界が広がっているだけ。


 ただ、私は足を動かしているだけ。


 足を動かして、意識は過去に飛んでいるようだった。


 町のこと。お母さんと過ごした日々のこと。妹のこと。禁地で見て来たものの数々。通信機。澄んだ音の連なり。炎。巨大なロボット。妹。お母さん。ひび割れた天井。味の無い食べ物。水。灰色の雲。真っ白な世界。雪。


 この先、私はどうなってしまうのだろう。


 私はどうして歩いているのだろう。


 私はどうして生きているのだろう。


 死ぬのが怖いのは当たり前だ。炎に飲まれるお母さんと妹、燃えて死んでいく町は、恐怖そのものだった。でも、私は生きて行きたいと強く思うことは出来ない。


 寒い。


 気が付けば、また雪が降り始めた。

 

 きっと、これまで残してきた足跡は、ゆっくり時間をかけて雪に呑まれていく。そうやって、何事もなかったように世界はまた真っ白に染まるのだろう。


 そう考えると、なんだかとても虚しくなった。虚しくて、寂しい。


 頬が冷たい。体も。私は歩くのを止めていた。


 私の身体に、雪が降り積もる。


 死ぬのが怖いのは当たり前だ。でも、今は怖くない。寂しいだけだ。


 寂しい時、私は眠って耐えて来た。だから、眠ってしまおうか。


 せめてもう一度、あの光景に出会いたかった。


「…………」


 目を閉じる。


 遠くへ飛んで行く意識。もうじき寂しさを忘れ去れる、そう思った時、『ジジ……』という音が身体に響くのが分かった。


 音がする。聞いたことのない音。


『救……援求……む。救援……求む。地点、西……9、……1。繰り返……、救……求、む』


 声だ。誰かの声。人の声を聞くのはいつ振りだろう。町を出てから人に会ったことは一度もなかった。


「なに……?」


 顔だけを上げて、周囲を見渡す。でも、どこにも人の姿はない。


 音は聞こえ続けている。それもすぐ傍で。


「通、信機」


 冷たくなった通信機。声は通信機から出ていた。


「こんな時に、」


『レスポ、ンスを確認……救援求む……場所は』


 私は夢を見ているのだろうか。


 通信機を両手で持って、徐に立ち上がり歩き出す。


 身体に積もった微かな雪が落ちて行く。


『距……離、推定54……2メートル、案内……を開始』


 一本の緑入りの線が通信機から伸びる。


 これは夢なのだろうか。あるいは、私はもう死んでしまったのだろうか。


 もう、どちらでもいい。


 私は通信機に導かれる。


 そして、私はある光景を目にする。


 真っ白な世界。一面の白。白の上に浮かぶ点々とした赤。


『救援者を確認』


 ロボットが一台と、男の子が一人。男の子は腕を怪我しているようで、ロボットはそんな男の子を背負ってどこからかここまでやって来たようだった。


『救援、感謝します』


 色の白い、華奢な男の子。どうして男の子がこんな所にいるのか私には分からなかったし、どうしてロボットが人間を助ける様なことをしているのかも、私には分からなかった。


 それが、私が君達に初めて出会った時に抱いた第一印象。


 私はふと、妹が怪我をして母に背負われて帰って来た時のことを思い出した。


 どうしてそんな昔のことを思い出したのかは分からない。


 ただ、少しばかり目頭が熱くなって、その熱が私の心の奥底を暖めたのだけは分かった。

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