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 いつの日か、ミシェルは僕を生物だと言った。ミシェルはロボットで、僕は生物。だから僕は、ミシェルとは違う存在なのだと思う。


 ロボットはロボット。生物は生物。ロボットに死はなくて、生物には死がある。そこには明確な違いがあった。なら、ミシェルは僕にとってどういう存在なのだろう。逆に、ミシェルは僕のことをどういう存在なのだと思っているのだろうか。


 家族、というものがある。ミシェルはいつの日か、ミシェルと僕は家族だと言った。でも、絵本だとか、小説の中で度々登場してくる家族というものは、ミシェルと僕の関係性とは異なるものだった。少なくとも、ロボットと人間が家族として描かれていた絵本や小説はどこにもなかった。


 そんな風に、最近の僕は、昔考えもしなかったことを考えるようになった。


 僕は何者なのか。ミシェルは僕にとってどんな存在なのか。家族というのはどういうものなのか。友達というのはどういうものなのか。特に、ベッドに入った後に考えてしまう。あれこれと考えて、胸の奥底に何か黒く重たいものが積もって行く。


 白く高い天井。白いベッド。白い机と椅子。白い本棚と、その本棚に収まっている絵本や小説。白い扉。扉の先に広がっているのは運動をする時に使う何もない白い部屋。そしてミシェル。


 僕のすべてはそんなものだった。つまり僕は、これら以外のことを知らないのだ。

僕は僕以外の人間を知らない。空や海、星空、森、花々の美しさを知らない。


 絵本や小説の登場人物はいつだって一人じゃあなかった。誰かと手を繋いだり、泣いたり、笑ったりしていた。「綺麗だね」と、誰かと一緒に星空を見上げたり、朝日を見つめていたりしていた。その誰かは、時には家族であったり、時には友達であったり、時には好きな人であった。でも、僕の傍には誰もいない。星空の美しさも、朝日の美しさも僕は知らない。寂しい時はミシェルが傍にいてくれる。嬉しい時はミシェルが一緒に喜んでくれる。星空や朝日の美しさも、ミシェルは教えてくれる。けれど、それでも僕は、やはり友達だとか、本物の星空や朝日、そういうものに憧れているのだと思う。


「…………」


 一度考え始めると、それは止まることを忘れてどんどん前へ進んで行く。募って、憧れが大きくなっていくのが分かる。そう言う時は、本棚にある絵本や小説を手に取って、その本の中にある世界に触れるのが僕の習慣だった。


 枕元の明かりを灯し、本棚から一冊の本を手に取ってページをめくる。


 本の中に広がる世界は、僕にとって憧れそのものだった。


 主人公は決して一人では無かった。主人公の周りには友達や恋人、家族がいる。


 主人公は、そんな友達や恋人、家族と一緒に美しい景色を目にする。


 太陽は眩しいと主人公は言った。青い空は遠く澄んでいると主人公は言った。美しく輝く星にも、それぞれ色があるのだと主人公は言った。


 僕は、いつだって一人で、音も立てずに頭の中で想像するしかなかった。僕は、決して本の中の登場人物と言葉を交わすことは出来ない。彼らが目にしている美しい景色をこの目で見ることは出来ない。


 この部屋には憧れが詰まった箱が数えきれないほど本棚に収まっている。寂しい時は、こうしてその箱を開け、憧れの世界に触れるのだ。


 触れている間はよかった。箱を閉じた途端、思い出したかのように寂しさが込みあがって来るのが、僕の胸の奥底を締め付ける。


 友達が欲しい。美しい景色を一緒に見たい。美味しいものを一緒に食べたい。何気ないことで笑い合ったり、悲しい時は一緒に泣いたりしたい。


 僕にはミシェルがいる。ミシェルは優しい。僕のことを大切にしてくれる。僕が寂しい時は頭を撫でてくれたり、手を握ったりしてくれる。でも、ミシェルは一緒に美味しいものを食べてはくれない。笑ってはくれないし、泣くこともない。


 それに美しい景色なんてここには無かった。僕は一度もそれらを目にしたことがなかった。あるのはただ、真っ白な部屋と、両手で足りる程度の家具と、無数の本だけ。だから、本当に空だとか、星だとか、そういうものがあるのかも僕には分からない。


 一度でいいのだ。一度でいいから、僕は誰かに会って話をして、「綺麗だね」と言い合ってみたい。泣いたり、笑ったりしてみたい。


 本を閉じて、本棚に戻し、ベッドの上で夢想する。憧れて、願って、そうしているうちに、いつしかプツリと自分が途切れてしまうかのように眠りに就くのだった。


 そして気が付けば『おはようございます。ナンバー8904』というミシェルの声で目を覚ます。


 そうやって一日が始めるのだ。朝食はミシェルが用意してくれたものを食べて、それからはミシェルに文字の読み書きや計算の仕方、機械について教えてもらう。お昼を食べた後は、隣の何もない白い部屋で運動をし、自室で本を読み、夕食を食べて一日が終わる。


 そんな毎日が、僕は嫌いではなかった。むしろ楽しかった。ミシェルと一緒に居る時は寂しくないし、文字の読み書きだとか、計算、機械について学ぶのは楽しかった。運動だって、ミシェルと一緒にしている。


 でも、例えば一人でご飯を食べている時だとか、勉強中に何気なく周りを見渡した時だとか、そういうふとした時に黒い影が射す。最近は、その影が射す回数が次第に多くなって来ている気がする。今だって、夕食を食べ終えてふと周りを見渡し、「ああ、誰もいないんだ」と、胸の内に、黒い染みがポツリと一滴落ちる様だった。


『ナンバー8904。最近顔色が優れないようですが、何か悩み事ですか?』


 これまでも、ミシェルはこんな風に僕のことを気にかけてくれた。ミシェルは本当に僕のことをよく知ってくれている。何なら僕よりも僕のことを知っているんじゃあないのかと、そんな事を思ってしまうほどに、僕が何か悩んでいたり、辛かったり、悲しかったりする時に、こうして優しく声をかけてくれる。


「ミシェル。こんなことを言うのは、ミシェルに悪いような気がするんだ」

『ナンバー8904、大丈夫ですよ。悩まずに、私になんでも言ってください』


 ミシェルは僕の頭を撫でてくれる。ミシェルが頭を撫でてくれると、不思議と安心する。安心するからこそ、なんだか余計に物寂しくなった。


「僕はミシェルが大好きだよ。いつも優しいし、こうやって僕のことを気にかけてくれる。でもね、時々寂しいって思ってしまうんだ。絵本や小説の登場人物は一人じゃあなくて、友達だとか、好きな人だとか、家族だとか、そういう人と一緒にいる。誰かと一緒にいて、誰かとご飯を食べたり、笑ったり泣いたり、空や海、星空を一緒に眺めて綺麗だねって言い合ったりしている。ミシェル、どうして僕は独りなの?」


 ミシェルの黒い目が、ジッと僕のことを捉えていた。ミシェルのその黒い目には僕が映っている。ミシェルはいつも同じ顔だ。ミシェルはいつだって優しい。そう、いつだって優しかった。


『ナンバー8904。それだけは私にもどうすることは出来ません』


 そう言って、ミシェルは僕を優しく抱きしめる。


『私はナンバー8904と一緒にご飯を食べることは出来ません。私は笑うことも、泣くことも出来ません。私はあなたに、絵本や小説に出てくるような空や海、星空を見せることは出来ません』


 ミシェルは『申し訳ありません』と僕に謝る。


「ううん。ミシェルが謝らなくていいんだ」


 ミシェルが謝る理由なんてどこにもない。ただ、僕が我慢すればいいだけのことだった。友達も、綺麗な景色も、すべては本と夢の中にだけしかないものなのだと僕が受け入れさえすればいいだけだ。憧れは憧れのまま、それこそ雲のようなもので、僕には絶対に手が届かないものなのだと、その事実を受け入れればいいだけだ。


「ごめん、ミシェル。変なことを聞いて、ミシェルを困らせてしまって」

『いいのです。ナンバー8904』


 ミシェルは僕のことを見つめる。そうして、『ナンバー8904。突然ですが、あなたは自分が何歳なのか分かりますか?』と、唐突にそんな事を尋ねて来る。


「何才か?」

『はい。そうです』


 僕の年齢。


「分からない」


 僕はミシェルのその問いかけに答えることが出来なかった。


『そんな怖い顔をしないでください。大丈夫。ナンバー8904、あなたは今日、十三歳になります。そして、十三歳になったあなたに、私はある一つのことを教えなければなりません』


 十三歳。ミシェルは『今日、十三歳になります』といった。


 僕は、やっぱり僕のことを何も知らなかった。自分の年齢を知らない。自分の誕生日も知らない。友達がいないのも、空や星、朝日をみることが出来ないのも、それは仕方のないことなのだとしても。でも、それでも僕は確かに今ここにいるのに、僕は僕のことを何も知らないだなんて、それはとてもおかしな話だ。それはとても悲しい話のような気がした。


「僕に教えたいことって、なに?」


 ミシェルが僕に教えたいことというのは、それは僕に関してのことだろうか。ミシェルはただ一言、『ついて来てください』とだけ言って、僕の手を取り部屋の扉を開ける。僕はミシェルに手を引かれるままに、後を追った。


 部屋の外。何もない真っ白な空間。普段運動をする時に使う部屋。僕は、この何もない広く白いだけの部屋と、普段眠ったりご飯を食べたり、勉強や本を読んだりしている、先ほどまでいた部屋以外知らない。


 募りに募った憧れを抑えることが出来なくなって、この部屋の先が無いかミシェルには黙って調べたことがあったけれど、その時には出口だとか、扉だとか、そういうものを見つけることは出来なかった。


 それなのに、ミシェルは静かにある場所へと向かっているようだった。一体どこへ向かっているのだろう。


「ミシェル、どこへ向かっているの?」

『あなたが生まれた場所です。そして、いずれまたあなたが還る場所です』

「僕の生まれた場所?」

『はい』


 僕にも生まれた場所がある。ミシェルの言葉は、なんだか僕には酷く現実味の無いものに感じられた。僕は僕が生まれた場所を知らない。でも、ミシェルは知っているんだ。僕が生まれた場所を知っている。本当に、ミシェルは僕以上に僕のことを知ってくれている。


 ただ、『還る場所』という言葉が意味するところを僕は理解できなかった。だから僕は「還る場所って?」と僕の手を引くミシェルを見つめながら尋ねると、ミシェルは振り返りことなく『それは、あなたが生まれた意味なのです』と答えてくれる。


 僕が生まれた意味。そんなものがあるのだろうか。やはり僕には分からない。

 続けるように、「僕が生まれた意味って?」と尋ねようとしたところで、ミシェルは『ここです』と言って立ち止まった。


「ここ? 何もないよ?」


 僕等はまだ、何もない真っ白な部屋の中にいる。目の前には見慣れた壁。一体どこに、僕が生まれた場所があるのだと言うのだろう。まさか、こんな場所で僕は生まれただなんて、そんな事があるはずもないだろう。


「ミシェル?」


 ミシェルは黙ったまま壁に手を当てる。すると、壁に忽ち青白い線が浮かび上がった。浮かび上がった線は壁の四方へ駆けて行き消えた。そして、駆けた線が消えたすぐ後、なにもなかった壁に音も無く出入り口が現れる。


『この先です』


 目の前に現れたそれは、暗闇だった。先が何も見えない。ただ不気味と大きな口を開けている様に僕には見える。普段過ごしているこの部屋に、こんな別の場所へ繋がる出入り口があるなんて、僕は知らなかった。


『心配することはありません。さあ、行きましょう』

「う、うん」


 ミシェルの手を取って、現れた暗闇の中に足を踏み入れる。


 暗闇の先に繋がっている別の場所というのが、僕が生まれた場所なのだという。そして、そこは僕の還る場所でもあり、そこには僕が生まれた意味があるのだとミシェルは言った。


 驚きも、戸惑いも、不安もある。それらが混ざり合って、ただただ怖い。ミシェルの手をギュッと握る。ミシェルの手だけが、僕を支えてくれているようだ。後ろを振り返ると、出入り口から差し込む明かりはどんどん小さくなっていく。前にあるのは暗闇だけ。少し前を行くミシェルの姿さえも、僕は捉えることが出来ない。


「ミシェル、そこにいるよね」『はい。私はここにいます』そんなやり取りを数回繰り返すうちに、ミシェルはとうとう暗闇の中で立ち止まる。


「ミシェル?」


 声が震えているのが自分でも分かる。それから、パッと周囲が明るくなって、僕は思わず目を瞑ってしまう。


 それから数度瞬きをして、ようやく辺りの様子が分かった。


 小さな部屋だ。同じように真っ白で、小さな部屋。そしてその部屋の中央に何かが置かれている。


「ミシェル、ここが僕の生まれた場所なの?」

『はい。そうです。ナンバー8904。あなたはここで生まれました』


 ミシェルが指さすのは、中央に置かれた何か。それはカプセル型の容器のようで、静かに床に横たわっている。近づいて見ると、ちょうど人が一人入ることが出来るくらいの大きさで、中身は空っぽだった。


『ナンバー8904。あなたはここから生まれました』

「ここから?」


 この何もないカプセルから、僕は生まれた?


『ナンバー8904。あなたは明確な意味を持って生まれました。あなたは望まれて、誰かの役に立つために生まれたのです』

「それが、ミシェルが僕に教えたかったこと?」


 ミシェルは僕の方に近寄って、優しく僕を抱きしめる。


『三年です。三年後、あなたはこのカプセルに入り眠りに就きます。そうすることで、あなたは役目を果たすことが出来ます。ナンバー8904、あなたは友達が欲しいと言いましたよね?』

「うん」

『ナンバー8904。あなた自身が友達を作り、誰かと同じものを眺め、泣いたり笑ったりすることは叶いません。ですが、あなたは、そんな誰かを助けることが出来ます』


 ミシェルは僕の肩に手を添えて、それからジッと僕の目を見てこう言った。


『それが、あなたが生まれた理由。そして私の役目は、あなたがその日を迎えるまで、あなたを立派に育てることなのです』


 ミシェルの言うことはいつだって正しい。ミシェルがそういうのなら、きっとそうなのだ。


 三年後、僕はこの場所で眠りに就く。それが僕の役目で、生まれた意味で、そうすることで僕は誰かの役に立つことが出来る。


 不思議と、ミシェルの話を聞いて僕は安堵していた。どうしてだろうと少しだけ考えたけれど、その理由はすぐに分かった。今まで僕は、どうして自分が生まれたのかだとか、何のために生きているのかだとか、何も知らずにただミシェルと時間を過ごしてきた。それが不安だったのだ。存在意義、とまではいかない。ただ僕は僕のことを知りたかった。それが今、何よりミシェルの口から直接知らされたんだ。


 これは良い事なのだ。僕は誰かの役に立つために生まれた。憧れを手にすることは出来ないけれど、僕は誰かを助けることが出来る。それが、僕が生まれた理由。


 でも、どうしてだろう。僕の目には、ミシェルが悲しそうに見える。


「ミシェル?」


 ミシェルはただ、『ナンバー8904』と名前を呼び、優しく僕を抱きしめるのだった。

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