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三年前のあの日、どうしてミシェルの姿が僕の目には悲しそうに映ったのか不思議だった。
僕が生まれた理由は確かにあった。それは誰かの助けになることで、当時の僕にとって、それはとても良いことであるように思えた。だからどうしてミシェルの姿が悲しそうに僕の目に見えていたのか分からなかった。
でも、最近になって、ようやくその理由が分かったような気がする。
実際の所、悲しんでいたのはミシェルでは無く僕だったのだ。あの日、僕はミシェルの黒い瞳に映り込んだ自分自身を見て、悲しそうだと思ったのだ。
確かにあの日、ミシェルから聞いた話は良い話だと思った。でも、それは上辺だけのものに過ぎなかった。もっと深いところ、それこそ自分でも自覚出来ないほどに深い無意識の中で、僕はミシェルから聞いたある言葉に酷く悲しんでいた。
あの日、ミシェルはこうも言ったのだ。『私の役目は、あなたがその日を迎えるまで、あなたを立派に育てることなのです』と。その言葉が悲しみの源だ。その言葉は、僕とミシェルの別れを意味している。そのことに、最近になってようやく気が付いた。
僕はミシェルと別れたくはなかった。確かに僕は、美しい景色を見たり、誰かと泣いたり笑ったりすることに憧れていた。でも、仮にその憧れを叶える代償として、ミシェルと離れ離れにならなければいけないと言われたのなら、おそらく僕はミシェルの方を取るだろう。つまり僕にとって、心のそこから憧れていたものよりもミシェルの方が上なのだ。だから当然、『誰かを助ける』ためにミシェルと別れるなんてことも、僕に出来るわけがなかった。
少し前までは自分が何者なのかだとか、どうして友達がいないのかだとか、そういうことを考えて胸を詰まらせていた。でも今は違う。今の僕は、自分がどういう存在で、何のために生まれて来たのかを知っている。友達が欲しいだとか、美しい景色を見てみたいだとか、そういうものはすべて過ぎ去った憧れとなっていた。
そして、憧れを通り過ぎた先に待っていたのが、僕はミシェルと、あとどれほどの時間を過ごすことが出来るのかと言う憂いだった。
ミシェルと話をするたびに、「ああ、僕は後どれほどの時間をミシェルと過ごすことが出来るのだろう」と、そんな事を考えてしまう。しかし、時間というのは無慈悲に過ぎて行くばかりだった。そこには思いやりなんてものはなく、時計の針は淡々と音を立て続けた。
ジリジリと首が絞め上げられる。そんな心地で僕はその日へ向かってズルズルと進まざるを得なかった。
そして僕は、到頭『その日』を迎えることになる。
でも、結局僕とミシェルが離れ離れになることはなかった。
ただ、僕を取り囲む世界が大きく姿を変えたのは間違いなかった。
そして僕は、本当に何も知らなかったのだということを知ったのだ。
『ナンバー8904。いよいよ明日です』
僕はミシェルのその言葉を最後に眠りについた。
いつもならば、ミシェルが眠りについた僕を起こしてくれる。
しかし、次の日に僕を眠りから覚ましたのはミシェルの声ではなかった。
『緊急。緊急。東棟、C13からF15までの養人室に重大な破損を確認』
僕を眠りから引き戻したのは、本能的に恐怖を植え付けるような甲高い音だった。
けたたましく繰り返される『緊急。緊急。東棟、C13からF15までの養人室に重大な破損を確認』という声。そして、そんな声に紛れ、どこから遠くから体の芯を揺らすような音も聞こえて来る。
何か良くないことが起こっているのは本能的に分かった。でも、身体を起き上がらせるのがやっとで、僕はそこから一歩も動くことが出来なかった。酷く濁った不安だけが止まることを知らずに身体全身を駆け巡るようで、僕は流されぬよう、それこそしがみつくように布団を強く握るので精一杯だった。
だから、僕の部屋に『ナンバー8904。無事ですか』とミシェルがやって来てくれた時、本当に安心した。僕は「ミシェル、ミシェル!」と、泣きつくようにミシェルの名前を繰り返し、ミシェルの手を強く握った。ミシェルは『大丈夫』と、僕の手を握り返してくれた。
そしてミシェルは僕の目を見てこう言ったのだ。
『ナンバー8904。この場所に留まるのは危険だと判断します』
そこから、どんな道を駆け抜けてこの場所に辿りついたのかは上手く思い出せない。
僕はとにかく無我夢中だった。いつもなら明かりがついている部屋は、今暗闇に満ちている。
僕は、前を行くミシェルの手を離さないようにしているのが精一杯だった。置いて行かれないよう、足を動かし続けるので精一杯だった。
『他のロボットと通信ができません』
他のロボット。
『西棟へ繋がる通路を目指します』
西棟。
『救難信号を送信します』
救難信号。
『ナンバー8904。大丈夫です』
ナンバー8904。
ミシェル、結局僕は何なのだろう。
自身の乱れた息遣いが酷く耳に残る。コツコツと、足音が響いている。
周囲の音と僕の音が混ざり合う。
そして混ざり合った音は唐突に、プツリと切れるように途絶えた。
「ん……!」
轟音。
何もかもが壊れて行く。
僕は思わず目を瞑った。
それが、世界が大きく切り替わる瞬間だった。
「なに……これ?」
空。
黒い空。
頬を刺すような冷たい風。
風に乗って舞う白い粒。
『雪です』
「雪……?」
掌の上に舞い落ちたそれは、音も無くどこかへ消える。
『この先、西棟へ続く通路が崩壊したようです。崩壊に巻き込まれていたら、私たちも無事ではなかったでしょう』
顔を上げれば、むき出しの鉄骨の向こう側に、黒い空が見える。鉄骨の隙間を縫うように、黒い空から雪が降り、それが僕の頬の内側に溶け込んでいく。
「ミシェル」
『はい』
「これが、外の世界なの?」
『はい。ですが、私の知っている世界の様相とは大きく異なっています。建物はすべて朽ち果てています。この地域は、雪の降らない地域のはずです。ですが、雪が降っています。そして何より、周囲に人間の反応が見られません。これは、異常事態だと考え……』
外の世界。憧れの場所はすぐ傍にあったのだ。
黒い空と白い地。
ふと、何回も死に、その回数だけ生きた黒い猫の話が頭を過る。
自由だった。壁なんてものはどこにもない。黒い空と白い地が際限なく広がっている。
自由を目の前にした黒い猫は何を思ったのだろう。
「ミシェル」
この先のことを、僕は未だ知らない。
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