靴紐
地下鉄を下車した亮は、改札へ向かう人波の一部となって駅の階段を上り始めた。
階段の中程に差しかかった時、右足の靴紐がほどけていることに気がついた。結び直そうとしたが、現在彼は幅の狭い階段を上っている最中で、後方から大勢の人々が押し寄せてきている状況だ。足を止めて作業を行えば、後続に迷惑がかかる。そう判断し、靴紐には手をつけなかった。結び直す作業は、階段を上りきり、通行人の邪魔にならない場所に移動してから行えばいい。
「もしもし、靴紐がほどけていますよ」
ところが、隣を歩いていた中年女性がそう声をかけてきた。靴紐がほどけていることは知っていますよ、という風に微苦笑してみせたが、女性は眉をひそめ、亮の顔と靴を交互に見た。お節介なのか、それとも、単に神経質なだけか。女性は亮がこの場で靴紐を結び直さなければ気が済まないらしい。
亮は舌打ちしたい気持ちを押し殺し、その場に屈んで靴紐に手を伸ばした。
瞬間、亮の後ろを歩いていた人物の膝頭が彼の背中を直撃した。
振り向いた亮を、彼と同年輩と思しい男性が睨みつけた。
「こんなところで靴紐結んでんじゃねぇよ。通行の邪魔だろうが」
血潮が逆流した。体がひとりでに動き出した。懐からナイフを取り出し、刃を男性の胸に突き刺した。
ナイフを胸に残したまま男性が崩れ落ちた。痙攣する体の下で血溜まりが面積を広げていく。惨事を目の当たりにした者の口から次々に悲鳴が上がる。恐怖は瞬く間に伝染し、階段一帯は阿鼻叫喚の巷と化した。
体の向きを九十度回転させると、中年女性の青ざめた顔が視界に映った。
亮は靴から靴紐を抜き取り、女性の首に巻きつけ、渾身の力で左右に引っ張り始めた。
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