第一章

1-1

「ミシェル、これはなんて言うの?」

『これは猫と言います』

「ねこ。ねこってなに?」

『ナンバー8904と同じ生物です』

「せいぶつって?」

『生まれ、生きて、繁栄し、死にます』

「じゃあ、この絵本に登場するねこも、いつかは死んでしまうの?」

『どうでしょう? ナンバー8904はどう思いますか?』

「分からない。でも、このねこはとても悲しそう」


 表紙のねこは、とても悲しそうだった。ジッとボクのことを見つめ、何かをボクに伝えようとしているような気さえする。ほんの少しの間、ボクは絵本の表紙にいる黒いねこから目を離すことが出来なかった。


『さあ、読んであげましょう』


 ミシェルはページをめくる。

 その黒いねこはとても好かれていた。あらゆる人間に好かれていた。でも、とうの黒いねこは、自分に向けられる愛情に無関心であった。時に、愛情を注いでくる相手に嫌悪感さえを抱いていた。

 ミシェルの言った通り、生物である黒いねこは死んでしまった。黒いねこの飼い主は、死んだ黒いねこを抱きかかえ「悲しい」となみだを流した。


「ミシェル、死ぬってどういうことなの?」

『難しい問いです。私にもわかりません。私は生物ではありませんから、ナンバー8904と同じ死というものに直面することはないのです』

「そうなの? ミシェルにも分からないことがあるの?」

『はい。私にだって分からないことはあります』

「じゃあミシェル。ボクも生物っていうのなら、いつか死んでしまうの?」

『はい。その通りです』

「ミシェル、その時ミシェルは、この飼い主みたいに悲しいと思ってなみだを流すの?」

『ナンバー8904、私は涙を流せません。悲しいという感情も、私には分かりません』

「そうなの? ボクは悲しいよ。ミシェルがいなくなったら、ボクは悲しい」

『大丈夫。私はいなくなりません。ナンバー8904の傍にいます』

「うん。ありがとうミシェル」


 黒いねこは、沢山生きて、その生きた回数だけ死んでいった。黒いねこは愛されていた。しかし黒いねこにとって向けられる愛情は煩わしいものであった。そしてある日、黒いねこは誰の物でもなく、自由に世界をかけ回ることを選び、自分を取り戻した。

 自由に世界をかけ回る中で、黒いねこは白いねこに出会った。今まで愛情を注がれて生きて来た黒いねこは、初めて愛情を注ぐ側になった。

 しかし、白いねこもまた生物だった。生物はいつか死んでしまう。黒いねこが愛情を注いだ白いねこは、ある日二度と起き上がらなくなった。

 そこで初めて、黒いねこは本当の悲しみを知った。嫌悪感さえ抱いていた、かつての飼い主と同じように、黒いねこは動かなくなった白いねこを抱きかかえ、大声を上げて泣く。

 愛することと、本当の悲しみを知った黒いねこは、もう二度と起き上がることはなかった。


『おしまいです。ナンバー8904、どうでしたか?』

「よくわからない。でも、良かったって思う」

『そうですか。それはよかったです』


 それからというもの、ボクはこの黒いねこの絵本が一番のお気に入りになって、一日に一回、必ずミシェルに読み聞かせて欲しいとせがんだ。ミシェルは『いいですよ』と答えてくれて、ボクに絵本を読み聞かせてくれる。

 もちろん、この黒いねこのお話だけではなくて、ミシェルはボクに色々な絵本を読み聞かせてくれたし、質問にも答えてくれた。


「家族ってなに?」とボクが尋ねると、『私とナンバー8904のような間柄のことを指します』と答えてくれた。

「ともだちってなに?」とボクが尋ねると『親しい他者をそう呼びます』と答えてくれた。

「そらってきれいなの?」とボクが尋ねると、『遠い昔、一度だけ見たことがあります。あまり綺麗ではなかったです』と答えてくれた。


 そんな風に、ミシェルはボクに色々なことを教えてくれる。毎日毎日、ミシェルはボクに絵本を読んでくれて、一緒に遊んでくれる。

 白いベッドの上で目を覚ませば、必ずすぐそばにミシェルはいてくれる。

 白いベッドの上でボクがねむるまで、必ずそばにミシェルはいてくれる。


「ミシェル。ボクは毎日たのしいよ」

『それは良いことです』


 ボクは、ミシェルがいてくれればそれでよかった。

でも、ときおりむねの真ん中あたりが苦しくなった。とくに、明かりが消えて白いベッドの上でとても高い天井を見ている時、なんだかとても苦しくなった。

 そんな時、ボクは「ミシェル」と名前を口にする。するとミシェルは『はい』と答えてくれる。むねが苦しい時は、そんなやり取りを何度もくりかえして、ボクはねむりについた。

 ねむりにつくまでの間、ミシェルはボクの手をにぎってくれる。

 ミシェルの手は冷たい。冷たくて硬い。

 それでも、ボクにとっては温かかった。

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