分厚い黒雲が空を覆い尽くした、暗い、暗い夜だった。俺は生温かい風を肌に感じながら、永眠したように静まり返った町を一人で歩いていた。

 曲がり角を曲がろうとした時、目の前に人が飛び出してきた。暗くて顔は分からないが、どうやら若い男らしい。

「俺はニートだ! 文句あるか!」

 いきなり男が怒鳴った。興奮したような声だった。発言の真意が掴めず、唖然とその場に立ち尽す。

「俺はニートだ! 現在働いていないし、今後働く気もない! 文句あるか!」

 どう返答していいか分からない。質問の意図と正答の行方はともかく、男が関わるべきではない、危険な人物なのは確かな気がした。

「……文句はないよ」

 小声で呟き、足早に男の横を通り抜けようとした。

 刹那、脇腹に激痛が走った。反射的に痛みの発生源に利き手を宛がった。指先に生温かいぬめりを感じた。血だ。男に刃物で刺されたのだ。理解した瞬間、大地を踏み締める両足の感覚が失われ、俺は地面に倒れた。

 傷口に宛がった十指の間を血がすり抜けていく。全身の震えが止まらない。男の存在が、死ぬことが、恐ろしくて堪らない。懸命に唇を動かし、殺さないでくれ、命だけは助けてくれ、と嘆願を繰り返す。生殺与奪の権を握る男の顔色を窺おうと、精いっぱい首を持ち上げた。

 その時、夜空を覆っていた黒雲が左右に割れ、十六夜の月が姿を現した。月光が男の顔を照らし出した。

 俺の顔と瓜二つだった。というよりも、俺の顔そのものだった。

 俺がさっき呟いた答えは、誤りだったのだ。だから俺は俺に刺されたのだ。

 後悔が津波のように押し寄せたが、もう遅い。急速に薄れゆく視界の中、もう一人の俺が冷然と俺に背を向けた。

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