くさっ! 口、くっさ! お前の口、マジで臭いんだけど。ドブみたいな臭いがすんだけど。みたいっていうか、ドブそのものの臭いがすんだけど。ていうか、なんでそんな――くさっ! いや、ちょっとマジで、冗談抜きで臭いんだけど。……ていうかさあ、お前、喋んなや。言い訳とか、しなくていいから。お前の口、誰が嗅いでも明らかにくせぇし、喋るたびにくっせぇドブの臭いが漂ってくんだよ。ああ、くっせぇ、くせぇ。俺の前で二度と喋んじゃねぇ、このドブ野郎!


 眠りから覚めた伸男は、布団の中でさめざめと泣いた。

 高校一年生の春に、クラスメイトの畑本から罵倒された記憶が、夢という形をとって脳裏に甦ったのだ。

 不良の畑本は、虐める相手として、大人しい伸男に狙いを定めた。だが伸男は、他人から公然と非難されても仕方がないような欠点を持っていなかった。そこで畑本は、「口が臭い」という短所を捏造し、攻撃の材料にしたのだ。

 それ以来、伸男は人と上手くコミュニケーションが取れなくなった。それが原因で彼は高校を中退し、自室に引きこもった。現在、三十歳になった彼は、叔母が経営する飲食店で雑用係として働きながら、日々を細々と、なんの楽しみもなく暮らしている。

「すみません。体調が思わしくないので、今日はちょっと、仕事は休ませてもらいます」

 伸男は叔母にそう連絡を入れ、アパートの自室を発った。最寄り駅から各駅停車に乗り、「沼地公園前」で下車する。閑散とした公園の遊歩道を北へ北へとひた進む。「立ち入り厳禁」と注意書きされたフェンスを乗り越え、悪臭を発する巨大な沼に足を踏み入れる。声を上げずに泣きながら、腐敗した泥が鼻と口を塞いで呼吸が出来なくなるまで、深みに向かって歩き続ける。

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