エブリシング

 経緯は自分でもよく分からないが、とにかく、俺はその人物を殺さなければならないのだった。その人物の名は、川端吉秋。どこにでも転がっているような中年男で、ある人物が慣れ果てた姿だ、と聞いている。

 海岸沿いの駅で電車を降り、街道を西へ進むと、すぐに目的の病院が見えた。古びた五階建ての建物。川端吉秋の病室は三階にある、という話だった。

 建物に入る前に上着のポケットを探ると、果物ナイフの柄が指に触れた。水溜まりに映る俺は、ニット帽を目深に被り、マスクを着用している。川端吉秋を殺す準備は万全、というわけだ。

 出入り口の自動ドアを潜ろうとして、その両サイドに狛犬よろしく二つの物体が置かれているのが目に留まった。発育のいい幼稚園児ほどの背丈で、全身が乳白色。観音菩薩像と言えばいいのか、聖母マリア像と言えばいいのか、とにかく人を象った置物だ。なんでこんなところにこんなものが、と訝しく思ったが、今は置物について考察している場合ではない。自動ドアを潜り抜ける。

 瞬間、二体の置物が赤く明滅し、けたたましい警報音を撒き散らし始めた。金属探知機だったのか! 建物の奥から、複数の足音が慌ただしくこちらに近づいてくる。回れ右をして全速力で病院から遠ざかった。

 どれだけ走ったか分からない。気がつくと俺は、人気のない砂浜を歩いていた。振り返ったが、追いかけてくる者はいない。その場に腰を下ろし、深く息を吐く。

 顔を上げると、ミーシャが歌を歌っていた。

 いや、違う。実物大のミーシャの顔写真の切り抜きを顔に貼りつけた女が、ラジカセでミーシャの音楽を流しながら、口パクしているのだ。曲は「エブリシング」。

 歌が上手いなぁ、流石はプロの歌手だなぁ、と思いながら、俺は曲が終わるまで砂の上に座っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る